【天候】 曇り一時雨
【宿場】 (22)岩村田宿 ⇒ (23)塩名田宿 ⇒ (24)八幡宿 ⇒ (25)望月宿 ⇒
(26)芦田宿
【行程】 歩行距離=15.6㎞ 総距離=188.56㎞
佐々木宅前十字路 ⇒ (0.35㎞) ⇒ 043平塚一里塚跡 ⇒ (4.1㎞) ⇒ 044御馬寄一里塚跡 ⇒ (4.35㎞) ⇒ 045瓜生坂一里塚跡 ⇒ (5.25㎞) ⇒ 046茂田井一里塚跡 ⇒ (1.55㎞) ⇒ 金丸土屋旅館前
【ルート図】
↓宿場(桃色=第12回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第12回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今回の旅は佐久平駅から下諏訪駅までの約52㎞を歩きますが、この区間には鉄道がないので、街道沿いの旅館に泊まるか、旅の区切りの処まで送迎してくれる旅館に泊まりながら旅をすることになります。
また、街道旅は舗装路の炎天下を歩くことが多いため、真夏の7月と8月は旅を控えるのが一般的で、私達2人も同じように旅を休み、9月から再開することにしました。
〔アクシデント〕
旅の行程は、5月にMさんと相談し、計画を立てました。
今回の旅は行楽期の3連休になるため、早めに往復の指定席切符を確保する必要があると考え、8月下旬に切符購入を予定しました。
ところが7月末にMさんご夫婦が山歩きに出掛け、その道中で奥さんが転倒し、大腿部を骨折してしまい救助隊に搬送してもらって下山し、そのまま近くの病院に入院しました。
怪我はMさん本人ではありせんが、奥さんの介助のため回復具合で旅の計画を見直さなければならなくなり、8月下旬の切符購入を取り止め、9月上旬に改めて旅の実施有無について話し合うことになりました。
〔計画〕
9月上旬、Mさんと今後の計画について話し合い、私は「無理しないで計画を先送りしても良いので、9月の旅は取り止めてもいいですよ」と話しましたが、Mさんは「計画を先送りしたくないので、予定通りに行いたい」とのことで、計画通りに実施することになりました。
※9月~12月は各月2泊3日の行程で12回の旅を行う予定にしており、その間に泊まる宿(8ケ所)は全て予約を済ませており、変更になると8ケ所全部の変更が必要になります。
旅を計画通りに行うことになり、直ぐに9月旅の指定席を取る必要があり、打合せの後、ジバング切符を買いに行きました。
往路は当初予定していた新幹線は満席でしたが、1本前の新幹線に変更したため、並び席で取れました。
復路は希望した列車が満席だったため、1本前の上諏訪駅からの指定席を取ることができました。
やはり想定した通り、9月の行楽期三連休で良い時間帯の指定席は売り切れていました。
旅はMさんの奥さんの回復具合によって中止ということが想定されていたので、出発することになりホッとしました。
〔順延〕
旅の直前になって台風18号が襲来する状況となり、いくらなんでも台風の時の旅は無理なので、前日の9月15日にMさんと協議することになりました。
Mさんと会って旅の日程について話し合うと、
・台風が来る
・Mさんの奥さんが肺炎を発症し、家に居てほしいとの要望がある
などから9月の旅は中止し、10月予定の日程に順延することになり、11月以降も順繰りに先延ばしすることになり、購入済みの切符を購入した旅行社で変更し、宿は分担して宿泊の変更を行いました。
〔支度〕
今回の旅は二泊三日の行程で行うため、必要な着替え、携帯やカメラの充電器、昼食(おにぎり=食堂が見付からない時を考え)、水分を1㍑以上、スパッツなどを持参します。
また、靴は土道で標高差が500mの和田峠を歩くので、トレッキングシューズを考えたのですが、全行程の75%が舗装路であることを考え、ウォーキングシューズにすることにしました。
《移動》
今回は前回の旅と同じ時間の電車で移動するため、前日の内に旅の支度を整え、いつもより約1時間早く起き、ベランダから外の天気を確認すると雨が降っています。
出掛けるまでに雨が止むのを期待しながら朝食(焼き餅)を食べ家を出発しましたが、期待どおりには物事は進まず雨は降り続いており、ザックカバーを掛け、傘を差し歩いて最寄り駅に向かいました。
最寄り駅にはMさんが先に来てザックの点検を行っており、挨拶して合流し、出発地の佐久平駅に向かいました。
08時18分、佐久平駅着
北陸新幹線佐久平駅で下車し、トイレを済ませてから立科口を出て、県道44号の佐久平駅南口交差点を渡り、農道通り、約1㎞離れた出発地に到着しました。
7月3日以来、3ケ月振りに出発地に立ち、まず前回旅の到着式を行い、引き続いて今回の出発式を行って旅に出発しました。
※前回はここまで旅をする予定になっていなかったため、到着式に使う標板がなかったので、今回の旅の前に標板を掲げて記録に残しました。
【=旅=】
08時36分、岩村田宿・佐々木宅前十字路(出発地)
出発地から約150m歩くと左側に信州名物のリンゴ園があり、沢山のリンゴが実を付けていました。
※リンゴ園(左側)
リンゴ園から約60m歩くと、右側に中北道標(塩名田3.6㎞・追分11.7㎞)が建っていました。
08時40分、中北道標(右側)
道標の先の信号のある交差点を横切り約90m歩くと、浅間山の湧水が流れる濁川に掛かる砂田橋があり、資料に橋を渡った先に一里塚跡があると記されていましたが確認できませんでした。
※043平塚一里塚跡付近
平塚一里塚跡付近から約70m歩くと、右側に荘山稲荷社があり、道路から参拝し先に進みました。
08時43分、荘山稲荷社(右側)
荘山稲荷社辺りで雨が少し降ってきたので、約100m先の中部横断自動車道のガード下でザックカバーを再度取り付け、ガードを出て処から約400m歩くと左側に山木屋味噌醤油店がありましたが、営業していませんでした。
08時53分、山木屋味噌醤油店(左側)
山木味噌醤油店から約400m歩くと、左側に百万遍供養塔があり、約20m先の石垣の上に石仏石塔群がありました。
08時59分、百万遍供養塔(左側)
※石塔群(左側)
石仏石塔群から約270m歩くと、右側に諏訪神社があり、参拝に立ち寄りお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅の御加護をご祈願しました。
そして、衣服調整(合羽上着を脱ぐ)、帽子からバンダナに交換しました。
また、参道口右側に男女道祖神が建っていました。
09時04分、諏訪神社(右側) ※男女道祖神
諏訪神社を出ると、右側に濁川用水があり、豊かな水量が流れていました。
※濁川用水(右側)
諏訪神社から約290m歩くと、右側に如意輪大王碑が建っていました。
09時14分、如意輪大王碑(右側)
大王碑から約170m歩くと、左側に大きな岩の上に石碑が建っていました。
09時16分、石碑(左側)
石碑群から約400m歩くと、左側に貞観8年(866)創建で信濃五山の一つで若い修行僧の学問寺だった妙楽寺があり、立ち寄りました。
09時23分、妙楽寺(左側)
妙楽寺入口から約210m歩くと、Y字路分岐があり、左側を進みます。
①分岐=左側 ②道なりに右方向
③黄矢印=旧街道、白矢印=駒形神社
駒形坂に合流する手前を右側(③の白矢印)に下ると、神社の参道となり、階段を上った左奥に本殿が建っていました。
09時34分、駒形神社(右側)
駒形神社から参道入口に戻り、右側に約40m進むと旧中山道に合流し、さらに30m歩くと分岐となり、右側の土道(駒形坂)を進みました。
※①分岐(右側) ※②土道
※③合流(右折)
合流から約550m歩くと塩名田交差点があり、ここが塩名田宿の江戸口で、交差点の手前左側に塩名田宿碑と中北道標が建っていました。
09時44分、塩名田宿江戸口
また、塩名田宿を防備するため街道をくの字にした枡形道にしてありました。
※枡形道
塩名田交差点を渡る辺りから雨が強く降り始めてきたため、ザックから折畳み傘を出し、傘を差しての旅になりました。
雨が降ると濡れないようにクリアファイルに街道地図を差し込みます。
差し込んだだけなら良いのですが、約800mごとに街道地図を入れ替えるのですが、傘で片手が使えなくなるため、雨に濡れないところを探しながら入れ替えなければならないので大変です。
塩名田交差点から約180m歩くと、左側に総合食品店・大井屋があり、ここが丸山善兵衛本陣跡で、店名看板の下に本陣を記す看板が掲げられていました。
09時48分、丸山善兵衛本陣跡(左側)
本陣の真向いに中津村道路元標が埋設されていました。
10時49分、中津村道路元標(右側)
道路元標から約70m歩くと、右側に塩名田バス停があり、バス停の脇に丸山新左衛門本陣跡があり、「問屋・本陣」の看板が掲げられていました。
09時50分、丸山新左衛門問屋・本陣跡(右側)
本陣跡の隣りに高札場跡があり、解説パネルが建てられていました。
09時51分、高札場跡(右側)
高札場跡から約30m先の左側に、天保2(1831)年の建築で宿内最古の町屋の佐藤半左衛門住宅(旧屋号・坂越九郎右衛門)がありました。
09時52分、佐藤半左衛門住宅(左側)
佐藤半左衛門住宅の隣りに白壁土蔵の家があり、記録に残しました。
※白壁土蔵の家(左側)
白壁土蔵の家の隣りに、江戸末期に建築されたえび屋豆腐店がありました。
09時55分、えび屋豆腐店(左側)
えび屋豆腐店から約60m歩くとY字路分岐があり、右側の坂を下ります。
※分岐(右側)
坂を約50m下ると、左側の石垣の上に中山道碑が建っており、その先に東屋があり、東屋の先に木造3階建の元休茶屋の角屋がありました。
09時57分、元休茶屋・角屋(左側)
東屋の辺りは瀧大明神の境内で、植樹されていた大ケヤキの根元から滝となって流れる湧水があり、旅人の咽喉を潤うしていたそうです。
※瀧大明神境内跡 ※東屋の床下に金魚を飼育中
09時58分~10時10分、休憩
旅を始めて1時間30分くらい経過したので、雨宿りを兼ねて休憩することになり、水分補給や地図の整理を行いました。
東屋を出て、角屋の前を右に曲がると河原宿跡のお滝通りが残っていました。
※お滝通り
角屋から約40m歩くと、右側に旧旅籠の蔦屋がありました。
10時11分、旧旅籠・蔦屋(右側)
蔦屋から約60m歩くと、T字路分岐となり、突き当りに中北道標が建っていました。
※中北道標(T字路突き当り)
旧中山道はT字路分岐を左折して進みます。
※T字路分岐(左折)
T字路分岐を街道の逆に右折すると、千曲川舟つなぎ石が残されているというので、見に立ち寄りました。
10時12分、舟つなぎ石標板(右側) ※舟つなぎ石(舟を繋いだ穴がある)
現在は、T字路を左折し、約30m先の県道ガードを潜った所で左折し、約10m先の階段を上り、中津橋を渡ります。
※分岐(中津橋への経路)
車道と歩道が分離されている中津橋を渡り、八幡宿に向かいます。
※中津橋(千曲川)
中津橋を渡った右側に中津橋講演があり、公園内に舟つなぎ石解説標板が建っていました。
10時18分、舟つなぎ石標板(右側)
公園の先で車道と合流して約300m上り坂を歩くと、左側にカーブミラーの脇に斜め右に小道に入ります。
※分岐(右側)
小道を約120m上ると歩道橋の脇に出ますが、県道に出ないで右側の小道をさらに約110m上り坂を歩くと上り切った少し高い処に石碑(芭蕉句碑)と2基の常夜燈の間に石像(大日如来像)がありました。
10時27分、芭蕉句碑・大日如来像(右側)
芭蕉句碑から約60m歩くと県道に合流し、県道を約70m進むと、右側に日本橋から44番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
10時31分、044御馬寄一里塚跡(右側)
一里塚碑から約300m歩くと、左側に御井大神碑と道祖神(白丸)が祀られていました。
10時35分、御井大神・道祖神(左側)
御井大神碑から約120m歩くと、右側に伊勢宮神社が祀られており、参道入口で一礼して失礼しました。
10時37分、伊勢宮神社(右側)
伊勢宮神社には安政5(1858)年に建立された御神燈があり、参道口には道祖神(写真右側の注連縄の石碑)が2基祀られていました。
神社から約150m歩くと浅科支所前交差点があり、交差点からさらに約30m進むと右側に長屋門が建っていてツバメの巣が並んでいました。
※ツバメの巣(右側)
ツバメの巣がある長屋門から約50m歩くと、頭部に梵字が刻み込まれている文化5(1808)年に建立された観世音菩薩が祀られていました。
10時41分、観世音菩薩(左側)
観世音菩薩から約70m歩くと、左側に生井大神碑と馬頭観音が祀られていました。
10時42分、生井大神碑・馬頭観音(左側)
生井大神碑から約450m歩くと、八幡神社バス停があり、この辺りが八幡宿の入口になる江戸口があったところです。
10時47分、八幡宿江戸口
八幡神社バス停から約10m先進むと、右側に八幡神社の入口があり、参道入口から本殿に一礼し、先に進みました。
10時48分、八幡神社(右側)
八幡神社から約130m歩くと右側に、代々依田家が勤め、名主も兼ねた問屋場跡がありました。
10時51分、問屋場跡(左側)
問屋場跡から約170m歩くと、右側に文化元年(1804)に建築された本陣門を残し、代々小松家が勤めた本陣がありました。
10時55分、小松本陣跡(右側)
本陣には幕末の皇女和宮が宿泊し、下賜された品や貴重な資料が残されているそうです。
私とMさんは入場が有料のため、本陣内を見学しないで先に進みました。
小松本陣から約30m先の左側に問屋を兼ねて代々依田家が勤めた脇本陣跡がありました。
10時56分、脇本陣跡(右側)
脇本陣跡から約40m歩くと八幡中町交差点があり、この辺りの左側に高札場があったと資料に記されていましたが、標柱などが建っていないため、この辺りと推定して記録を残しました。
※高札場跡?(左側)
八幡中町交差点を渡った左側に、南御牧村道路元標が埋設されていました。
10時59分、南御牧村道路元標(左側)
道路元標から約230m歩くと、右側に八幡邨標石が建っていました。
11時02分、八幡邨標石(右側)
八幡邨標石から約140m歩くと八幡入口バス停があり、旧街道はバス停から約30m先の斜め右に入る道を進みます。
※分岐(斜め右方向)
細い道を約70m歩くと、右側に3体の馬頭観世音が祀られていました。
11時06分、馬頭観世音(右側)
馬頭観世音から約70m歩くと、右側に小さな地蔵尊が祀られていました。
11時08分、地蔵尊(右側)
地蔵尊から約30m歩くと、県道に再び合流する手前左側に中北道標が建っていました。
11時10分、中北道標(左側)
道標から約10mで県道に合流し、そのまま真っ直ぐに進みます。
※合流(直進)
合流から県道を約90m歩くと八幡西交差点があり、国道142号に合流します。
旧中山道は斜めT字路の道路を渡って右方向に進みます。
11時11分、八幡西交差点(右方向)
八幡西交差点から左側の歩道を約400m歩くと、左側に食事処・くまさんがあり、昼食に立ち寄りました。
11時17分~11時54分、昼食(くまさん)
八幡宿の終わりの八幡西交差点でR142に合流し、望月宿に向かうと左側に食事処「くまさん」があり、昼食に立ち寄りました。
今日は食べ頃の時間に食堂がなかった時を考えて「おにぎり」を持参していたのですが、食べることなく食堂に入ることができました。
昼食には少し早い時間ですが、店内には数人のお客が入っており、空いている席に着き「野菜天丼」(850円)を注文しました。
店員さんから「漬け物など自由に食べて下さい」と案内を受け、いちじく・漬け物を小皿に取って食べると、甘く熟したいちじく、美味しく漬かった漬け物に、「美味しいです」と喜びの声を伝えると、「ありがとうございます」と喜んでいました。
※野菜天丼 ※イチジク・漬け物
約40分、ゆっくりと昼食を食べてエネルギーを補給し、後半の旅に出掛けました。
くまさんを出て左右を確認して道路を横切り、進行右側を約200m進むと百沢東交差点があり、そのまま真っ直ぐに渡ります。
※百沢東交差点(直進)
百沢東交差点を真っ直ぐに渡り、渡った処の白防護柵の先を右折(黄矢印)、直ぐに左折(黄矢印)、とクランク形に進みます。
※分岐(右折クランク形)
分岐をクランク形に進むと、右側に中北道標、中山道道標が建っていました。
11時57分、道標(右側) ※約300mの直線道
クランク形分岐から約300m歩くと右側に火の見やぐらがあり、その根元付近に祝言道祖神があり、脇に解説標板が建っていました。
12時01分、祝言道祖神(右側)
旧街道はY字路となり、左側の青い倉庫に沿って左側(真っ直ぐ)を歩き、ガードレールの間を出て、左折します。
※分岐(青い倉庫に沿って直進)
ガードレールの間から出て、布施温泉入口交差点を真っ直ぐに渡ります。
※分岐(布施温泉交差点)
布施温泉入口交差点を真っ直ぐに渡り県道150号を約280m歩くと、右側の土道に入る分岐があり、分岐点に元禄11(1698)年建立の元禄道標が埋設されており、石碑に「右仲山道」と刻まれ、傍らに中山道牧布施道標標識が建っていました。
12時07分、Y字路分岐(右側) ※元禄道標(分岐点)
草に覆われた土道を約100m歩くと舗装路に突き当り、T字路を右折します。
舗装路に突き当たる直前は、急坂の上りです。
※草に覆われた旧街道 ※T字路を右折
T字路から約20m歩くと国道142号に突き当り、道路を渡って進行右側に進みます。
※分岐(R142を渡って左折)
国道142号を約100m進むと右側に男女双体道祖神が祀られており、村おこしを目指して「日本一大きな道祖神」と記された標柱が建っていました。
12時15分、男女双体道祖神(右側)
道祖神から約190m上り坂を歩くと、望月東急ゴルフクラブの看板が建っており、旧街道は看板の裏の土道を進みます。
※分岐(望月東急ゴルフ看板の裏を右折) ※土道(この先を右に曲がる)
土道の金山坂を真っ直ぐに約100m歩くと右に曲がり、左側にコンクリート電柱が建つ舗装路に突き当たり左折します。
※T字路合流(左折)
舗装路を左に白いプレハブ建物を2棟見ながら瓜生坂を上ると坂の途中に、日本橋から45番目の一里塚跡があり、石碑と解説標板が建っていました。
12時21分、045瓜生坂一里塚跡(左側)
一里塚跡から約50m坂を上ると坂の頂上となり、下り坂になって約80m進むと左側に瓜生坂碑と百万遍念仏塔が建っていました。
12時25分、瓜生坂碑・百万遍念仏塔(左側)
瓜生坂碑の直ぐ先に「道はここから土手を斜めにくだっていた」と記してある中山道道標が建つ分岐があり、左折しました。
下り坂は舗装されているのですが、苔むしているので、転倒しないように気を付けて下りました。
※①分岐(左折) ※②九十九下り
舗装路に合流し、T字路分岐を左折して進みます。
12時29分、T字路分岐(左折)
舗装路を約110m下ると右側に中山道道標と中北道標が並んで建っており、その先の赤い道路分離標の右側に下る道があり、下る細い道に入りました。
12時31分、分岐(右側) ※石垣の間の細い道を進む
下りのコンクリート道(長坂)を進み、右に曲がる所の左側の傾斜地に石仏石塔群がありました。
12時34分、石仏石塔群(左側)
石仏石塔群から約60m歩くと、右側の高台に石仏石塔群があり、その先の擁壁に地被類に覆われた馬頭観音、道祖神、百万遍供養塔などが祀られていました。
※石仏石塔群(右側) ※石塔群(右側)
擁壁の前に長坂石仏群の標柱が建っていました。
12時36分、中山道長坂石仏群標柱(右側)
標柱から約30m歩くと鹿曲川(かくのがわ)に架かる長坂橋があり渡ります。
※分岐(長坂橋を渡る)
長坂橋の手前左側に、弁財天碑が祀られていました。
12時38分、弁財天碑(左側)
※長坂橋からの眺め(南方向)
旧街道は橋を渡った所から上り坂となり、コの字形に曲がる枡形道へと続きます。
枡形に入る手前の右側に道祖神が祀られていました。
12時40分、道祖神(右側)
旧街道は道祖神の先で右折し、さらに右折するコ字形の枡形道になります。
※枡形道① ※枡形道②
枡形道を出た処の左側に連子格子の旧家があり、記録に残しました。
12時42分、連子格子の旧家(左側)
旧家から2軒先に、Yumiさんが元気だった頃、我が家の必需品になっていた薬用(朝鮮)人参を買いに来た「大望社」があり、買いに来ていた頃のことを思い出しながら店の前を通りました。
12時44分、大望社(左側)
大望社から約180m歩くと佐久市望月支所に行く(左折)分岐があり、坂道を約100m上って敷地内に設置されている望月駒(馬)を見にいくと、駐車場の敷地内に銅像が設置されており、脇の方に標高標柱が建っていました。
※望月駒の銅像(望月支所駐車場) ※標高(680m)標柱
支所から旧街道に戻り、望月宿を歩きます。
12時50分、望月宿の眺め
旧街道の分岐から約40m歩くと、当初宿泊を予約した江戸末期に創業した御宿・山城屋嘉左衛門がありましたが、カーテンが閉まっていて営業していないようでした。
12時51分、旅籠・山城屋嘉左衛門(右側)
営業していないのは私達が宿泊をキャンセルしたからなのか分かりませんが、とても寂しい気持ちになりました。
山城屋の真向いには、大正5(1916)年に建築された木造3階建ての井出野屋旅館があり、こちらは営業しているようでした。
12時51分、井出野屋旅館(左側)
井出野屋旅館から2軒先に「お休み処ますや」があり立ち寄りました。
宿場のPRをしているようで、居た人と少し話しをしただけで失礼しました。
12時52分、お休み処・ますや(左側)
ますやから約40m進むと、左側に望月歴史民俗資料館があり、館内は有料のため外観だけ見学しました。
12時59分、望月歴史民俗資料館(左側)
長屋門を潜って敷地内に入ると、資料館の入口右脇に駒つなぎ石、左側に水場割石と木樋が展示されていました。
※駒つなぎ石(入口右側) ※水場割石と木樋(入口左側)
資料館の隣りは大森九左衛門が名主問屋を兼ねていた本陣跡で、現在は小児科医院になっており、本陣と記した看板が掲げられていました。
13時01分、大森本陣跡(左側)
大森本陣跡の斜め前方右側の2階が連子格子の家があり、鷹野家脇本陣跡です。
13時02分、鷹野家脇本陣跡(右側)
鷹野家脇本陣の斜め前方に軒先に下駄が吊り下げられている家があり、往時は下駄屋であった元香美屋がありました。
13時03分、元香美屋(左側)
元香美屋の真向いは旅籠と問屋を兼ね、幕末には庄屋を務めた大和屋あり、現在は真山家として重要文化財になっています。
13時04分、大和屋跡(右側)
大和屋跡(重要文化財真山家)から約130m歩くと、左側に大伴神社があり、街道から頭を下げ先に進みました。
13時08分、大伴神社(左側)
大伴神社から約100m歩くと、右側に今井新聞店があり、店舗の先を斜め右に入ります。
※分岐(斜め右に入る)
細い上りに入ると右側に馬頭観音が祀られていました。
13時10分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から先に進むと、2ケ所のY字路がありますが、道なりに左方向に約110m進むと県道に戻ります。
※合流(右方向)
合流から約220m歩くと御桐谷西交差点があり、真っ直ぐ渡ります。
13時14分、御桐谷西交差点(直進)
御桐谷西交差点を真っ直ぐに渡り、約40m進むと左側に中山道道標が建っている上り坂があり、左折して進みます。
※分岐(左の道標に沿って左折)
左折して約20m坂道を上ると、左側に馬頭観音が祀られていました。
13時16分、馬頭観音(左側)
馬頭観音から約210m(標高で17m上る)歩くと、Y字路分岐となり、右折して坂道を上ります。
※Y字路分岐(右折) ※上り坂
Y字路分岐から約130m(標高で14m上る)歩くと上り坂が終わり、さらに約30m進むと国道142号を潜るガードがあり、ガードを潜り、潜った先のY字路を右方向に進みます。
※分岐(国道142号ガード) ※分岐(Y字路を右折)
Y字路を右に進むと、Mさんが「沢カニがいるよ」というので、立ち止まって道路を見ると、道路を横切っているところでした。
可哀想でしたが、手で持って上ってきた水場に戻しした。
※沢カニ
Y字路分岐から約350m歩くと左側の廃校になった本牧小学校があり、その前辺りの右側に御巡見道標が建っていました。
13時28分、御巡見道標(右側)
御巡見道標とは、幕府が諸国の監視と情勢調査のために派遣した上士が通行した道筋です。
御巡見道標から約100m歩くと、廃校になった本牧小学校の校門があり、記録に残しました。
13時29分、元本牧小学校校門(左側)
校門のところから約30m歩くとMさんが休憩したいと云うので、数分の立ち休憩を取りました。
13時31分~13時33分、休憩(水分補給)
休憩したところから約120m坂を上ると、左側に道祖神が祀られていました。
13時34分、道祖神(左側)
道祖神から約130m歩くと右側に武重歯科医院があり、ここで上り坂が終え、医院の先から下り坂になり、右側ににごり池がありました。
※にごり池(右側)
武重歯科医院から約210m坂を下ると、右に進む分岐、その先にY字路分岐があり、右側の道を下ります。
※分岐(Y字路を右側)
Y字路分岐の分岐点に茂田井宿の絵図が立てられていました。
13時40分、茂田井宿絵図(分岐点)
Y字路分岐から約450m歩くと、右側に神明社が祀られていました。
13時45分、神明社(右側)
神明社は宝永6(1709)年に茂田井村初代名主の大澤茂右衛門が建立したものです。
神明社から約90m歩くと、白壁が続く武重本家酒造(叶屋)があり、立ち寄りました。
13時47分、武重本家酒造(右側) ※国登録有形文化財の建物
武重本家酒造から約30m進むと、左側に若山牧水の歌碑が3首埋め込まれた石碑が建っていました。
13時50分、若山牧水歌碑(左側)
武重本家酒造の隣りで、若山牧水の歌碑から約90m歩くと杉玉が吊り下がった銘酒「大吉野」の蔵元で、元禄2(1689)年に創業した大澤酒造があり、立ち寄りました。
13時54分、大澤酒造(右側) ※しなの山林美術館
酒造に立ち寄ると売店があり、1種だけ試飲させて頂きました。
また、別棟に美術館があり、中に入って見ると、大澤家の人が描いた絵や当主などが描かれた絵などが飾られていました。
大澤酒造を出て先に進むと大澤家の終わりの辺りに高札場跡の標板が立っていました。
14時00分、高札場跡(右側)
高札場跡から約80m歩くと、左側に公衆トイレがあり、利用させて頂きました。
出来たばかりで、綺麗なトイレでした。
※公衆トイレ(左側)
公衆トイレから約350m歩くと左側に馬頭観音が祀られていました。
14時09分、馬頭観音(左側)
馬頭観音が祀られている処は石割坂と呼ばれる坂で、勾配がきつく大きな石があって交通に不便であったが、その石を割って街道を開通させたことから「石割坂」と呼ばれるようになったそうです。
※石割坂
馬頭観音から約160m歩くと、茂田井宿上組の名主宅があり、家の前に高札場が設けられたそうで、高札場跡に標板が建てられていました。
14時12分、高札場跡(左側)
高札場跡から約50m歩くと、左側に石割坂碑が建っていました。
14時13分、石割坂碑(左側)
石割坂碑から約160m歩くと、左側に日本橋から46番目の一里塚跡があり、模した塚と解説パネルが建てられていました。
14時15分、046茂田井一里塚跡(左側) ※解説パネル
一里塚から約80m歩くと、斜面の上に木神碑が埋設されていました。
14時17分、木神碑(右側)
木神碑から約110m歩くと変則4差路の県道に合流し、右側に立っている茂田井間の宿入口標識を見ながら右方向に進みました。
※合流(右方向)
変則4差路から約500m歩くと芦田川に架かる芦田橋があり、橋を渡ってさらに140m進むと中居交差点で、手前左角に茂田井宿モニュメントがありました。
14時28分、茂田井宿モニュメント(左側)
中居交差点を真っ直ぐに渡り約20m進むと、左側に「中山道股旅休憩所」と記された看板が掲げられていましたが、入ることができず使えませんでした。
14時30分、中山道股旅休憩所(左側)
中山道股旅休憩所から約40m歩くと右側に古町口バス停があり、停留所の脇に道祖神が祀られていました。
14時32分、道祖神(右側)
停留所から約170m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
14時35分、道祖神(右側)
道祖神から約100m歩くと立科町役場入口交差点があり、真っ直ぐに渡り今日最後の坂を上ります。
14時35分、立科町役場入口交差点
坂を上り始めると、左側に老人クラブの方々が生育されたコスモスが咲いていました。
※沿道の花壇(左側)
立科町役場入口交差点から約100m歩くと、左側に近藤・・・・店の先隣りの石塀の中に蛇石様(白丸)がありました。
14時38分、蛇石様(左側)
蛇石様から約100m歩くと、右側に芦田宿ふれあい交流館があり立ち寄りました。
14時40分~15時10分、芦田宿ふれあい交流館
館内に入り、ザックを下ろしひと息つくと、係員の人が温かいお茶を入れて迎えて下さいました。
宿泊する旅館は約100mで着いてしまうため、まだ時間が早く、雨が止んでいるので、ザックを置いて付近の史蹟を見学することにしました。
交流館から約30m進むと、右側に土屋本陣があり、建物は県宝として大切に保存されているそうです。
※土屋本陣跡(右側) ※本陣建物
土屋本陣の真向いの駐車場の脇に、山浦家の脇本陣跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。
※山浦脇本陣(左側)
脇本陣先の芦田中央交差点を真っ直ぐに渡ると、交差点左角に問屋と庄屋を兼ねて勤めていた山浦家跡があり、1階の壁面には旧中山道の宿場浮世絵が貼り出されていました。
※庄屋山浦家跡(左側) ※宿場浮世絵
庄屋山浦家跡の真向いに、往時は酢の店だったが、今は味噌醤油の醸造元になっている酢屋茂がありました。
※酢屋茂(右側)
酢屋茂の斜め向かいの建物が、今日の旅の到着地で宿泊する旅館です。
旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を、旅館の前で行い今日の旅を終えました。
15時15分、芦田宿・金丸土屋旅館(到着地)
【宿泊】
宿の主人の出迎えを受け、少し雑談してから利用する部屋に案内されました。
〔建物〕
土屋旅館は文化元年(1804)に開業した旅籠で、約215年続いている老舗旅館ですが、旅館部分は古い建物を維持し、水部分(洗面・トイレ・浴室)の設備は最新式で、通路なども人感式照明になっていました。
※旅館全景(正面) ※解説
※出張り作りの軒先 ※低い天井の通路
本格的な木造建築のため、店主にお願いし2階を案内して頂きました。
※手作りのガラス窓 ※雨戸
※サッシ戸にする時、サッシ戸の内側にして昔の雨戸を残したそうです
〔夕食〕
今日の宿泊は私達だけ1組とのことで、建物の説明を受けてから旅の汗を流したり、翌日の旅支度を整えたりして夕食を待ちました。
18時00分、夕食
缶ビールの栓を開け、乾いた咽喉を潤すとともに、旅の疲れを癒し、2時間近くMさんと歓談の時間を楽しみ、部屋に戻りました。
明日は朝6時に朝食を食べ、7時に旅館を出発する予定です。
【次回の予告】
次回の第13回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=10月15日(日)
行 程=芦田宿・金丸土屋旅館前 ~ 和田宿・観音沢バス停
歩程距離=約19.35㎞
で、行程の長い旅になります。
明日の天候は高い確率で雨模様の予報が発せられているので、少しでも止んでと願っています。
また、泊まる宿が到着地から約30分離れた姫木平のペンションのため、到着地まで迎えに来て頂くことになっています。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【宿場】 (22)岩村田宿 ⇒ (23)塩名田宿 ⇒ (24)八幡宿 ⇒ (25)望月宿 ⇒
(26)芦田宿
【行程】 歩行距離=15.6㎞ 総距離=188.56㎞
佐々木宅前十字路 ⇒ (0.35㎞) ⇒ 043平塚一里塚跡 ⇒ (4.1㎞) ⇒ 044御馬寄一里塚跡 ⇒ (4.35㎞) ⇒ 045瓜生坂一里塚跡 ⇒ (5.25㎞) ⇒ 046茂田井一里塚跡 ⇒ (1.55㎞) ⇒ 金丸土屋旅館前
【ルート図】
↓宿場(桃色=第12回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第12回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今回の旅は佐久平駅から下諏訪駅までの約52㎞を歩きますが、この区間には鉄道がないので、街道沿いの旅館に泊まるか、旅の区切りの処まで送迎してくれる旅館に泊まりながら旅をすることになります。
また、街道旅は舗装路の炎天下を歩くことが多いため、真夏の7月と8月は旅を控えるのが一般的で、私達2人も同じように旅を休み、9月から再開することにしました。
〔アクシデント〕
旅の行程は、5月にMさんと相談し、計画を立てました。
今回の旅は行楽期の3連休になるため、早めに往復の指定席切符を確保する必要があると考え、8月下旬に切符購入を予定しました。
ところが7月末にMさんご夫婦が山歩きに出掛け、その道中で奥さんが転倒し、大腿部を骨折してしまい救助隊に搬送してもらって下山し、そのまま近くの病院に入院しました。
怪我はMさん本人ではありせんが、奥さんの介助のため回復具合で旅の計画を見直さなければならなくなり、8月下旬の切符購入を取り止め、9月上旬に改めて旅の実施有無について話し合うことになりました。
〔計画〕
9月上旬、Mさんと今後の計画について話し合い、私は「無理しないで計画を先送りしても良いので、9月の旅は取り止めてもいいですよ」と話しましたが、Mさんは「計画を先送りしたくないので、予定通りに行いたい」とのことで、計画通りに実施することになりました。
※9月~12月は各月2泊3日の行程で12回の旅を行う予定にしており、その間に泊まる宿(8ケ所)は全て予約を済ませており、変更になると8ケ所全部の変更が必要になります。
旅を計画通りに行うことになり、直ぐに9月旅の指定席を取る必要があり、打合せの後、ジバング切符を買いに行きました。
往路は当初予定していた新幹線は満席でしたが、1本前の新幹線に変更したため、並び席で取れました。
復路は希望した列車が満席だったため、1本前の上諏訪駅からの指定席を取ることができました。
やはり想定した通り、9月の行楽期三連休で良い時間帯の指定席は売り切れていました。
旅はMさんの奥さんの回復具合によって中止ということが想定されていたので、出発することになりホッとしました。
〔順延〕
旅の直前になって台風18号が襲来する状況となり、いくらなんでも台風の時の旅は無理なので、前日の9月15日にMさんと協議することになりました。
Mさんと会って旅の日程について話し合うと、
・台風が来る
・Mさんの奥さんが肺炎を発症し、家に居てほしいとの要望がある
などから9月の旅は中止し、10月予定の日程に順延することになり、11月以降も順繰りに先延ばしすることになり、購入済みの切符を購入した旅行社で変更し、宿は分担して宿泊の変更を行いました。
〔支度〕
今回の旅は二泊三日の行程で行うため、必要な着替え、携帯やカメラの充電器、昼食(おにぎり=食堂が見付からない時を考え)、水分を1㍑以上、スパッツなどを持参します。
また、靴は土道で標高差が500mの和田峠を歩くので、トレッキングシューズを考えたのですが、全行程の75%が舗装路であることを考え、ウォーキングシューズにすることにしました。
《移動》
今回は前回の旅と同じ時間の電車で移動するため、前日の内に旅の支度を整え、いつもより約1時間早く起き、ベランダから外の天気を確認すると雨が降っています。
出掛けるまでに雨が止むのを期待しながら朝食(焼き餅)を食べ家を出発しましたが、期待どおりには物事は進まず雨は降り続いており、ザックカバーを掛け、傘を差し歩いて最寄り駅に向かいました。
最寄り駅にはMさんが先に来てザックの点検を行っており、挨拶して合流し、出発地の佐久平駅に向かいました。
08時18分、佐久平駅着
北陸新幹線佐久平駅で下車し、トイレを済ませてから立科口を出て、県道44号の佐久平駅南口交差点を渡り、農道通り、約1㎞離れた出発地に到着しました。
7月3日以来、3ケ月振りに出発地に立ち、まず前回旅の到着式を行い、引き続いて今回の出発式を行って旅に出発しました。
※前回はここまで旅をする予定になっていなかったため、到着式に使う標板がなかったので、今回の旅の前に標板を掲げて記録に残しました。
【=旅=】
08時36分、岩村田宿・佐々木宅前十字路(出発地)
出発地から約150m歩くと左側に信州名物のリンゴ園があり、沢山のリンゴが実を付けていました。
※リンゴ園(左側)
リンゴ園から約60m歩くと、右側に中北道標(塩名田3.6㎞・追分11.7㎞)が建っていました。
08時40分、中北道標(右側)
道標の先の信号のある交差点を横切り約90m歩くと、浅間山の湧水が流れる濁川に掛かる砂田橋があり、資料に橋を渡った先に一里塚跡があると記されていましたが確認できませんでした。
※043平塚一里塚跡付近
平塚一里塚跡付近から約70m歩くと、右側に荘山稲荷社があり、道路から参拝し先に進みました。
08時43分、荘山稲荷社(右側)
荘山稲荷社辺りで雨が少し降ってきたので、約100m先の中部横断自動車道のガード下でザックカバーを再度取り付け、ガードを出て処から約400m歩くと左側に山木屋味噌醤油店がありましたが、営業していませんでした。
08時53分、山木屋味噌醤油店(左側)
山木味噌醤油店から約400m歩くと、左側に百万遍供養塔があり、約20m先の石垣の上に石仏石塔群がありました。
08時59分、百万遍供養塔(左側)
※石塔群(左側)
石仏石塔群から約270m歩くと、右側に諏訪神社があり、参拝に立ち寄りお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅の御加護をご祈願しました。
そして、衣服調整(合羽上着を脱ぐ)、帽子からバンダナに交換しました。
また、参道口右側に男女道祖神が建っていました。
09時04分、諏訪神社(右側) ※男女道祖神
諏訪神社を出ると、右側に濁川用水があり、豊かな水量が流れていました。
※濁川用水(右側)
諏訪神社から約290m歩くと、右側に如意輪大王碑が建っていました。
09時14分、如意輪大王碑(右側)
大王碑から約170m歩くと、左側に大きな岩の上に石碑が建っていました。
09時16分、石碑(左側)
石碑群から約400m歩くと、左側に貞観8年(866)創建で信濃五山の一つで若い修行僧の学問寺だった妙楽寺があり、立ち寄りました。
09時23分、妙楽寺(左側)
妙楽寺入口から約210m歩くと、Y字路分岐があり、左側を進みます。
①分岐=左側 ②道なりに右方向
③黄矢印=旧街道、白矢印=駒形神社
駒形坂に合流する手前を右側(③の白矢印)に下ると、神社の参道となり、階段を上った左奥に本殿が建っていました。
09時34分、駒形神社(右側)
駒形神社から参道入口に戻り、右側に約40m進むと旧中山道に合流し、さらに30m歩くと分岐となり、右側の土道(駒形坂)を進みました。
※①分岐(右側) ※②土道
※③合流(右折)
合流から約550m歩くと塩名田交差点があり、ここが塩名田宿の江戸口で、交差点の手前左側に塩名田宿碑と中北道標が建っていました。
09時44分、塩名田宿江戸口
また、塩名田宿を防備するため街道をくの字にした枡形道にしてありました。
※枡形道
塩名田交差点を渡る辺りから雨が強く降り始めてきたため、ザックから折畳み傘を出し、傘を差しての旅になりました。
雨が降ると濡れないようにクリアファイルに街道地図を差し込みます。
差し込んだだけなら良いのですが、約800mごとに街道地図を入れ替えるのですが、傘で片手が使えなくなるため、雨に濡れないところを探しながら入れ替えなければならないので大変です。
塩名田交差点から約180m歩くと、左側に総合食品店・大井屋があり、ここが丸山善兵衛本陣跡で、店名看板の下に本陣を記す看板が掲げられていました。
09時48分、丸山善兵衛本陣跡(左側)
本陣の真向いに中津村道路元標が埋設されていました。
10時49分、中津村道路元標(右側)
道路元標から約70m歩くと、右側に塩名田バス停があり、バス停の脇に丸山新左衛門本陣跡があり、「問屋・本陣」の看板が掲げられていました。
09時50分、丸山新左衛門問屋・本陣跡(右側)
本陣跡の隣りに高札場跡があり、解説パネルが建てられていました。
09時51分、高札場跡(右側)
高札場跡から約30m先の左側に、天保2(1831)年の建築で宿内最古の町屋の佐藤半左衛門住宅(旧屋号・坂越九郎右衛門)がありました。
09時52分、佐藤半左衛門住宅(左側)
佐藤半左衛門住宅の隣りに白壁土蔵の家があり、記録に残しました。
※白壁土蔵の家(左側)
白壁土蔵の家の隣りに、江戸末期に建築されたえび屋豆腐店がありました。
09時55分、えび屋豆腐店(左側)
えび屋豆腐店から約60m歩くとY字路分岐があり、右側の坂を下ります。
※分岐(右側)
坂を約50m下ると、左側の石垣の上に中山道碑が建っており、その先に東屋があり、東屋の先に木造3階建の元休茶屋の角屋がありました。
09時57分、元休茶屋・角屋(左側)
東屋の辺りは瀧大明神の境内で、植樹されていた大ケヤキの根元から滝となって流れる湧水があり、旅人の咽喉を潤うしていたそうです。
※瀧大明神境内跡 ※東屋の床下に金魚を飼育中
09時58分~10時10分、休憩
旅を始めて1時間30分くらい経過したので、雨宿りを兼ねて休憩することになり、水分補給や地図の整理を行いました。
東屋を出て、角屋の前を右に曲がると河原宿跡のお滝通りが残っていました。
※お滝通り
角屋から約40m歩くと、右側に旧旅籠の蔦屋がありました。
10時11分、旧旅籠・蔦屋(右側)
蔦屋から約60m歩くと、T字路分岐となり、突き当りに中北道標が建っていました。
※中北道標(T字路突き当り)
旧中山道はT字路分岐を左折して進みます。
※T字路分岐(左折)
T字路分岐を街道の逆に右折すると、千曲川舟つなぎ石が残されているというので、見に立ち寄りました。
10時12分、舟つなぎ石標板(右側) ※舟つなぎ石(舟を繋いだ穴がある)
現在は、T字路を左折し、約30m先の県道ガードを潜った所で左折し、約10m先の階段を上り、中津橋を渡ります。
※分岐(中津橋への経路)
車道と歩道が分離されている中津橋を渡り、八幡宿に向かいます。
※中津橋(千曲川)
中津橋を渡った右側に中津橋講演があり、公園内に舟つなぎ石解説標板が建っていました。
10時18分、舟つなぎ石標板(右側)
公園の先で車道と合流して約300m上り坂を歩くと、左側にカーブミラーの脇に斜め右に小道に入ります。
※分岐(右側)
小道を約120m上ると歩道橋の脇に出ますが、県道に出ないで右側の小道をさらに約110m上り坂を歩くと上り切った少し高い処に石碑(芭蕉句碑)と2基の常夜燈の間に石像(大日如来像)がありました。
10時27分、芭蕉句碑・大日如来像(右側)
芭蕉句碑から約60m歩くと県道に合流し、県道を約70m進むと、右側に日本橋から44番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
10時31分、044御馬寄一里塚跡(右側)
一里塚碑から約300m歩くと、左側に御井大神碑と道祖神(白丸)が祀られていました。
10時35分、御井大神・道祖神(左側)
御井大神碑から約120m歩くと、右側に伊勢宮神社が祀られており、参道入口で一礼して失礼しました。
10時37分、伊勢宮神社(右側)
伊勢宮神社には安政5(1858)年に建立された御神燈があり、参道口には道祖神(写真右側の注連縄の石碑)が2基祀られていました。
神社から約150m歩くと浅科支所前交差点があり、交差点からさらに約30m進むと右側に長屋門が建っていてツバメの巣が並んでいました。
※ツバメの巣(右側)
ツバメの巣がある長屋門から約50m歩くと、頭部に梵字が刻み込まれている文化5(1808)年に建立された観世音菩薩が祀られていました。
10時41分、観世音菩薩(左側)
観世音菩薩から約70m歩くと、左側に生井大神碑と馬頭観音が祀られていました。
10時42分、生井大神碑・馬頭観音(左側)
生井大神碑から約450m歩くと、八幡神社バス停があり、この辺りが八幡宿の入口になる江戸口があったところです。
10時47分、八幡宿江戸口
八幡神社バス停から約10m先進むと、右側に八幡神社の入口があり、参道入口から本殿に一礼し、先に進みました。
10時48分、八幡神社(右側)
八幡神社から約130m歩くと右側に、代々依田家が勤め、名主も兼ねた問屋場跡がありました。
10時51分、問屋場跡(左側)
問屋場跡から約170m歩くと、右側に文化元年(1804)に建築された本陣門を残し、代々小松家が勤めた本陣がありました。
10時55分、小松本陣跡(右側)
本陣には幕末の皇女和宮が宿泊し、下賜された品や貴重な資料が残されているそうです。
私とMさんは入場が有料のため、本陣内を見学しないで先に進みました。
小松本陣から約30m先の左側に問屋を兼ねて代々依田家が勤めた脇本陣跡がありました。
10時56分、脇本陣跡(右側)
脇本陣跡から約40m歩くと八幡中町交差点があり、この辺りの左側に高札場があったと資料に記されていましたが、標柱などが建っていないため、この辺りと推定して記録を残しました。
※高札場跡?(左側)
八幡中町交差点を渡った左側に、南御牧村道路元標が埋設されていました。
10時59分、南御牧村道路元標(左側)
道路元標から約230m歩くと、右側に八幡邨標石が建っていました。
11時02分、八幡邨標石(右側)
八幡邨標石から約140m歩くと八幡入口バス停があり、旧街道はバス停から約30m先の斜め右に入る道を進みます。
※分岐(斜め右方向)
細い道を約70m歩くと、右側に3体の馬頭観世音が祀られていました。
11時06分、馬頭観世音(右側)
馬頭観世音から約70m歩くと、右側に小さな地蔵尊が祀られていました。
11時08分、地蔵尊(右側)
地蔵尊から約30m歩くと、県道に再び合流する手前左側に中北道標が建っていました。
11時10分、中北道標(左側)
道標から約10mで県道に合流し、そのまま真っ直ぐに進みます。
※合流(直進)
合流から県道を約90m歩くと八幡西交差点があり、国道142号に合流します。
旧中山道は斜めT字路の道路を渡って右方向に進みます。
11時11分、八幡西交差点(右方向)
八幡西交差点から左側の歩道を約400m歩くと、左側に食事処・くまさんがあり、昼食に立ち寄りました。
11時17分~11時54分、昼食(くまさん)
八幡宿の終わりの八幡西交差点でR142に合流し、望月宿に向かうと左側に食事処「くまさん」があり、昼食に立ち寄りました。
今日は食べ頃の時間に食堂がなかった時を考えて「おにぎり」を持参していたのですが、食べることなく食堂に入ることができました。
昼食には少し早い時間ですが、店内には数人のお客が入っており、空いている席に着き「野菜天丼」(850円)を注文しました。
店員さんから「漬け物など自由に食べて下さい」と案内を受け、いちじく・漬け物を小皿に取って食べると、甘く熟したいちじく、美味しく漬かった漬け物に、「美味しいです」と喜びの声を伝えると、「ありがとうございます」と喜んでいました。
※野菜天丼 ※イチジク・漬け物
約40分、ゆっくりと昼食を食べてエネルギーを補給し、後半の旅に出掛けました。
くまさんを出て左右を確認して道路を横切り、進行右側を約200m進むと百沢東交差点があり、そのまま真っ直ぐに渡ります。
※百沢東交差点(直進)
百沢東交差点を真っ直ぐに渡り、渡った処の白防護柵の先を右折(黄矢印)、直ぐに左折(黄矢印)、とクランク形に進みます。
※分岐(右折クランク形)
分岐をクランク形に進むと、右側に中北道標、中山道道標が建っていました。
11時57分、道標(右側) ※約300mの直線道
クランク形分岐から約300m歩くと右側に火の見やぐらがあり、その根元付近に祝言道祖神があり、脇に解説標板が建っていました。
12時01分、祝言道祖神(右側)
旧街道はY字路となり、左側の青い倉庫に沿って左側(真っ直ぐ)を歩き、ガードレールの間を出て、左折します。
※分岐(青い倉庫に沿って直進)
ガードレールの間から出て、布施温泉入口交差点を真っ直ぐに渡ります。
※分岐(布施温泉交差点)
布施温泉入口交差点を真っ直ぐに渡り県道150号を約280m歩くと、右側の土道に入る分岐があり、分岐点に元禄11(1698)年建立の元禄道標が埋設されており、石碑に「右仲山道」と刻まれ、傍らに中山道牧布施道標標識が建っていました。
12時07分、Y字路分岐(右側) ※元禄道標(分岐点)
草に覆われた土道を約100m歩くと舗装路に突き当り、T字路を右折します。
舗装路に突き当たる直前は、急坂の上りです。
※草に覆われた旧街道 ※T字路を右折
T字路から約20m歩くと国道142号に突き当り、道路を渡って進行右側に進みます。
※分岐(R142を渡って左折)
国道142号を約100m進むと右側に男女双体道祖神が祀られており、村おこしを目指して「日本一大きな道祖神」と記された標柱が建っていました。
12時15分、男女双体道祖神(右側)
道祖神から約190m上り坂を歩くと、望月東急ゴルフクラブの看板が建っており、旧街道は看板の裏の土道を進みます。
※分岐(望月東急ゴルフ看板の裏を右折) ※土道(この先を右に曲がる)
土道の金山坂を真っ直ぐに約100m歩くと右に曲がり、左側にコンクリート電柱が建つ舗装路に突き当たり左折します。
※T字路合流(左折)
舗装路を左に白いプレハブ建物を2棟見ながら瓜生坂を上ると坂の途中に、日本橋から45番目の一里塚跡があり、石碑と解説標板が建っていました。
12時21分、045瓜生坂一里塚跡(左側)
一里塚跡から約50m坂を上ると坂の頂上となり、下り坂になって約80m進むと左側に瓜生坂碑と百万遍念仏塔が建っていました。
12時25分、瓜生坂碑・百万遍念仏塔(左側)
瓜生坂碑の直ぐ先に「道はここから土手を斜めにくだっていた」と記してある中山道道標が建つ分岐があり、左折しました。
下り坂は舗装されているのですが、苔むしているので、転倒しないように気を付けて下りました。
※①分岐(左折) ※②九十九下り
舗装路に合流し、T字路分岐を左折して進みます。
12時29分、T字路分岐(左折)
舗装路を約110m下ると右側に中山道道標と中北道標が並んで建っており、その先の赤い道路分離標の右側に下る道があり、下る細い道に入りました。
12時31分、分岐(右側) ※石垣の間の細い道を進む
下りのコンクリート道(長坂)を進み、右に曲がる所の左側の傾斜地に石仏石塔群がありました。
12時34分、石仏石塔群(左側)
石仏石塔群から約60m歩くと、右側の高台に石仏石塔群があり、その先の擁壁に地被類に覆われた馬頭観音、道祖神、百万遍供養塔などが祀られていました。
※石仏石塔群(右側) ※石塔群(右側)
擁壁の前に長坂石仏群の標柱が建っていました。
12時36分、中山道長坂石仏群標柱(右側)
標柱から約30m歩くと鹿曲川(かくのがわ)に架かる長坂橋があり渡ります。
※分岐(長坂橋を渡る)
長坂橋の手前左側に、弁財天碑が祀られていました。
12時38分、弁財天碑(左側)
※長坂橋からの眺め(南方向)
旧街道は橋を渡った所から上り坂となり、コの字形に曲がる枡形道へと続きます。
枡形に入る手前の右側に道祖神が祀られていました。
12時40分、道祖神(右側)
旧街道は道祖神の先で右折し、さらに右折するコ字形の枡形道になります。
※枡形道① ※枡形道②
枡形道を出た処の左側に連子格子の旧家があり、記録に残しました。
12時42分、連子格子の旧家(左側)
旧家から2軒先に、Yumiさんが元気だった頃、我が家の必需品になっていた薬用(朝鮮)人参を買いに来た「大望社」があり、買いに来ていた頃のことを思い出しながら店の前を通りました。
12時44分、大望社(左側)
大望社から約180m歩くと佐久市望月支所に行く(左折)分岐があり、坂道を約100m上って敷地内に設置されている望月駒(馬)を見にいくと、駐車場の敷地内に銅像が設置されており、脇の方に標高標柱が建っていました。
※望月駒の銅像(望月支所駐車場) ※標高(680m)標柱
支所から旧街道に戻り、望月宿を歩きます。
12時50分、望月宿の眺め
旧街道の分岐から約40m歩くと、当初宿泊を予約した江戸末期に創業した御宿・山城屋嘉左衛門がありましたが、カーテンが閉まっていて営業していないようでした。
12時51分、旅籠・山城屋嘉左衛門(右側)
営業していないのは私達が宿泊をキャンセルしたからなのか分かりませんが、とても寂しい気持ちになりました。
山城屋の真向いには、大正5(1916)年に建築された木造3階建ての井出野屋旅館があり、こちらは営業しているようでした。
12時51分、井出野屋旅館(左側)
井出野屋旅館から2軒先に「お休み処ますや」があり立ち寄りました。
宿場のPRをしているようで、居た人と少し話しをしただけで失礼しました。
12時52分、お休み処・ますや(左側)
ますやから約40m進むと、左側に望月歴史民俗資料館があり、館内は有料のため外観だけ見学しました。
12時59分、望月歴史民俗資料館(左側)
長屋門を潜って敷地内に入ると、資料館の入口右脇に駒つなぎ石、左側に水場割石と木樋が展示されていました。
※駒つなぎ石(入口右側) ※水場割石と木樋(入口左側)
資料館の隣りは大森九左衛門が名主問屋を兼ねていた本陣跡で、現在は小児科医院になっており、本陣と記した看板が掲げられていました。
13時01分、大森本陣跡(左側)
大森本陣跡の斜め前方右側の2階が連子格子の家があり、鷹野家脇本陣跡です。
13時02分、鷹野家脇本陣跡(右側)
鷹野家脇本陣の斜め前方に軒先に下駄が吊り下げられている家があり、往時は下駄屋であった元香美屋がありました。
13時03分、元香美屋(左側)
元香美屋の真向いは旅籠と問屋を兼ね、幕末には庄屋を務めた大和屋あり、現在は真山家として重要文化財になっています。
13時04分、大和屋跡(右側)
大和屋跡(重要文化財真山家)から約130m歩くと、左側に大伴神社があり、街道から頭を下げ先に進みました。
13時08分、大伴神社(左側)
大伴神社から約100m歩くと、右側に今井新聞店があり、店舗の先を斜め右に入ります。
※分岐(斜め右に入る)
細い上りに入ると右側に馬頭観音が祀られていました。
13時10分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から先に進むと、2ケ所のY字路がありますが、道なりに左方向に約110m進むと県道に戻ります。
※合流(右方向)
合流から約220m歩くと御桐谷西交差点があり、真っ直ぐ渡ります。
13時14分、御桐谷西交差点(直進)
御桐谷西交差点を真っ直ぐに渡り、約40m進むと左側に中山道道標が建っている上り坂があり、左折して進みます。
※分岐(左の道標に沿って左折)
左折して約20m坂道を上ると、左側に馬頭観音が祀られていました。
13時16分、馬頭観音(左側)
馬頭観音から約210m(標高で17m上る)歩くと、Y字路分岐となり、右折して坂道を上ります。
※Y字路分岐(右折) ※上り坂
Y字路分岐から約130m(標高で14m上る)歩くと上り坂が終わり、さらに約30m進むと国道142号を潜るガードがあり、ガードを潜り、潜った先のY字路を右方向に進みます。
※分岐(国道142号ガード) ※分岐(Y字路を右折)
Y字路を右に進むと、Mさんが「沢カニがいるよ」というので、立ち止まって道路を見ると、道路を横切っているところでした。
可哀想でしたが、手で持って上ってきた水場に戻しした。
※沢カニ
Y字路分岐から約350m歩くと左側の廃校になった本牧小学校があり、その前辺りの右側に御巡見道標が建っていました。
13時28分、御巡見道標(右側)
御巡見道標とは、幕府が諸国の監視と情勢調査のために派遣した上士が通行した道筋です。
御巡見道標から約100m歩くと、廃校になった本牧小学校の校門があり、記録に残しました。
13時29分、元本牧小学校校門(左側)
校門のところから約30m歩くとMさんが休憩したいと云うので、数分の立ち休憩を取りました。
13時31分~13時33分、休憩(水分補給)
休憩したところから約120m坂を上ると、左側に道祖神が祀られていました。
13時34分、道祖神(左側)
道祖神から約130m歩くと右側に武重歯科医院があり、ここで上り坂が終え、医院の先から下り坂になり、右側ににごり池がありました。
※にごり池(右側)
武重歯科医院から約210m坂を下ると、右に進む分岐、その先にY字路分岐があり、右側の道を下ります。
※分岐(Y字路を右側)
Y字路分岐の分岐点に茂田井宿の絵図が立てられていました。
13時40分、茂田井宿絵図(分岐点)
Y字路分岐から約450m歩くと、右側に神明社が祀られていました。
13時45分、神明社(右側)
神明社は宝永6(1709)年に茂田井村初代名主の大澤茂右衛門が建立したものです。
神明社から約90m歩くと、白壁が続く武重本家酒造(叶屋)があり、立ち寄りました。
13時47分、武重本家酒造(右側) ※国登録有形文化財の建物
武重本家酒造から約30m進むと、左側に若山牧水の歌碑が3首埋め込まれた石碑が建っていました。
13時50分、若山牧水歌碑(左側)
武重本家酒造の隣りで、若山牧水の歌碑から約90m歩くと杉玉が吊り下がった銘酒「大吉野」の蔵元で、元禄2(1689)年に創業した大澤酒造があり、立ち寄りました。
13時54分、大澤酒造(右側) ※しなの山林美術館
酒造に立ち寄ると売店があり、1種だけ試飲させて頂きました。
また、別棟に美術館があり、中に入って見ると、大澤家の人が描いた絵や当主などが描かれた絵などが飾られていました。
大澤酒造を出て先に進むと大澤家の終わりの辺りに高札場跡の標板が立っていました。
14時00分、高札場跡(右側)
高札場跡から約80m歩くと、左側に公衆トイレがあり、利用させて頂きました。
出来たばかりで、綺麗なトイレでした。
※公衆トイレ(左側)
公衆トイレから約350m歩くと左側に馬頭観音が祀られていました。
14時09分、馬頭観音(左側)
馬頭観音が祀られている処は石割坂と呼ばれる坂で、勾配がきつく大きな石があって交通に不便であったが、その石を割って街道を開通させたことから「石割坂」と呼ばれるようになったそうです。
※石割坂
馬頭観音から約160m歩くと、茂田井宿上組の名主宅があり、家の前に高札場が設けられたそうで、高札場跡に標板が建てられていました。
14時12分、高札場跡(左側)
高札場跡から約50m歩くと、左側に石割坂碑が建っていました。
14時13分、石割坂碑(左側)
石割坂碑から約160m歩くと、左側に日本橋から46番目の一里塚跡があり、模した塚と解説パネルが建てられていました。
14時15分、046茂田井一里塚跡(左側) ※解説パネル
一里塚から約80m歩くと、斜面の上に木神碑が埋設されていました。
14時17分、木神碑(右側)
木神碑から約110m歩くと変則4差路の県道に合流し、右側に立っている茂田井間の宿入口標識を見ながら右方向に進みました。
※合流(右方向)
変則4差路から約500m歩くと芦田川に架かる芦田橋があり、橋を渡ってさらに140m進むと中居交差点で、手前左角に茂田井宿モニュメントがありました。
14時28分、茂田井宿モニュメント(左側)
中居交差点を真っ直ぐに渡り約20m進むと、左側に「中山道股旅休憩所」と記された看板が掲げられていましたが、入ることができず使えませんでした。
14時30分、中山道股旅休憩所(左側)
中山道股旅休憩所から約40m歩くと右側に古町口バス停があり、停留所の脇に道祖神が祀られていました。
14時32分、道祖神(右側)
停留所から約170m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
14時35分、道祖神(右側)
道祖神から約100m歩くと立科町役場入口交差点があり、真っ直ぐに渡り今日最後の坂を上ります。
14時35分、立科町役場入口交差点
坂を上り始めると、左側に老人クラブの方々が生育されたコスモスが咲いていました。
※沿道の花壇(左側)
立科町役場入口交差点から約100m歩くと、左側に近藤・・・・店の先隣りの石塀の中に蛇石様(白丸)がありました。
14時38分、蛇石様(左側)
蛇石様から約100m歩くと、右側に芦田宿ふれあい交流館があり立ち寄りました。
14時40分~15時10分、芦田宿ふれあい交流館
館内に入り、ザックを下ろしひと息つくと、係員の人が温かいお茶を入れて迎えて下さいました。
宿泊する旅館は約100mで着いてしまうため、まだ時間が早く、雨が止んでいるので、ザックを置いて付近の史蹟を見学することにしました。
交流館から約30m進むと、右側に土屋本陣があり、建物は県宝として大切に保存されているそうです。
※土屋本陣跡(右側) ※本陣建物
土屋本陣の真向いの駐車場の脇に、山浦家の脇本陣跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。
※山浦脇本陣(左側)
脇本陣先の芦田中央交差点を真っ直ぐに渡ると、交差点左角に問屋と庄屋を兼ねて勤めていた山浦家跡があり、1階の壁面には旧中山道の宿場浮世絵が貼り出されていました。
※庄屋山浦家跡(左側) ※宿場浮世絵
庄屋山浦家跡の真向いに、往時は酢の店だったが、今は味噌醤油の醸造元になっている酢屋茂がありました。
※酢屋茂(右側)
酢屋茂の斜め向かいの建物が、今日の旅の到着地で宿泊する旅館です。
旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を、旅館の前で行い今日の旅を終えました。
15時15分、芦田宿・金丸土屋旅館(到着地)
【宿泊】
宿の主人の出迎えを受け、少し雑談してから利用する部屋に案内されました。
〔建物〕
土屋旅館は文化元年(1804)に開業した旅籠で、約215年続いている老舗旅館ですが、旅館部分は古い建物を維持し、水部分(洗面・トイレ・浴室)の設備は最新式で、通路なども人感式照明になっていました。
※旅館全景(正面) ※解説
※出張り作りの軒先 ※低い天井の通路
本格的な木造建築のため、店主にお願いし2階を案内して頂きました。
※手作りのガラス窓 ※雨戸
※サッシ戸にする時、サッシ戸の内側にして昔の雨戸を残したそうです
〔夕食〕
今日の宿泊は私達だけ1組とのことで、建物の説明を受けてから旅の汗を流したり、翌日の旅支度を整えたりして夕食を待ちました。
18時00分、夕食
缶ビールの栓を開け、乾いた咽喉を潤すとともに、旅の疲れを癒し、2時間近くMさんと歓談の時間を楽しみ、部屋に戻りました。
明日は朝6時に朝食を食べ、7時に旅館を出発する予定です。
【次回の予告】
次回の第13回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=10月15日(日)
行 程=芦田宿・金丸土屋旅館前 ~ 和田宿・観音沢バス停
歩程距離=約19.35㎞
で、行程の長い旅になります。
明日の天候は高い確率で雨模様の予報が発せられているので、少しでも止んでと願っています。
また、泊まる宿が到着地から約30分離れた姫木平のペンションのため、到着地まで迎えに来て頂くことになっています。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
https://michinoku-trail.blog.jp/