【宿場】 (26)芦田宿 ⇒ (27)長久保宿 ⇒ (28)和田宿
【行程】 歩行距離=19.35㎞ 総距離=207.91㎞
金丸土屋旅館前 ⇒ (2.8㎞) ⇒ 047笠取峠一里塚跡 ⇒ (4.5㎞) ⇒ 048四泊一里塚跡 ⇒ (3.95㎞) ⇒ 049芹沢一里塚跡 ⇒ (3.45㎞) ⇒ 050鍛冶足一里塚跡 ⇒ (2.65㎞) ⇒ 扇峠道追分 ⇒ (2.0㎞) ⇒ 観音沢バス停
【ルート図】
↓宿場(桃色=第13回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第13回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は昨日の到着点である「26芦田宿・金丸土屋旅館前」から「28和田村・観音沢バス停」までの約19.35㎞を歩く予定です。
予定ということは、今日の天気予報は雨模様と発せられているため、地図などが雨に濡れないようにし、計画している到着地まで旅が出来ればと考えています。
一方、今日の旅で歩く道は、部分的ですが車で何回も走っている道で、景色は見慣れていますが、車で通らない道や史跡などを見学しながらの旅は、街道ウォーカーにとって楽しみの一つです。
〔支度〕
05時00分、起床
寝過ごしてはいけないので、初めてスマホの目覚ましをセットして寝たのですが、4時頃から何回も目を覚ましウトウトしている時にアラームが鳴り布団を出ました。
布団を出て部屋の外にある洗面所で髭剃り、洗面を済ませ、部屋に戻って着替えを行い、ザックの荷物を整えテレビで天気予報を確認しながら朝食(6時からで予約)を待ちました。
〔朝食〕
朝食はご飯、味噌汁、4~5品の惣菜が1皿にのる孫ちゃん皿と同じで、何か孫ちゃんが食べる食事を思い出しながらの朝食になりました。
片付けや宿泊料金(1泊2食付:7,500円)からすると致し方ないのかもしれませんが、何か味気無さを感じました。
05時55分~06時20分、朝食
旅の出発は7時頃を予定していたのですが、明け方に降った雨が止んでいたので、早く出発しようということになり、トイレなどを済ませ宿泊した旅館前で恒例の出発式を行い、旅に出発しました。
【=旅=】
06時50分、芦田宿・金丸土屋旅館前(出発地)
出掛ける時は雨が止んでおり、傘を差さないで出発しました。
出発地から約260m先の芦田交差点を過ぎ、交差点から約80m進むと左側に正明寺があり境内に綺麗な松があるというので立ち寄りました。
06時56分、正明寺・紫雲の松(左側)
正明寺から約100m歩くと、右側の駐車場前の土手の上に男女双体道祖神が祀られていました。
06時59分、男女双体道祖神(右側)
道祖神から約170m歩くと街道はクランク形に曲がって芦田宿入口交差点に向かいます。
クランク形に左折する右側に石打(境界を意味する)場公園があり、公園内に芦田宿碑と旧芦田村と旧横島村の村境碑が建っていました。
07時02分、芦田宿碑(右側) ※旧芦田・旧横島村境碑
石打場公園を出ると約50mで芦田宿入口交差点となり、交差点を左折します。
※分岐(芦田宿入口交差点)=左折
交差点を左折すると約40m先に、右側に石灯篭、左側に中北道標が建っている舗装路があり右折します。
07時05分、分岐=右折
※中北道標(左側) ※石燈籠(右側)
右折分岐から約80m歩くと、一般車進入禁止の標識が建つ中央分離帯のある道となり、標識の横に笠取峠のマツ並木碑が建っていました。
07時08分、笠取峠のマツ並木碑
※松並木
地図で距離が測れないので時間で表示します。
07時12分、若山牧水歌碑(右側)
07時13分、道祖神(中央分離帯)
松並木の上り坂を歩いていると、左側に休憩できる東屋がありました。
07時17分、東屋(左側)
東屋の敷地内に銅版碑の和宮東下行列と石に埋め込まれた宿絵図がありました。
※和宮東下行列 ※宿絵図
国道142号に出る約80m手前の右側に吉村煙嶺句碑が建っていました。
07時18分、吉村煙嶺句碑(右側)
句碑の真向いの左側に常夜燈が建っていました。
※常夜燈(左側)
常夜燈から約50m先の右側に、文化3(1806)年に小諸藩が建てた領界石を復元した石碑が建っていました。
07時19分、小諸藩領界石(右側)
領界石の真向い辺りの左側(国道142号の合流分岐)に道祖神が祀られていました。
07時20分、道祖神(左側)
道祖神の直ぐ先で国道142号と合流し、旧街道はそのまま斜め真っ直ぐに道路を横切ります。
※合流=斜め真っ直ぐに横切る
※松並木(合流地点から約200m進んだ付近で振り返った松並木)
合流から約270m歩くと松並木が終わり、右側に石碑が建っていました。
07時25分、笠取峠のマツ並木碑(右側)
石碑の先で国道142号に合流し、国道を左方向に約350m歩くと、右側に馬頭観音が祀られていました。
07時30分、馬頭観音(右側)馬頭観音が祀られている坂は割石坂で、左側に黄金色に実った畑、畑の奥にソーラー発電が設置されていました。
※割石坂 ※黄金色の畑とソーラー発電(左側)馬頭観音から約650m割石坂を上ると左側に民家があり、その真向い辺りの右側に日本橋から47番目の一里塚跡があり、石碑と解説パネルが建っていました。
07時40分、047笠取峠一里塚跡(右側)※資料には北塚が残されていると記されていましたが、雨天と雑草で覆われていて良く確認できませんでした。
一里塚跡の直ぐ先隣りに、男女双体道祖神が祀られていました。
※男女双体道祖神(右側)
一里塚跡から約260m歩くと割石峠の頂上付近となり、左側の擁壁の上に笠取峠竣工記念碑が建っていました。
07時48分、笠取峠竣工記念碑(左側)峠から約100m下った左側の擁壁の上に、丸太の笠取峠碑が建っていました。
07時52分、笠取峠碑(左側)笠取峠碑から約30m歩くと、右側に峠の茶屋があり準備中の看板が掲げられていました。
07時53分、峠の茶屋(右側)峠の茶屋から約80m歩くと、右側に中山道道標が建っていました。
07時55分、中山道道標(右側)中山道道標から約90m歩くと右側に笠取峠立場図版木(擁壁にレリーフ)が建っていました。
07時57分、笠取峠立場図版木(右側) ※解説笠取峠立場図版木から約180m坂を下ると、国道142号と旧国道の分岐があり、旧街道は間の土道を下ります。
※分岐入口=左側に中北道標 ※旧街道の土道分岐から土道を約190m歩くと、旧国道に合流し、左折して進みます。
08時05分、合流(旧街道)=左折
合流して約20m進むと二股に分岐するので、右折して進みます。
※分岐(旧国道)=右折
※右折して直ぐに右側を見ると、推定樹齢150年(長和町指定保存樹木)の枝垂れ桜が生育されていました。
08時08分、枝垂れ桜(右側)
枝垂れ桜から約110m歩くと、左側に馬頭観音と地蔵尊が並んで祀られていました。
08時10分、馬頭観音・地蔵尊(左側)
馬頭観音から約50m進むとガードレールの切れ間があり、切れ間の左側に壊れかかった中山道笠取峠原道道標が建っており、旧街道はその脇の土道を下って進みます。
※分岐=右折 ※旧中山道
土道を約160m歩くと旧国道に突き当るので、折り返すように右折して進みます。
08時05分、合流(旧国道)=右折
※旅の時は、間違えて左の方に上ってしまい、途中で引返してきました。
そのため、往復した時間が加わっているので、ご利用の際は気を付けて下さい。
旧国道を約110m歩くと、国道142号に合流し、右折して進みます。
08時25分、合流(国道142号)=右折
国道142号を約130m歩くと、左側に信州長和町長久保の標高(780m)標識が建っていました。
08時27分、標高標識(左側)
標高標識から約50m歩くと、国道が左に曲がるところで真っ直ぐ(右側)に進む旧国道があり、旧街道は右側の旧国道を進みます。
分岐点に中北道標(和田宿7.9㎞、笠取峠1.9㎞)が建っている。
08時28分、分岐(旧国道)=右側
旧国道を約400m歩くと、林の切れ目(ガードレールの切れ目)から左側の草道に入り、約60m歩くとまた旧国道に合流します。
※分岐=左側 ※合流=右折
合流した旧国道を約80m歩くと、またガードレールの切れ目があり、切れ目の右側の道標を見ながら坂を下ると、松尾神社の境内に入ります。
08時37分、分岐=右側 ※松尾神社・境内
境内を通り本殿の前まで進み、お賽銭をご奉納し参拝しました。
08時40分、松尾神社・本殿(右側)
参拝後、トイレと水分補給を済ませてから本殿前を出発し、神社の鳥居を潜って先に進みました。
08時52分、松尾神社・鳥居
鳥居を潜って進むと旧国道に合流し、右折しました。
※合流(旧国道)=右折
合流した処から約260m歩くと、江戸末期から明治初期の農家建築を残している吾一庵がありました。
08時57分、吾一庵(右側)
吾一庵から約80m歩くと左側に明治初期に旅籠として建てられたが開業に至らなかった一福処濱屋があり、現在は長久保歴史資料館として残されていました。
08時58分、一福処濱屋(長久保歴史資料館)=左側
一福処濱屋から約60m歩くと右側に長久保宿石合本陣跡がありました。
09時00分、長久保宿石合本陣跡(右側) ※解説パネル
真田家の家老を勤めた石合家が代々本陣を勤め、問屋と名主を兼ねていました。
現存する建物は、寛永年間(1624~1643)の建築で、中山道で現存する本陣で最古のものである。
本陣の角に高札場跡があり、復元された高札場が建っていました。
※高札場跡(右側)
古い高札は石合家に保存されている。
高札場跡から約50m歩くと左側に羽毛田家で、天保年間(1830~1844)頃の建築と推定される旧旅籠の古久屋がありました。
09時01分、旧旅籠・古久屋(左側)
古久屋の隣りが脇本陣跡で、標識だけが建っていました。
※脇本陣跡(左側)
脇本陣の真向いが竹内家で、銘酒「白菊」の蔵元であった釜鳴屋です。
09時02分、釜鳴屋(右側) ※本卯建て
本卯建ての建物は享保16(1731)年以前の建物です。
釜鳴屋の斜め向かいに問屋を勤めた小林家がありました。
09時03分、問屋跡(小林家)=左側
小林家は長久保宿が創設された時から問屋を勤め、屋根に旧主の真田家の六文銭の鬼瓦が付いており、代々九右衛門を襲名していました。
〔転倒〕
問屋跡から1軒先で左折する枡形道になるのですが、その手前の右角に宿場道標が建っているというのでグレーチングの上に乗って写真を撮りに行こうとすると、雨に濡れたグレーチングの上でものの見事に転倒してしまいました。
瞬間的にカメラを地面に落とさないようにし、カメラは守ったのですが、左膝を強打してしまいました。
※転倒した時は左膝を強打したので痛みはありましたが、穿いているズボンが破けていないので大したことはないと旅を続けましたが、旅を終わって温泉に行った時、ズボンの下に穿いていたスポーツタイツの膝が破け、膝の処が5㎝くらい擦り剝けていました。
転倒から立ち上がり、宿場道標を記録に残し、先に進みました。
09時06分、宿場道標(右側)
問屋跡の小林家の隣り、宿場道標の真向いが浜田屋旅館で、T字路の角にあり、旧街道はT字路を左折する枡形道になっています。
09時07分、浜田屋旅館(左側)
※T字路分岐(枡形)=左折
枡形のT字路の突き当りに旧旅籠で旅館の米屋傳十郎家がありました。
09時08分、旅館・米屋傳十郎家(旧旅籠)
T字路から約240m歩くと左側に竹重家住宅があり、斜め手前を右折しました。
09時17分、竹重家住宅(左側)
竹重家住宅は旧旅籠辰野屋で、出桁造りの総二階建ての母屋は江戸時代末期の建築です。
旧中山道はここではなくもう少し先かもしれませんが、私たちはここが旧街道の枡形と思いクランク形に歩きました。
分岐①を左折し、約50m先の分岐②の十字路を左折しました。
※分岐①(枡形)=右折 ※分岐②(枡形十字路)=左折
分岐②を左折し、約240m歩くと、竹重家住宅の前を通っている道に合流し、右方向に進みました。
※合流=右方向
合流して約20m歩くと、右側に中山道道標が建っていました。
09時24分、中山道道標(右側)
中山道道標から約170m歩くと、左側に長久保宿碑の標柱が建っていました。
09時26分、長久保宿碑(左側)
長久保宿碑標柱の約10m先の左側奥に題目碑が建っていました。
※題目碑(左側)
題目碑の前が国道142号の長久保横町交差点で、交差点から約130m歩くと左側に馬頭観音が祀られていました。
09時30分、馬頭観音(左側)
馬頭観音から約600m歩くと右側のガードレールが終わった処に長和町標識(青地に白字で四泊落合 標高680m)が建っており、標識のところから右に下る道があり、旧
街道は右に下って進みます。
※分岐(標高680m標識)=右側
右方向に約30m進むと左側に中山道道標が建っており、道標の隣りに日本橋から48番目の四泊一里塚があり、解説パネルが建っていました。
09時37分、048四泊一里塚跡(左側)
四泊一里塚跡から約170m歩くと、再びR142に合流し、さらに約50m進むと右側にオギノモータースがあり、その先に明和11(1774)年に建立された道祖神が祀られていました。
09時41分、道祖神(右側)
道祖神から約120m歩くと、右側にのどか牧場直営のたまご屋キッチンがあり、街道の記録に残しました。
09時42分、たまご屋キッチン(右側)
たまご屋キッチンから約400も歩くとR142とR152が分岐する大和橋交差点があり、旧街道はR142と分岐してR152(大門街道)を進みます。
大和橋交差点から約160m進むと、右側の落合橋の手前左側に中山道道標が建っていました。
09時49分、中山道道標(左側)
中山道道標の斜め向かい側に大門川に架かる落合橋があり、R152を右折して落合橋を渡ります(赤矢印=大門街道)。
09時50分、分岐(R152)=右折 ※落合橋
落合橋を渡り約120m歩くと依田川に架かる和田橋があり、橋の手前右側に庚申塔、百万遍供養塔が建立されていました。
09時52分、庚申塔・百万遍供養塔(右側)
※和田橋からの眺め
和田橋を渡るとY字路になっており、左折して進みます。
※分岐(Y字路)=左折
Y字路分岐から約150m歩くと階段となり、階段を上って(右から迂回も可)旧R142に出て左折して進みます。
※分岐(R142)=左折
合流したR142を左折して約140m歩くと青原交差点があり、右折して進みます。
※分岐(青原交差点)=右折
青原交差点を右折するのですが、左角に水理の里碑が建っており、右折した旧国道を約70m歩くと左側に馬頭観音群が祀られていました。
また、馬頭観音群の先隣りに国史跡碑が建っていました。
09時58分、馬頭観音群・国史跡碑(左側)
馬頭観音群から約500m歩くと右側の道の下に道祖神と青面金剛像が前後して祀られていました。
10時04分、道祖神と青面金剛像(右側)
和田宿には多種多様のバスが建てられています。
本来は史蹟などとともに順番に記すのですが、バラバラになるよりバス停を順番に掲載した方がご覧になる方が分かり易いのではないかと考え、
・掲載はバス停順
・同じ建物は最初に現われたものだけにする
で掲載しました。
最初に現われるのが、道祖神と青面金剛像から約40m歩いた左側の上深山口バス停で、本格的な茅葺き屋根です。
①上深山口バス停(茅葺き屋根) ②中組下バス停(ベンチのみ)
③下和田中組バス停(トタン葺き) ④柳亦バス停
※下和田中組バス停の左裏側に馬頭観音碑が建っていました。
⑤柳又バス停 ⑥芹沢バス停
⑦和田学校前バス停 ⑧和田の原バス停
⑨和田新田バス停 ⑩上和田バス停
⑪鍛冶足バス停 ⑫唐沢バス停
上深山口バス停から約170m歩くと左側に中組公民館があり、公民館の手前左側に石仏石塔群がありました。
10時10分、石仏石塔群(左側)
石仏石塔群から約20m先のWark Creato SATOの建物脇(道路から少し奥に入る)に、小神社・道祖神が祀られていました。
10時分13分、小神社・道祖神(右側)
小神社・道祖神から約120m歩くと右側に斉藤木材工業があり、工場に沿って少し奥に入った処に地蔵尊・石塔群が祀られていました。
10時15分、地蔵尊・石塔群(右側)
地蔵尊・石塔群から旧街道に戻り約40m歩くと、左側に和田観光バスがあり、その手前左側にみみず道祖神が祀られていました。
10時17分、みみず道祖神(左側)
みみず道祖神から約120m歩くと左側の和田観光バスの真向い右側に、立場跡の相馬家の門が残されていました。
10時19分、立場跡(相馬家)=右側
立場跡から約110m歩くと長和町消防団第六分団火の見やぐらがあり、その脇に竹が囲われた水場がありました。
10時21分、水場(左側)
水場から約270m歩くと右側に道祖神の碑が車のタイヤの上に置かれていました。
10時24分、道祖神の碑(右側)
道祖神の碑から約40m歩くと、右側の少し奥に三千僧接待碑があり、多数の石塔が並んでいました。
10時24分、三千僧接待碑(右側)
三千僧接待碑から約50m歩くと左側に上立場バス停があり、さらに約90m歩くと右側に福猫像がありました。
10時28分、福猫像(左側)
福猫像から約20m先の右側に、線刻の男女双体道祖神が祀られていました。
10月29日、線刻双体道祖神(右側)
道祖神から約10m先の右側に、地蔵尊が祀られていました。
10時30分、地蔵尊(右側)
地蔵尊から約80m歩くと右側に、庚申塔が祀られていました。
10時32分、庚申塔(右側)
庚申塔から約40m歩くと、下和田上組バスがあり、さらに柳亦バス停、柳又バス停、柳又上バス停と続きます。
柳又上バス停の隣りの石垣の上に、馬頭観音が祀られていました。
10時39分、馬頭観音(左側)
馬頭観音から約20m進むと右側に、中山道道標が建っていました。
10時40分、中山道道標(左側)
中山道道標から約50m歩くと左側に、石仏石塔群がありました。
10時41分、石仏石塔群(左側)
石仏石塔群から約80m進むと横断地下道の開口部がありました。
信号機がないのでお年寄りの横断を保護するためなのか分かりませんが、ほとんど車が通らない旧国道に必要なのかと思いました。
10時42分、横断地下道
横断地下道の開口部から約20m先の左側に若宮八幡神社が祀られていました。
雨天だったので、本殿に参拝することなく失礼いたしました。
10時43分、若宮八幡神社(左側)
資料には若宮八幡の先に芭蕉句碑が建っていると記されていましたが、見付けることができませんでした。
神社から約150m歩くと左側に、日本橋から49番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
10時47分、049上組一里塚跡(左側)
天気は雨が降り続いており、地図は湿気で貼り付いてしまうなど最悪の状態です。
一里塚跡から、右側に日本ウォルナット、左側にJA信州うえだきのこ種菌を見ながら約400m歩くと、左側に芹沢バス停がありました。
さらに約350m歩くと左側に日石GSがあり、GSから450m進むとY字路分岐があり、左側に進みました。
11時04分、分岐(Y字路)=左側
Y字路分岐の左側に和田宿碑の大きな石が設置されていました。
11時04分、和田宿碑(左側)
和田宿碑から約100m歩くと、右側から合流する合流点に道祖神が祀られていました。
11時08分、道祖神(右側)
道祖神から約80m歩くと右側に和田学校前バス停あり、バス停の真向い左側に小社が祀られていました。
11時11分、小社(左側)
小社から約120m歩くと右側に、和田神社の鳥居が建っており、左脇に水場がありました。
11時13分、和田神社鳥居(右側)
和田神社鳥居の先隣りに和田中学校がありましたが、今年の3月28日に70年の歴史にピリオドが打たれ閉校になりました。
11時14分、旧和田中学校(右側)
旧和田中学校から約230m歩くと和田の原バス停があり、バス停の隣りに国史跡碑が建っていました。
11時18分、国史跡碑(右側)
国史跡碑から約30m歩くと右側に、八幡神社が祀られていました。
11時20分、八幡神社(右側)
八幡神社は和田城主大井氏の居館の鬼門除けとして建立され、後に和田宿の守護神になったそうです。
八幡神社から約350m歩くと追川に架かる追川橋があり、和田宿の中心街に入っていきます。
11月27日、追川橋
橋を渡ると右側に旧旅籠のかわち屋がありました。
11時27分、旧旅籠・かわち屋(右側)
かわち屋は和田宿の旅籠の中で規模が大きく、江戸末期の建築様式を残している。現在は歴史の道資料館として公開されている。
かわち屋の斜め向かいの一段高い処に、出梁り造りの下の問屋だった山木屋跡がありました。
11時28分、下の問屋(山木屋跡)=左側
山木屋の先隣りに往時の旅籠の佇まいを残している旧旅籠の大黒屋でがありました。
11時29分、旧旅籠・大黒屋(左側)
大黒屋の先隣りは穀屋で、重厚な土蔵建築を残していました。
11時30分、穀屋(左側)
昼近くなってきたので、食べられる処があったら入ろうと考えていると、Mさんが好物の蕎麦店が穀屋の斜め向かい(20mくらい先)に十割そばの店・徳田があり立ち寄りました。
11時31分~12時03分、昼食(蕎麦屋・徳田)=右側
店の入口は長屋門から入れると往時の雰囲気があるのですが、桃色の暖簾の処で、体を曲げないと入らない戸口になっており、ザックを引っ掛けないように体を曲げて中に入ると、広々とした店内になっていました。
※店内 ※田舎蕎麦(1,100円)
空いている席に座り、メニューから田舎そばを注文し、空腹を満たすとともに雨中5時間の街道旅の疲れを癒しました。
蕎麦店・徳田を出ると斜め向かいに歴代長井家が勤めた本陣跡がありました。
12時04分、和田宿本陣跡(左側)
大火後の再建で遺構を残し(国指定史跡)公開されていますが、入館が有料といことで立ち寄らないで先に進みました。
本陣を出て十字路を横切ると旅籠を営み年寄りを勤めた旧旅籠の石合があり、典型的な旅籠屋の外観を今も残していました。
12時05分、旧旅籠・石合(右側)
石合の斜め向かいに上の問屋を勤めた米屋鐡五郎があり、現在は和田宿休憩所になっていました。
12時05分、上の問屋跡(米屋鐡五郎)=左側
上の問屋跡(米屋鐡五郎)から約50m進むと右側に歴代翠川家が勤めた脇本陣跡がありました。
12時06分、脇本陣跡(翠川家)=右側
大火後の再建で、現在の建物は御殿部分のみであるが、上段の間等の遺構や皇女和宮の草履を残している。
脇本陣跡から約20m先の左側に庄屋を勤めた旧本亭旅館で、出桁造りの建物を残しています。
12時07分、旧本亭旅館(左側)
旧本亭旅館の向い側に、和田村道路元標が埋設されており、その脇に上和田バス停がありました。
12時08分、和田村道路元標(右側)
道路元標から約50m歩くと左側に、往時は質屋と両替商を営んでいた萬屋があり、現在は酒店を営んでいました。
12時10分、萬屋跡(左側)
建物は、卯建てと白壁土蔵を残しています。
萬屋から約70m歩くと左側に、上町公民館があり、道路脇に不動明王が祀られていました。
12時14分、不動明王(左側)
不動明王から約70m歩くと右側に、高札場跡がありました。
12時15分、高札場跡
高札場は、正面3間、奥行き7尺の一段高い敷地に、正面2間の屋根付きだったそうで、旅人はここでは笠等の被り物を取るのが習わしだったそうです。
高札場跡から約190m歩くと二又の道があり、分岐の左側に和田上町バス停があり、その向かい側に常夜燈が二基建っている馬頭観音がありました。
12時18分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から約100m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
12時22分、道祖神(右側)
道祖神から約100m歩くと左側に、芭蕉の門人だった菅沼曲水の句碑が建っていました。
12時24分、曲水句碑(左側)
曲水句碑から約180m歩くと右側に、鍛冶足バス停があり、バス停の脇に男女双体道祖神が祀られていました。
12時25分、男女双体道祖神(右側)
道祖神から約230m歩くとR142と交差する和田鍛冶足交差点があり、交差点を渡ります。
※和田鍛冶足交差点
旧街道は交差点を渡った処を右折するのですが、右角の左側に、日本橋から50番目の一里塚跡があり、跡地に石柱が建っていました。
また、傍らには「右諏訪街道、左松沢街道」と記された道標が建っていました。
12時30分、050鍛冶足一里塚跡・道標(左角)
旧街道は鍛冶足一里塚を左に見て約20m進むと、二又分岐となり、左方向に進みます。
※分岐(R142)=左方向
分岐から約150m歩くと右側に茅葺き屋根の大出バス停があり、その先のY字路を左側に進みます。
※分岐(Y字路)=左側
Y字路分岐を約40m進むと右側に、中山道道標が建っていました。
12時41分、中山道道標(右側)
中山道道標から約190m歩くと左側に依田川に架かる大出橋があり、大出橋のたもとに道祖神が祀られていました。
12時45分、道祖神(左側)
道祖神から約160m歩くと急坂となり、約50mの急坂を上り切るとR142に合流し、合流した処の右側の段上に神社(白矢印が参道)が祀られていました。
神社は草木に囲まれて良く見えませんので、注意して下さい。
12時50分、神社(右側)
神社から約40m歩くと右側の草木に覆われた中に2基の石碑(白丸)が建っていました。
12時51分、石碑(右側)
石碑から約600m歩くとそば処・黒曜がありました。
店の前に黒曜と並んで昼食で立ち寄った徳田と記された看板が掲げられていたので、系列の蕎麦屋さんなのかな?
12時59分、そば処・黒曜(左側)
そば処・黒曜から約200m歩くと街道から約20m奥に入った処に、3基の馬頭観音が祀られていました。
13時01分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から約90m進むと左側に杉の屋食堂があり、店舗の前の杉木立の中に寛政年間に建立された祝言道祖神が祀られていました。
13時04分、祝言道祖神(左側) ※杉の屋食堂
往時、祝言道祖神の真向い側(右側)には2軒の茶屋があり、うち1軒は「塩つけ宿」と呼ばれる中牛馬稼ぎの宿泊所で、信州の特産品を上州まで運び、帰路は貴重な塩を持ち帰ったそうです。
※牛宿跡付近(右側)
杉の屋食堂前から約1㎞歩くと左側に扇峠口バス停があり、右側に扇峠道追分がありました。
13時18分、扇峠道追分(右側)
扇峠道は和田と松本を結び、難所の扇峠(1,630m)を控え、冬季は通行止めになり、現在も通行止めになるそうです。
扇峠道追分から約260m歩くと斜め右側に進める分岐があり、旧街道は右側に入ります。
※分岐=右側
分岐を右側に入り約120m歩くと依田川に架かる一の橋があり、雨続きで水かさが増している依田川の流れを記録に残しました。
13時22分、依田川の流れ(一の橋)=右側の眺め
一の橋を渡り、約140m歩くとR142に合流し、R142の右側を約30m進むと左側に羽田貞義翁頌徳碑が建っていました。
13時25分、羽田貞義翁頌徳碑(左側)
羽田貞義翁頌徳碑から約40m歩くと左側の道路から少し奥に入った処に馬頭観音(白丸)が祀られていました。
13時26分、馬頭観音(左側)
馬頭観音から約30m歩くと、左に入って行ける道があり、ここが街道の付け替えで廃道になった古中山道口で、唐沢一里塚に繋がっています。
一方、私達は古道にしようか、新道にしようか迷いましたが、本陣のある新道を歩き、途中で古道を少し戻って一里塚を見ることにしました。
※古中山道口(左側)
古中山道口から約70m歩くと右側に、唐沢下バス停があり、斜め右側の道に入ります。
13時27分、分岐(唐沢下バス停)=右折
唐沢下バス停から約200m歩くと右側に、茅葺き屋根の民家がありましたが、住んでいないようです。
13時30分、茅葺き屋根の民家(右側)
茅葺き屋根の家から約60m進むと右側に唐沢バス停があり、地図の整理や水分補給で小休憩を取りました。
13時31分~13時34分、休憩(唐沢バス停)=右側
バス停を出ると直ぐ隣りが羽田茶屋本陣跡で、門柱に「本陣」と記された表札(白丸)が掲げられていました。
13時34分、羽田茶屋本陣跡(右側)
本陣跡から約130m歩くと左折できる舗装路があり、左折して進みます。
曲がる左角の右側に字の消えた木の小さい道標が建っています。
※分岐(左折)
左折した舗装路を進むと右カーブする手前辺りから草道となり、歩いた形跡のない草道を進みました。
草道に入った処で、右前方を見ると(白丸)鹿(親)がいました。
鹿は鹿取り罠に捕まったようで、足に紐が付いており、逃げようと必死に暴れていました。
※草道
Mさんが「あんな大きな鹿に襲われたら大変だよ」と、急いでこの場所を離れようと促され、大きく伸びた草を藪漕ぎして国道142との合流地点に出ました。
※藪漕ぎ道
藪漕ぎ道の土手を上りR142と合流する地点に出てR142の進行左側に渡り、約160m坂を上ると左側の擁壁の上に、唐沢一里塚を記す標識が建っており、
標識の先に階段があり、一里塚に向かいました。
※唐沢一里塚入口碑(左側)
階段と坂を約100m上ると日本橋から51番目の唐沢一里塚があり、両塚が残され、脇に解説パネルが建てられていました。
13時43分、051唐沢一里塚(両塚) ※解説パネル
唐沢一里塚を確認し、旧中山道に戻り約280m進むと左に進む道がありますが、旧街道はR142を道なりに右に進みます。
※分岐=右側
さらに約30m進むと和田川に架かる二之橋がありました。
※二之橋から和田川の眺め
二之橋を渡って約30m進むと右側の草むらに観音沢分教場跡に石碑が建っていました。
13時48分、観音沢分教場跡碑(右側)
観音沢分教場跡碑から約140m上ると左側に、今日の旅の到着地である観音沢バス停があり、バス停の前で恒例の到着式を行い、今日の旅を終えました。
13時50分、観音沢バス停(左側)
【宿泊】
《温泉》
〔移動〕
今日の宿泊は姫木平別荘地内にあるペンション「サイレントスノー」です。
和田宿で宿泊しようと考えていた旧本亭旅館に電話すると、サイレントスノーに転送され、和田宿で宿泊先を探していると話すと、「送迎してあげますよ」と云われ予約しました。
宿泊先から昼過ぎに連絡下さいと云われていたので、鍛冶足交差点の処で連絡し、14時頃に観音沢バス停で合流することになりました。
雨中の中、約20分待っていると、ミニカーに乗ったご主人が来られ、挨拶して乗せて頂きました。
ここからペンションまで約14㎞、約30分です。
ご主人から「まだ時間が早いから、もう少し先まで歩きますか?」と云われましたが、早朝から雨の中を約20㎞歩いてきているので、「今日は朝7時前から歩いているので、これ以上は歩きません」と話し、ペンションに向かってもらいました。
※Mさんは早くペンションに行って、体を休めたいと云っておりました。
ところがご主人は真っ直ぐにペンションに向かわないで、「白樺湖畔のすずらんの湯に入って行きましょう」と云われ、「タオルがない」、「ペンションのお風呂で良い」などと固辞する我々に関係なく、車はR142の新和田トンネルの手前で県道155に入り、ブランシュ高山スキー場の脇を走ってR152(大門街道)に合流し、宿泊するペンションのある姫木平別荘地の前を通過し、大門峠を経由してすずらんの湯に向かいました。
〔温泉〕
14時40分、すずらんの湯着
ご主人が用意してきたタオルを借り、入浴料は後で支払うことにし、ご主人の云うとおりに動き温泉に入りました。
すずらんの湯は温泉が出来た頃からスキーなどの帰りに入っているので、慣れた温泉に入る感じで入浴しました。
ただ、着替えを持参していないので、肌着や靴下をそのまま身に付けなければならないのが残念です。
内湯や露天風呂に入り、今日の汗を流し、気分もスッキリして温泉を後にしました。
《宿泊》
15時55分、ペンション着
ペンションに入り奥さんに挨拶し、宿泊する2階の部屋に案内されました。
部屋は3ベットが設置されており、Mさんと両サイドのベットに分かれて使うことにし、寝着に着替えました。
夕食は18時からということで、ザックの荷物整理や明日の準備などを行い、テレビを見ながら夕食を待ちました。
〔夕食〕
18時頃に食事をするリビングに移動し、私は一人ビールで咽喉を潤し、ご夫婦と歓談しながら安らぎのひと時を過ごしました。
ご主人は80才になるのに美ヶ原スキー学校の校長を務める現役で、美ヶ原の山本小屋のご主人でもあります。
旧本亭旅館との関係は、経営者がお姉さんとのことで、兄弟の関係から問い合わせに対応されているようです。
約2時間経過したところで、明日のために早く休むことにし、朝食(6時頃)、出発(7時)、昼食の弁当などの打合せを行い部屋に戻りました。
【次回の予告】
次回の第14回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=10月16日(月)
行 程=和田宿・観音沢バス停 ~ 下諏訪駅入口交差点
歩程距離=約16.4㎞
です。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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https://michinoku-trail.blog.jp/
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