【宿場】 (29)下諏訪宿 ⇒ (30)塩尻宿 ⇒ (31)洗馬宿
【行程】 歩行距離=13.43㎞ 総距離=237.74㎞
下諏訪宿・下諏訪駅前交差点 ⇒ (2.71㎞) ⇒ 056東堀一里塚跡 ⇒ (2.42㎞) ⇒ 石舟観音入口 ⇒ (1.75㎞) ⇒057東山一里塚跡 ⇒ (2.42㎞) ⇒ 塩尻町交差点 ⇒ (2.0㎞) ⇒ 塩尻町交差点 ⇒ (2.13㎞) ⇒ 洗馬宿・ガード手前分岐
【ルート図】
↓宿場(桃色=第15回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第15回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
碓氷峠と和田峠の2つの大きな峠を越え、今回の旅から信越本線沿いの旅から中央線沿線の旅となり、今日は前回旅(H29.10.16)の到着点である「29下諏訪宿・下諏訪駅前交差点」から「31洗馬宿・ガード手前分岐」までの約13.43㎞を歩きます。
下諏訪町は甲州道中の到達地であるとともに、Yumiさんの母親の生誕地でYumiさんともども沢山の思い出が残っている町です。
下諏訪を散策する訳ではありませんが、新たなる旅の出発には最高の場所になりました。
前回の旅から約1ケ月。
この間に、
・写真の整理(約700枚)
・旅ブログの作成
・今回の旅資料の作成
と、時間がもっとほしいと思いながらの忙しい日々を過ごし今日を迎えました。
《移動》
いつもより早く起床し、旅の支度を整え、旅の時の定番の焼き餅(きな粉)で朝食を済ませ、相方のMさんと待合せている場所で合流し、出発地の下諏訪駅に向かいました。
車窓から紅葉した山々を眺め、秋の深まりを感じながら体を休めていました。
09時24分、下諏訪駅着
下諏訪駅を出てトイレに立ち寄り、駅から約240m離れた出発地の下諏訪駅前交差点に向かいました。
小淵沢駅付近を通過する時は強い雨が降っていましたが、下諏訪駅を降りたつ時は雨は止んでおり、傘を使うことなく出発地に立つことができ、恒例の出発式を行い旅に出立しました。
【=旅=】
09時37分、下諏訪宿・下諏訪駅前交差点(出発地)
気を引き締めて今日の到着地を目指す第一歩を踏み出しました。
出発地から約140m歩くとY字路分岐となり、左側の道に入ります。
※Y字路分岐(左側)
Y字路分岐から約50m歩くと左側に魁塚があり、石段の上に石柱で囲まれた中に石碑が建っていました。
09時42分、魁塚(左側)
魁塚は(さきがけづか)は、相楽総三(さがらそうぞう)(本名 小島将(まさ)満(みち)1839~1868)始め8人の赤報隊(相楽率いる一番隊の呼称)幹部が冤罪(えんざい)により、慶応4年(1868)3月3日斬首(ざんしゅ)の刑に処せられた地に、かつての同志であった人達や有志により明治3年 (1870)建立された塚です。
魁塚で衣服調整(アウタージャケットを脱ぐ)と水分補給を行い、約160m歩くと県道185号に突き当り、県道を街道から右側に約20m進むと一の宮常夜燈が建っていました。
09時45分、一の宮常夜燈(右側)
常夜燈から街道に戻り約180m歩くと右側に松沢畳店があり、その先の変則十字路の右角に、4本の柱で囲まれた道祖神が祀られていました。
09時48分、道祖神(右側)
道祖神から約110m歩くとT字路に突き当り、道路を渡った処の右側の生垣にカーブミラーと左側の低い白壁塀の間に1人がやっと歩ける細い道があり、①中山道道標が建っているところを進みます。
②細い道を進むと砥川の土手に突き当り、土手を右折します。
①家の間の細い道 ②土手T字路(右折)
③土手道を約70m歩くと、R20号に合流し、左折して富士見橋をわたり、④石神ホンダの手前を左折します。
③合流(左折) ④分岐(左折)
⑤石神ホンダに沿って右折する
⑤分岐(右折)
石神ホンダの裏を右折して約280m歩くと十四瀬川に架かる木橋があり、木橋を渡って進みます。
※木橋(直進)
木橋を渡って約600m歩くと、左側に旧渡辺家住宅の案内標柱が建っており、街道から外れて見学に行きました。
10時06分、分岐(旧渡辺家住宅)
分岐から約50m進むと、右側に旧渡辺家住宅が保存されていました。
10時08分、旧渡辺家住宅(右側)
旧渡辺家住宅は、高島藩の散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅跡で、村の治安や警備を担っていたようです。
街道に戻り、約220m歩くと県道14号の長地中町交差点があり、交差点を渡った左側に寛政3(1791)年に建立された道標が建っていました。
10時11分、道標(左側)
道標は、寛政3年に建立され「右中山道、左いなみち」と刻まれており、飯田を経て松本に至る道で、百万遍供養塔を兼ねている。
道標から約260m歩くと、「雀おどり」の棟飾りを上げた本棟作りの旧家がありました。
雀おどりの棟飾りの旧家は塩尻宿にまたがっているため、バラバラに掲載するよりまとめて掲載が分かり易いと判断し、一括して掲載しました。
10時16分、本棟作り(棟飾りの雀おどり)
①雀おどり(下諏訪宿) ②雀おどり(下諏訪宿)
長野自動車道柿沢橋歩道橋の先
③雀おどり(塩尻宿) ④雀おどり(塩尻宿)
⑤雀おどり(塩尻宿) ⑥雀おどり(塩尻宿)
雀おどりの棟飾りの付いた本棟作りの家から約290m歩くとR20の出早口交差点があり、交差点を斜め真っ直ぐに渡ります。
※分岐(出早口交差点)=斜め真っ直ぐ
交差点を渡って約70m進むと右側に駐車場があり、鉄塔前付近の笹竹に囲まれて日本橋から56番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
10時22分、56東堀一里塚跡(右側)
一里塚から約550m歩くと右側に常夜燈と道祖神が建っていました。
10時31分、常夜燈・道祖神(右側)
常夜燈から道路を横切るなど約20m進むと、右側に馬頭観音が祀られていました。
※馬頭観音(右側)
馬頭観音から横河川に架かる大橋を渡るなど約140m歩くと、左側に石塔群が建っていました。
10時34分、石塔群(左側)
石塔群から約500m歩くと右側に岡谷市消防団第一分団の火の見やぐらがあり、その足元に男女双体道祖神が祀られていました。
10時41分、男女双体道祖神(右側)
道祖神の先を右折して街道を離れて約120m入ると、金網フェンスに囲まれた奥に今井観音堂があり、お賽銭をご奉納して参拝し、Yumiさんの病気完治と旅の御加護をご祈願しました。
10時45分、今井観音堂(右側)
今井観音堂から街道に戻り約160m歩くと、左側に明治13年(1880)に明治天皇が山梨、三重、京都方面を巡幸した時に飲まれたご膳水の跡に碑が立っていました。
10時48分、明治天皇今井御膳水碑(左側)
御膳水碑の先隣りに石柱が建っていました。
※石柱(左側)
御膳水碑から約25m(石柱の処)先の左側に、今井番所跡碑が建っていました。
10時49分、今井番所跡碑(左側)
番所は高島藩が設けた口留番所で、ここを通過するには高島藩の通行手形が必要だったそうです。
番所跡の斜め先向いに、今井茶屋本陣跡があり、子孫が現在も住んでいました。
10時50分、今井茶屋本陣跡(右側)
西に塩尻峠を控え4軒の茶屋があり四ツ家立場と呼ばれ、今井氏が茶屋本陣を勤めました。皇女和宮が休息し、門脇には「明治天皇今井御休所跡」が建っており、主屋など11棟が国登録有形文化財になっている。
10時48分~10時53分、休憩
今井茶屋本陣前で休憩を取り持参したアンパンを食べていると、山の会で街道旅をしている一団が来られそのまま通り過ぎようとしたので、「本陣を見ていかないのですか?」と声を掛けると、リーダーが立ち止まり「ここで休憩します」と号令を掛け休憩になりました。
男性3人、女性10人くらいの団体で、私達と同じように下諏訪駅から出発して旧中山道を歩いているようです。
今井茶屋本陣跡から約60m歩くと、右側に中山道碑が建っていました。
10時56分、中山道碑(右側)
中山道碑から約220m歩くと、右側に不動尊碑が建立されていました。
11時00分、不動尊碑(右側)
〔分岐を間違える〕
街道は不動尊碑から約140m歩くと右に曲がりながら進み、新開跨道橋を渡って突き当りを左折するのですが、道を間違えて新開跨道橋の手前の中堤歩道橋①を降りてしまい、その先の中堤歩道橋②を上ってR20バイパスを横切りました。
※中堤歩道橋①(白矢印)に左折 ※中堤歩道橋②を上って渡る
街道に合流し、右側に建っている「旧中山道、石舟観音」道標に沿って右折します。
11時05分、分岐(石舟観音道標)=右折
分岐から約300m坂を上ると、眼下に諏訪湖を眺めることができ記録に残しました。
※諏訪湖の眺望
さらに約50m歩くと、右側に石舟観音があり立ち寄りました。
石段を上ると門の頭上に馬頭観音と記された額が掲げられており、さらに階段を上った処に社が祀られていました。
11時11分、石舟観音 ※社
石舟観音は本尊の馬頭観音が船状の台上に安置されている所から名付けられており、足腰の弱い人にご利益があるといわれている。境内の鳴沢清水は参拝者の咽喉を潤してきたそうです。
先ほどの一団より先に今井茶屋本陣を出発したのですが、石舟観音に立ち寄っている間に先に進みました。
※塩尻峠の上り道を歩く団体
石舟観音から約230m歩くと、左側に塩尻峠の大岩がありました。
11時18分、塩尻峠の大岩(左側)
大岩から約750mで標高約110m上るきつい林道上り坂で、ハーハー息を切らしながら歩いて塩尻峠に着きました。
先ほどの一団とは塩尻峠の途中まで相前後して歩きましたが、一団が休憩に入ってから会うことはありませんでした。
峠に着くと右側に明治天皇が野立した塩尻峠御野立公園があり、Mさんは公園内の展望台(3階建て)で諏訪湖を眺める云って見に行き、私は水分補給したりして息を整えていました。
11時33分、塩尻峠(直進)
※明治天皇野立跡碑 ※富士浅間社の石祠
峠から今度は一転して下り坂となり、約180m下ると右側の階段の上に天保15年(1844)に建立された中馬に使用した馬の供養塔が建っていました。
11時41分、馬頭観音(右側)
馬頭観音の斜め向かい側に上条茶屋本陣がありました。
11時40分、上条茶屋本陣跡(左側)
本陣は寛政8年(1796)に建築された本棟作りで、門、玄関、上段の間が残され、皇女和宮もここで休息したそうです。
門が開いていたら見学したかったのですが、閉ざされていたので記録だけ残して先に進みました。
本陣跡の真向いに明治天皇がお飲みになった御膳水の跡があり碑が建っていました。
11時41分、明治天皇塩尻嶺御膳水碑(右側)
碑の奥に井戸の形態が残されていました。
本陣跡から約260m歩くと、右側に享保元年(1716)に建立された親子地蔵が祀られていました。
11時45分、親子地蔵(右側)
親子地蔵は天明の大飢饉で行き倒れになった旅の親子を供養して造立された。
親子地蔵から約300m歩くと、左側に日本橋から57番目の一里塚あり、南塚が残されていました。
11時47分、57東山一里塚跡(左側)
元和2年(1616)に塩尻峠が開通し、中山道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更された時に築造されたものだそうです。
一里塚跡から約50m歩くと、中山道道標が建っていました。
11時48分、中山道道標(左側)
中山道道標から約230m歩くとY字路となり、左側に進みます。
※Y字路分岐(左側)
Y字路から約270m歩くと左側に中山道道標、右側にカーブミラーのある分岐があり、右側を進みます。
※分岐(右側)
分岐の左角に石仏石塔群がありました。
11時56分、石仏石塔群(左側)
分岐の石仏石塔群から約350m歩くと、正面にR20を跨ぐ塩尻東山歩道橋、左側に中山道道標が建つ分岐となり、右折して進みます。
12時04分、分岐(右折)
分岐から約60m歩くと梯子段の釣り鐘があり、記録に残しました。
12時05分、梯子段の釣り鐘(右側)
梯子段の釣り鐘から約50m歩くと、犬飼の清水跡があると資料に記されていたのですが、標識なく、清水跡も明確に分からず、Mさんと二人で付近をさがしましたが見付からず、石が集まっていた処を記録に残し先に進みました。
※犬飼の清水跡付近?(右側)
犬飼の清水跡付近から約20m進むとR20に合流し、R20を右に約140m歩くとY字路分岐となり、旧街道は右側に進みます。
12時11分、Y字路分岐(右側=黄矢印)
11時頃から昼食の店を探しながら歩いていると、Y字路分岐を左側(白矢印)に少し進むと食べられる店があり、街道を離れて食べに寄りました。
12時14分~12時32分、昼食(焼肉・東山食堂)
店に入り、案内された席に座ってメニューを見ると、焼肉しかありません。
M=焼肉以外に食べるものはありませんか
店=焼肉店なので、ラーメン以外はありません
Mさんと相談し、ラーメンを食べることにして、ラーメンを注文しました。
配膳までの時間は「え、もう出来たの?」という速さで、ラーメンはお世辞にも美味しいとは云えず、お腹を満たしただけで20分弱で店を後にし、旧街道に戻りました。
分岐から旧街道を約400m歩くと斜面の上に、牛馬守護神碑が建っていました。
12時39分、牛馬守護神碑(右側)
牛馬守護神碑から約30m先あたりが新茶屋立場跡のようですが、場所は標識や遺構がないので分かりません。
※新茶屋立場跡付近
新茶屋立場跡付近の下り坂は永井坂だそうです。
※永井坂
永井坂を下って行くとR20に突き当たるのですが、歩道はR20から折り返す形で階段を下り、地下道を潜って横断します。
私とMさんは地下道を潜るのが面倒で、R20を横切りました。
※R20横断地下道
地下道を潜って外に出ると、右側の土手に伐採されたヒノキ並木の名残りの根っこが残っていました。
※伐採されたヒノキ並木跡(右側)
ヒノキ並木跡を右側に見ながら歩いていると、長野自動車道に架かる柿沢歩道橋があり、歩道橋の手前を右折するとみどり湖PA上り線に下る階段があります。
※みどり湖PA上り線に下る階段 ※PAに繋がる階段
階段を下りると高速バスの停留所があり、右折してPAの休憩所に向かいます。
※高速バスの停留所
高速バス停留所を通り過ぎて約80m歩くと休憩所があり、椅子に座って休憩しました。
12時51分~13時03分、休憩
階段を上り、旧街道に戻り柿沢歩道橋を渡って先に進みます。
※柿沢歩道橋からのみどり湖PA上り線の眺め
柿沢歩道橋を渡って約170m歩くと右側に嘉永6年(1853)に建立された馬頭観音が祀られていました。
13時09分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から約450m歩くと左に入る道の角に、首塚胴塚の道標が建っており、街道を離れて見学に向かいました。
左折して約110m歩くと左側に白い案内看板が建っており、看板に沿って左折します。
※分岐(首塚胴塚①)=左折 ※分岐(首塚胴塚②)=左折
左折して細い道を約90m歩くと、左側に入った処に首塚と胴塚の石碑が建っていました。
13時17分、首塚・胴塚碑(左側)
首塚胴塚は天文17年(1548)武田晴信(信玄)と松本の小笠原長時が塩尻峠で合戦となり、小笠原勢が大敗しました。その時、戦死した千余名の亡骸を柿沢の人々がこの地に埋葬したそうです。その後、小笠原長時の子の貞慶は家康に見いだされ嘉永9年(1632)小倉藩15万石の大名になりました。
首塚・胴塚入口道標の斜め向かいに男女双体道祖神が祀られていました。
13時21分、男女双体道祖神(右側)
首塚胴塚入口から約140m歩くと右側に雀おどりの棟飾りのついた本棟作りの築180年の旧家があり、その家の真向いに高札場跡がありました。
13時26分、高札場跡(左側)
本棟作りの築180年の旧家の前(高札場の斜め前)に道祖神が建っていました。
※本棟作り・雀おどり(右側)
13時26分、道祖神(右側)
高札場跡から約230m歩くと、下柿沢交差点があり、交差点の手前の右角に道祖神が祀られていました。
13時30分、道祖神(右側)
下柿沢交差点から約60m歩くと分岐点に火の見やぐらのあるY字路となり、左側の道を進みます。
※Y字路分岐(左側)
Y字路から約220m歩くとR153(三州街道)に合流し、右折して四沢川に架かる緑並橋を渡ります。
13時35分、分岐(R153)=右折
分岐から約100m歩くと右側に男女双体道祖神があり、男女が抱擁していることから「お女郎道祖神」とも呼ばれています。
13時36分、お女郎道祖神(右側)
お女郎道祖神から約100m歩くと仲町交差点があり、分岐点に日本橋から58番目の一里塚跡があり、石碑と解説板が建っていました。
13時37分、58柿沢一里塚跡(右側)
仲町交差点手前の柿沢一里塚跡から交差点を通り過ぎる左側に、道祖神が祀られていました。
13時39分、道祖神(左側)
道祖神から約20m進むと、左側に阿禮神社御旅営が祀られていました。
13時39分、阿禮神社御旅営(左側)
阿禮神社御旅営から約30m歩くと、左側に三州街道碑が建っていました。
13時40分、三州街道碑(左側)
三州街道碑の斜め向かい側(小口商店の手前)に、塩尻口留番所跡碑が建っていました。
13時42分、塩尻口留番所跡碑(右側)
塩尻口留番所跡碑から約80m歩くと、右側に十五堂跡碑が建っていました。
13時43分、十五堂跡碑(右側)
十五堂跡碑から約20m歩くと、右側に長屋門が遺構として保存されていました。
13時43分、長屋門の遺構(右側)
長屋門の遺構のところから約50m歩くと右に入る道路の角に、五千石街道碑が建っていました。
13時44分、五千石街道碑(右側)
※五千石街道=松本を経由して糸魚川に至る北(裏)塩の道
五千石街道碑から約260m歩くと右側に、重要文化財の小野家住宅があり、立ち寄りました。
13時48分、重要文化財・小野家住宅(右側)
小野家は江戸時代「いてうや(銀杏屋)」の屋号で旅籠屋を営み、建物は塩尻宿を通る中山道が塩尻峠に向かって上りかかる所に建っています。間口は八間、切妻造、平入、二階建の背面に棟を直角に平屋が続いており、内部は二階の客室に、鶴、松などを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付ける。なかでも「桜の間」は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に示しており、幕末の宿場の雰囲気を示す好例である。
平素は有料での拝観ですが、今日は塩尻宿の日で無料で解説付き案内で拝観させて頂きました。
実物は写真より数段素晴らしく、見学に訪れることをお勧めします。
※廊下と客間 ※襖絵 ※桜の間
小野家住宅の見学を終え、約40m歩くと塩尻町交差点となり、進行左側の交差点付近に上問屋跡碑が建っていました。
14時01分、上問屋跡碑(左側)
塩尻町交差点を過ぎた左側に、明治天皇行在所跡碑が建っていました。
14時01分、明治天皇行在所跡碑(左側)
明治天皇行在所跡碑の道路真向いに高札場跡があり、モニュメントの脇に下問屋跡碑が建っていました。
14時02分、高札場跡・下問屋跡碑(右側)
明治天皇行在所跡碑から約20m進むと左側に、塩尻宿本陣跡があり、跡碑が建っていました。
14時03分、塩尻宿本陣跡(左側)
本陣跡碑の先隣りに、塩尻宿碑と脇本陣跡碑が建っていました。
14時04分、塩尻宿碑・脇本陣跡碑(左側)
脇本陣跡から約40m歩くと笑亀酒造があり、入口ブロック塀の脇に塩尻陣屋跡があり、石碑が建っていました。
14時05分、塩尻陣屋跡(左側)
塩尻宿は慶長10年(1605)以降、天領となり、享保10年(1725)に幕府直轄領となり陣屋が置かれた。
陣屋跡の笑亀酒造は銘酒笑亀の蔵元で、なまこ壁で覆われた穀蔵は国登録有形文化財に指定されている。
※笑亀酒造(左側)
笑亀酒造から約200m歩くと塩尻町歩道橋があり、街道は手前を右折します。
※分岐(右折)
右折するため歩道橋の所に行くと歩道橋の根元に、駕籠立場跡と塩尻村役場跡があり、石碑が建っていました。
14時08分、駕籠立場跡・塩尻村役場跡(左側)
歩道橋を渡り、階段を下りた所に鉤の手跡があり、石碑が建っていました。
なお、この場所は枡形跡でしたが、忘れて記録を残せませんでした。
14時10分、鉤の手跡(左側)
鉤の手跡から約140m歩くと、右側に阿禮神社があり、鳥居の処から一礼して先に進みました。
14時12分、阿禮神社(右側)
延喜式神名帳に記載された古社で、社殿は享保3年(1718)に再建されたものである。
神社の入口から約10m進むと右側に塩尻東小学校があり、校門の前に塩尻宿碑が建っていました。
ここが塩尻宿の西の出入り口の京口でした。
14時13分、塩尻宿碑(右側)
塩尻宿碑から約300m歩くと右側に、火除けの鬼瓦がブロック塀の上に飾られた旧家がありました。
14時18分、火除けの鬼瓦を飾る旧家(右側)
旧家から約20m歩くと右側に、男女双体道祖神が祀られていました。
14時18分、男女双体道祖神(右側)
道祖神の先隣りが旧堀の内村の名主を勤めた堀内家で、本棟造りの家屋は国の重要文化財になっているのですが、全面改修中で見ることができませんでした。
14時19分、堀内家住宅(右側)
堀内家住宅から約250m歩くと大小屋交差点となり、左角に石仏石塔群がありました。
14時22分、石仏石塔群(左側)
大小屋交差点を横断し、左側のミキ美容室と右側の飯田犬猫病院看板の間(細道)を進みます。
※分岐(左斜めの細道)
細道を約190m進むとT字路となり、突き当りを右折、約20m先でR153に合流し、
左折して田川に架かる塩尻橋を渡ります。
塩尻橋を渡りR153を約180m歩くと下大門交差点があり左折します。
下大門交差点を右折すると、R153は松本街道として善光寺西街道に通じています。
※分岐(下大門交差点)=右折 ※松本街道(赤矢印)
下大門交差点から約230m歩くと右側に大門神社があり、一服休憩に立ち寄りました。
14時32分~14時45分、休憩(大門神社)=右側
大門神社から約40m進むと右側に耳塚神社が祀られていました。
14時46分、耳塚神社(右側)
耳塚神社は、天文17年(1548)桔梗ケ原の合戦で武田晴信(信玄)と小笠原長時が戦い、武田軍が勝利しました。この戦いで討ち死にした将兵の耳を葬った所と云われ、耳の聞こえるご利益があると評判だったそうです。
耳塚神社から約80m進むと、右側の民家の植え込みの中に男女双体道祖神が祀られていました。
14時16分、男女双体道祖神(右側)
男女双体道祖神から約210m歩くと、今日の旅の到着地であるガード手前の分岐に着きました。
到着地で旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を行い、今日の旅を終えました。
14時51分、洗馬宿・ガード手前分岐(到着地)
到着式を終え宿泊する旅館に向かう途中に「有明山神燈」があるというので、史蹟を探しながら約50m歩くと、左側に入る道の分岐に建っていました。
14時55分、有明山神燈(左側)
【宿泊】
有明山神燈から約400m歩くと、T字路となり、T字路の左側に宿泊する藤金旅館がありました。
旅館に入りチェックインを行い、夕食は18時頃、翌日の朝食は6時30分頃ということで部屋に案内されました。
〔行程変更〕
部屋は個室で、Mさんと交替で入浴したり、ザックの荷造りしたり、翌日の旅の行程を確認したりして過ごしました。
その中で、旅の行程は贄川駅前までの14.9㎞で計画していましたが、3日目の行程と帰路の電車の乗車時間(13:19)を考え、木曾平沢駅まで5.4㎞を追加することに変更しました。
〔夕食〕
Mさんとの打合せを終え、18時頃から夕食になりました。
夕食は鱒とハンバーグに3品の小皿と、料金に見合ったものが配膳され、ビールで喉を潤し至福のひとときを楽しみました。
相方のMさんは飲めないので、私一人で飲むのですが、1本では物足りなく追加して2本飲み、Mさんは私が食べ終わるまで話し相手になって下さいました。
お腹を満たし明日の朝食の時間を確認し部屋に戻りました。
疲れと酔いでベットに横になると瞬く間に夢の世界に入ってしまいました。
次回の第16回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=11月12日(日)
行 程=洗馬宿・ガード手前分岐 ~ 奈良井宿・木曽平沢駅入口
歩程距離=約20.3㎞
泊まる宿が奈良井宿のため、木曽平沢駅から奈良井駅まで1駅移動し、夕食の前に奈良井宿を観光する予定です。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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