旧中山道二人旅

旧東海道、旧甲州道中と2つの街道を踏破し、5街道の中で一番距離が長く、峠越えも多く、一番厳しい中山道の歩き旅をします。 相方のYumiさんは車椅子とベットの生活となり特養でお世話になっているため、中山道の旅は旧甲州道中を旅したMさんと二人で旅をすることになりました。 今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅を行います。 旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入り、東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。 街道で見かけましたら、気軽に声を掛けて下さい。

2016年09月

【天候】 曇りのち晴れ
【宿場】 日本橋=(01)板橋宿=(02)蕨宿
【行程】 歩行距離=16.9㎞(総距離=16.9㎞)
基点・日本橋=(3.9㎞)=森川宿追分=(3.8㎞)=庚申塚駅踏切=(4.3㎞)=志村坂上交差点=(4.9㎞)=戸田公園・本町一丁目交差点
【ルート図】
 ↓宿場(ピンクマークが第1回旅の宿場)

000 第1回宿場図
 ↓第1回旅のルート
000-1 第1回ルート
【再訪】
 街道旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  
〔※①〕=令和04(2022)年12月09日
【旧中山道二人旅】

《序章》
東海道、甲州道中に引き続いて3街道目の「中仙道」の旅に出発するに当たり、甲州道中を一緒に歩いたMさんと話し、中仙道の旅を一緒に歩くことになりました。
そして。旅紀行を記すブログは、「旧中山道二人旅」に決めました。
さて、前回の甲州道中の旅が5月30日に終了してから、3ケ月半が経過しました。
前回の旅の整理や今回の旅の準備をしていたのですが、あっと云う間に旧中仙道の旅に出発する日を迎えたように感じます。
今回の旅は、京都・山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を歩いて大阪・高麗橋までの69宿+4宿を踏破する予定です。
そのため約3年に及ぶ長丁場の旅になりそうで、人生の思い出を記す旅にしたいと考えています。
ご声援をお願いします。
《準備》
街道旅で一番重要視しているのがコースと史跡です。
そのため、
・五街道googleマップ(Uソリューションズ作成)
・ちゃんと歩ける中山道六十九次(五街道ウォーク・八木牧夫著)
・中山道を歩く・旧街道ウォーキング(ネット情報)
・先人の情報
を活用して準備しました。
コースは古道を歩くことを基本にしていますが、資料によって若干異なっていたりするので、その時の状況で新道を歩くことにしたりします。
今回使う地図は、五街道googleマップを印刷(A4版・22枚)し、地図に史跡の場所をプロットして準備を整えました。
史蹟のプロットで重要なのは、街道の右側にあるのか、左側にあるのかです。
狭い道路ならば左右をキョロキョロしながら歩けばよいのですが、広い道路にあると見つけることは至難の業なので、左右どちら側にあるのか時間を掛けて調べます。
《移動》
目覚まし時計の音楽でベットを出て旅の身支度を整え、Mさんと待合せの場所(最寄り駅)に行くと、既にMさんが来られており、朝の挨拶を交わしホームに降りました
私は朝から立って電車に乗る気がなかったので、土・日は座れる電車を選んで計画したのですが、Mさんは満席で座れないと思っていたようです。
私は山行などでこの時間帯の電車を何回も乗っているので、乗車状況は把握しているのですが、Mさんはほとんど乗られないようです。
入線してきた電車を見ると、半分くらいしか乗車しておらず、Mさんと空いている席に並んで座り、いろいろなことを歓談しながら出発地の日本橋に向かいました。
〔Mさんがいない〕
日本橋駅に着き、階段で80段くらいの高さのあるエスカレーターで改札に向かい、改札を出て振り返るとMさんがいません。
「え、何処に行ったの」とMさんを探すと、改札を通り過ぎた当たりでウロウロしていました。
直ぐに「Mさん!!」と呼び掛け、改札を出てもらい事なきを得ました。
東海道夫婦二人旅の移動で、Yumiさんを見失って探した時のことを思い出しました。
【=旅=】
途中駅の乗り換えで計画の時間より1台早い電車に乗れたため、出発地の日本橋に早く着いたので、日本橋の史跡を記録に残しました。
 ※国道元標(道路中央に埋設)
002 国道元標
 ※日本国道路元標
002-2
日本国道路元標は道路の起終点を示す標識で、日本橋は1号(東海道)・4号(日本橋~青森)・6号(日本橋~仙台)・14号・15号・17号(中山道)・20号(甲州道中)が集まる7幹線国道の起点となっています。
さて、出発前に日本橋付近の史跡を記録に残しました。
最初は日本橋
交差点から日本橋に向かって歩いてくると、橋の手前の右側に交番があり、この辺りが罪人を晒す場所がありました。
晒し場といっても獄門台があった訳ではなく、晒しは罪人が一定期間繋がれて本来の刑罰に付加される刑罰のひとつで、人目に晒される一種の恥辱刑だったそうです。
 ※晒し場跡(滝の広場)
001 日本橋・晒し場跡(滝の広場)
次に、晒し場跡から真っ直ぐに日本橋を渡ると、右側の橋のたもとに魚市場跡があり、石碑が建っていました。
 ※日本橋魚市場跡(乙姫の広場)
003 日本橋魚河岸跡(乙姫広場)
日本橋魚市場跡碑の真向いにある交差点を渡ると、道路元標の広場があり、その中に東京市の道路元標が建っていました。
 ※東京市道路元標(道路元標の広場)
004 東京市道路元標

日本橋の周囲にある史跡を記録に残し、旅の恒例となっている出発式の儀式を行い、長い中山道の旅に出発しました。
07時50分、日本橋(出発地)

005 日本橋(出発式)
元標の広場を右側に進む東海道と甲州道中と反対の左側に進むと日本橋北詰交差点があり、交差点を渡った左側に三越本店がありました。
07時51分、三越本店(左側)
006 三越本店
旧中山道は日本橋北詰交差点を三越本店側に渡って真っ直ぐに進むのですが、交差点を右側に渡りスルガ銀行と松田家の間の路地を約100m歩いた左側にタガワ宝石店があり、店舗の脇に史跡が建っていました。
07時54分、三浦按針屋敷跡(左側)
007 三浦按針屋敷跡
三浦按針は本名をウィリアム・アダムス(1564年~1620年)といい、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家です。
タガワ宝石店を通り過ぎた先の十字路を左折し、約70m先の左側の神茂ビルに沿って左折すると、右側に日本橋鮒佐があり、入口左脇に芭蕉住居跡と芭蕉句碑が建っていました。
07時57分、芭蕉住居跡・句碑(右側)
008 芭蕉住居跡
日本橋鮒佐から約100m歩くと旧中山道(国道17号)となり、交差点を渡って右に約60m歩くと、
左側に三越本店の入口があり右側のライオン像の脇に三越創業の「越後屋跡」のバネルが壁に掲げられていました。
08時01分、越後屋跡碑(左側)
009 越後屋跡
越後屋跡の先の宝町2丁目交差点を右に渡り(道路反対側)ながら約400m歩くと宝町3丁目交差点があり、交差点を真っ直ぐ渡った処を右に約10m行くと、左側に新日本橋駅の入口があり、入口左側に長崎屋跡碑が建っていました。
08時07分、長崎屋跡(右側)
010 長崎屋跡
長崎屋は江戸時代の薬種屋で、ここにはオランダ商館長が江戸参府に定宿としていたところで、日本の蘭学者や医師などが訪問に訪れ、江戸における外国文化の交流の場になっていたそうで、鎖国政策下におけるで西洋文化を学べる貴重な場所だったとのことです。
長崎屋跡から旧中山道に戻り約50m先のみなと銀行の建物に沿って右に入ったところに、石町時の鐘の跡碑が建っていました。
08時08分、石町時の鐘・鐘撞堂跡(右側)
011 石町時の鐘・鐘撞堂跡
鐘撞堂跡から途中室町4丁目交差点で道路反対側に渡りながら約190m歩くと、左側にゴルフの本間ゴルフがありその真ん前に今川橋由来碑が建っていました。
08時10分、今川橋由来碑(左側)
012 今川橋由来碑
由来碑から約100mの今川橋交差点で街道の反対側(進行右側)に渡り、約120m進むと神田駅前交差点があり直進します。
08時14分、JR神田駅前交差点
014 神田駅前交差点
神田駅前交差点を渡った処に鍛冶町二丁目界隈の歴史が記された町碑が建っていました。
08時15分、鍛冶町碑(右側)
015 鍛冶町由来碑
町碑の少し先から神田駅のガードとなり、約70m歩いたガードの中間付近に、日本橋から1㎞(国道17号線)の距離標が建っていました。
08時16分、1㎞距離標(右側)
016 1㎞距離標
神田駅のガードを出て須田町一丁目交差点で左に渡り(進行左側)、次の須田町交差点で右方向に向かう国道17号線と別れ真っ直ぐ須田町交差点を渡ります。
【東京都選定歴史的建造物】
須田町交差点から約100m歩くと左側に相鉄神田須田町ビルがあり、ビルに沿って左折すると、最初の路地の左側に「あんこう鍋」で有名ないせ源があり、道路を挟んで真向いに甘味処で有名な竹むらがあります。
※老舗・いせ源(あんこう鍋)=左側
017 あんこう鍋・いせ源
いせ源は青森県下北半島で水揚げされたあんこうのみを提供し、歴史を刻み続ける店舗は、昭和5年築で「東京都選定歴史的建造物」として指定されています。
※老舗・竹むら(甘味処)=
018 ぜんざい・竹村
竹むらは「東京都選定歴史的建造物」に指定された貴重な建物にある甘味処で、名物の「揚げ饅頭」のほか、くず餅やあんみつが味わえる。
さらにこの界隈には明治13(1880)年に創業した老舗そば屋「やぶそば」があり、記録に残しました。
 ※やぶそば(左側)
019 藪蕎麦
場所は、竹むらの店の手前路地を右折し、突き当りの左側です。
やぶそばの店の前を約80m直進し街道に戻ると、右側に御成道碑が建っていました。
08時31分、御成道碑(右側)
020 御成道碑
江戸時代に5街道と同様に整備された脇街道の一つで、中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する道です。将軍が日光参拝の時に使用された街道で、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれているそうです。
さて、街道は約70m歩くと神田郵便局前交差点となり、交差点を渡って右折します。
右折すると直ぐに昌平橋があり、橋の上には総武本線の鉄橋が架かっていました。
08時34分、昌平橋
021 昌平橋
 ※昌平橋・親柱
21-1 親柱
街道は昌平橋を渡った昌平橋交差点で国道17号と合流し、銭形平次で有名な神田明神下交差点を左折します。
08時38分、神田明神下交差点分岐(左折)
022 分岐(左折)
神田明神下交差点から約200m坂道を上ると右側に旧町名案内碑が建っていて、旧町名「湯島」の歴史が記されていました。
08時44分、旧町名(湯島)案内碑=右側
023 旧町名案内・湯島
碑から約30m歩くと右側に神田神社(明神)の鳥居が建っており、参拝に立ち寄りました。
08時45分、神田明神・鳥居(右側)
024 神田明神・鳥居
鳥居を潜り、隋神門を通って本殿に行き、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
 ※神田明神・本殿
024-2 神田明神・本殿
声を出してご祈願すると気持ちが良いことを東海道夫婦二人旅で経験したので、声を出して行いたかったのですが、周りに参拝者がいるとそれも出来ず心の中で奏上しました。
参拝を終えて鳥居のところまで戻ると、右側にあま酒茶屋で有名な天野屋があり、約110年使われている糀室の歴史を学びました。
08時51分、あま酒茶屋・天野屋(右側)
025 甘酒茶屋・天野屋
街道は右側の天野屋と富久無線の間の路地を進み進みます。
 ※分岐(右折) 黄線=旧中山道、白線=神田明神
026 分岐(右折)
街道は約20mで左に曲がり、約90m歩くとT字路を左折と、コの字形に歩き湯島聖堂前交差点に出ます
 ※T字路分岐(左折)
027 分岐(左折)
湯島聖堂前交差点を渡った左側に湯島聖堂があります。
08時54分、湯島聖堂(左側)
028 湯島聖堂
見学に立ち寄るかどうかMさんに確認すると、「寄らなくてもいい」と返事があり、そのまま交差点を右折して先に進みました。
街道の左側に東京医科歯科大学があり、資料によると「桜の馬場跡」があるというので、立ち寄って守衛さんに聞くと「知らない」とのことでそのまま旅を進めました。
街道は樹木谷坂の上りで、途中の左側に昔勤めていた会社の本社があり、新しく建て替えられていました。
Mさんとのご縁
昨年の夏、蓼科の山荘にMさんご夫婦が来られた時、ひょんなことから同じ会社に勤めていたことが分かりました。
その当時(20代の頃)はお互いに認識していませんでしたが、同じ会社にいたので共有できる事柄は多々あり、Mさんと当時の頃の思い出話しをしながら街道を進みました。
湯島聖堂前交差点から約600m先の壱岐坂上交差点、さらに約300m歩くと本郷3丁目交差点となり、左角に川柳にも歌われた「かねやす」がありました。
09時10分、かねやす(左側)
029 かねやす
 ※歌われた川柳=「本郷も かねやすまでは 江戸の内」
029-1 かねやす
江戸時代は火事が多く、江戸城からここまで町家でも瓦葺きの防火建築が許されていました。つまり本郷三丁目の角の「かねやす」の土蔵までが江戸だったわけです。(写真の看板は現在のかねやすのビルの正面に書かれています)町奉行支配地は駒込の先から巣鴨まであり、実際の江戸の境界とは違いますが、塗屋土蔵造り瓦葺きの建物が江戸の町の特色になっていた訳で、それが丁度本郷の「かねやす」で途切れていたためといわれています。
<かねやすの語源>
兼康祐悦という口中医師(歯医者)が乳香散という歯磨粉を売り出し大変評判になり、それで有名になったそうです。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた時、町奉行は本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行って、それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになったそうで、現在は雑貨店を営んでいるようです(開店前の通過のため確認できず)。
また、かねやすの道路反対側(進行右側)に三原堂という菓子店があり、その隣りに羊羹で有名だった「藤村」があるのですが、交差点でMさんに待っててもらい信号が青のうちに交差点を渡って「かねやす」の写真を撮って戻ってきたりしているうちに写真を撮り忘れてしまいました。
藤むらは、1626年加賀前田藩の金沢で遠州流茶人忠左衛門が練羊羹を創製し、1751年には前田藩の江戸本郷御影町に移り、藤むらを屋号として各種羊羹を売り出した老舗ですが、残念ながら現在はお店を閉められているそうですが、ここに来る別の機会があるので、その時記録に残したいと思います。
本郷三丁目交差点を渡ったところで進行左側に本郷薬師があることに気が付きましたが、また交差点を行き来しなければならないことが面倒となり、望遠で本郷薬師を撮って記録に残すことにしました。
 ※本郷薬師(左側)
030 本郷薬師
本郷3丁目の交差点から東大の赤門の方に向かう本郷通りは、「見送り坂」や「見返り坂」といって江戸を出立する人たちをこの地まで見送りに来たことから名付けられているそうです。
 ※見返り坂(右側は東大の境界フェンス)
031 東大
本郷三丁目交差点から見返り坂を歩くと、右側は日本一の学問所である東京大学があり、赤レンガのフェンスで仕切られていました。
そして本郷三丁目交差点から約350m歩くと、右側に赤門が建っていました。
09時16分、東大・赤門(右側)
032 東大・赤門
東大赤門前交差点を渡ると、左側の法真寺に行く参道があり、境内の東隣りに樋口一葉が4才~9才までの幼少期に住んだ桜木の宿がありました。
09時20分、樋口一葉・桜木の宿(左側)
033 樋口一葉・桜木の宿
街道に戻りそのまま進行左側を約270m歩くと東大正門があり、記録に残しました。
09時25分、東大・正門(右側)
034 東大・正門
そして東大正門前交差点から約80m歩くと、左側に明治中期に建てられた木造2階建ての古書・専門書の棚沢書店がありました。
建物は国登録有形文化財に指定されているそうです。
09時26分、棚沢書店(左側)
035 棚沢書店
書店から約170m歩くと本郷弥生交差点となり、道路反対側(右)の進行左側に渡って信号が変わるのを待っていると、都道319号の言問通りの道路標識が目に入り、標識を見て基点ということが分かりました。
09時29分、言問通り基点(本郷弥生交差点)
036 言問通り基点地
本郷弥生交差点を真っ直ぐに渡り約80m進むと、左側に東大農学部があり、資料によると水戸藩中屋敷があった場所というので、立ち寄ることにしました。
09時30分、水戸藩中屋敷跡(現東大農学部)=右側
037 東大農学部入口
守衛所で「ここ農学部があるところは水戸藩中屋敷跡と資料に記されているのですが、史蹟跡みたいなものはありませんか」と聞くと、「知りません」とのことで入口のところを写真に撮って記録に残しました。
さて、東大農学部のところを出ると信号機があり、交差点を渡ります。
渡ったところを左折して少し戻ると高崎屋酒店あり、酒店に沿って右折して進みます。
東大農学部に立ち寄らないで、進行左側を歩いてきた時は、交差点を渡り、高崎屋酒店の前を左折して進みます。
 ※分岐(交差点左折) 白線=水戸藩中屋敷跡
038 分岐(左に渡る)
この高崎屋酒店のところが、日光御成道(岩槻街道)との分かれ道(追分)で、 中山道最初の一里塚がありました。18世紀中頃まで榎が植えられていたが、度重なる災害と道路拡張によって、 昔の面影をとどめるものはありません。
また、ここにある高崎屋は江戸時代から続く酒屋で、 両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌していたそうです。
09時33分、森川追分(右折)
039 分岐(右から左)
高崎屋酒店に沿って進むと、店の角に喫煙所があり、その場所に日本橋から最初の一里塚跡があり、パネルが建っていました。
09時33分、001本郷追分一里塚跡(右側)
040 本郷追分一里塚
一里塚跡から約750m歩くと、右側に大円寺があり、山門を潜った先にほうろく地蔵が祀られていました。
09時43分、ほうろく地蔵(右側)
041 ほうろく地蔵(大円寺)
Mさんから「出発して2時間が経過するので、休憩しませんか」と云われ、境内の縁石に座って衣服調整と水分補給をしました。
《休憩》 09時44分~09時50分 大円寺(右側)
一服休憩で英気を養い、次に向けて出発しました。
大円寺を出て約90m進むと、日本橋から5㎞を距離標が建っていました。
09時52分、5㎞距離標(右側)
042 5㎞距離標
距離標から約80m先の白山上交差点で進行方向左側に渡り、右折する形で交差点を渡りました。
そして街道を約210m歩くと、日本で最初に男女共学の大学を開設した東洋大学白山キャンパスが左側にありました。
09時58分、東洋大学白山キャンパス(左側)
043 東洋大学
東洋大学から約550m歩くと千石駅前交差点があり、左側で交差する都道301号をクランク形に横断して渡ります。
10時06分、千石駅前分岐(左折)
044 分岐(左折)
千石駅前交差点から進行方向左側を歩き、不忍通り(都道437号)と交差する千石一丁目交差点を真っ直ぐ渡り、約250m進むと巣鴨大鳥神社に行く稲荷横丁(現大鳥商店街)が左にありました。
10時13分、稲荷横丁(現大鳥商店街)=左側
045 稲荷横丁(大鳥商店街)
商店街入口から約300m歩くと、左側にコンビニ・ローソンがあり、店舗の真ん前の道路沿いに江戸時代最後の将軍だった徳川慶喜の巣鴨屋敷跡があり、石碑が建っていました。
10時17分、徳川慶喜巣鴨屋敷跡(左側)
046 徳川慶喜屋敷跡
徳川15代将軍の慶喜は大政奉還により江戸城を明け渡し、政権から退いた後、約30年間、静岡で謹慎の身となり、その後東京へ越してきたのがこの中山道沿いの巣鴨でした。しかし、山手線建設に伴う騒音を嫌い4年間住んだ後、文京区春日に引っ越したそうです。
跡碑から約100m歩くと右側にJR巣鴨駅があり、駅舎を眺めたり、JRの陸橋から大塚駅方面を眺めたりしながら渡りました。
10時19分、JR巣鴨駅(右側)
047 JR巣鴨駅
JRの陸橋を渡ると左側の線路沿いにソメイヨシノの桜並木があり、街道から約20~30m入った処に、ソメイヨシノ発祥の碑が設置されていました。
10時20分、ソメイヨシノ碑(左側)
048 染井吉野碑
ソメイヨシノは、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が江戸時代末期に品種改良した園芸品種で、明治以降全国に広まりました。 当初、奈良県山岳部の桜の名所「吉野山」にちなんで「吉野桜」と命名されていましたが、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名され、翌年、松村任三が学名をつけたそうです。
街道に戻り、約100m歩くと、左側に巣鴨名物の1つである塩大福(@110円)が売られていたので、おやつに食べようと立ち寄り豆大福(@110円)と一緒に買いました。
※千成もなか(左側)
049 千成もなか
 ※塩大福(左)・豆大福(右)
050 塩大福・豆大福
千成もなかから約100m歩くととげぬき地蔵入口交差点があり、ここで国道17号と分岐してとげぬき地蔵に向かう左側に進みました。
10時26分、とげぬき地蔵分岐(左)
051 分岐(左)
分岐する交差点の左角に真性寺があり、江戸六地蔵尊の1つが祀られていました。
10時27分、江戸六地蔵(真性寺)=左側
052 江戸六地蔵(真性寺)
真性寺を出るとおばあちゃんの原宿と云われている巣鴨地蔵通り商店街で、今日も大勢のお年寄りで混雑していました。
 ※巣鴨地蔵通り商店街
053 巣鴨地蔵通り商店街
Mさんと逸れないようにしながら行き交う人の間を約200m歩くと、右側にとげぬき地蔵の高岩寺があり立ち寄りました。
10時31分、とげぬき地蔵(高岩寺)=右側
054 とげぬき地蔵(高岩寺)
とげぬき地蔵は、昔、田村という人の奥さんが子どもを産んだ後具合が悪くなり、寝込んでいたところ、田村氏の夢に僧侶が現れ「私の御影を川に流しなさい」といいました。目覚めた田村氏の枕元に地蔵菩薩がありそれを川に流したところ夫人の病気がよくなりました。その後、毛利家の女中が誤って針を飲み込んでしまったときに田村氏からもらった地蔵尊の御影を飲むと針がとれて御影の中から出てきたそうです。この言い伝えによって「とげぬき地蔵」と呼ばれるようになったようです。
本殿でお賽銭をご奉納し、手を合わせて参拝し、香炊き所で煙を頭に振り掛けてボケ防止のお願いをしてきました。
高岩寺から約180m商店街を進むと、巣鴨名物の赤パンツの店があり、おじいちゃん、おばあちゃんが品定めをしていました。
10時37分、マルジ赤パンツ館(右側)
055 赤パンツ店
赤パンツは、申年(さるどし)に履くと “病が去る” “災いが去る” ということからブームとなり、それからは赤の力で元気と幸福を授かりたいとの願いから今日に至っているようです。
マルジから約200m歩く(右側の巣鴨郵便局の先)と、左側に小さいカラクリ時計が設置されていましたが、時計は故障していて動かないようでした。
また、デジカメの具合が急に悪くなり、カラクリ時計を記録に残すことができませんでした。
※なお、デジカメはこの後、正常に作動するようになり事なきを得ました。
そしてカラクリ時計から約200m歩くと、庚申塚交差点があり、交差点の右側に庚申堂が建っていました。
10時45分、猿田彦大神庚申堂(右側)
056 庚申堂
庚申堂から約80m歩くと、都電荒川線の踏切があり、左手に庚申塚駅がありました。
10時46分、都電荒川線・庚申塚駅(左側)
057 荒川線庚申塚駅
踏切を渡り約300m歩くと右側に、歴史を感じる建物の東京種苗がありました。
10時51分、東京種苗(右側)
058 東京種苗
東京種苗は、元々は種子問屋「榎本留吉商店」といい、弘化元(1844)年に創業した老舗です。
東京種苗から約50m歩くと、左側に大正大学がありました。
10時52分、大正大学(右側)
059 大正大学
さらに約50m先に掘割交差点があり、交差点を左折した左側に千川上水公園があり、入口の右側に跡碑が建っていました。
10時53分、千川上水調整池跡(左側)
060 千川上水調整池跡
掘割交差点に戻り、真っ直ぐに渡ります。
10時54分、掘割交差点(直進)
061 掘割交差点
交差点から約190m歩くと、右側に歴史的建造物の亀の子たわしで有名な西尾商店がありました。
10時58分、亀の子束子西尾商店(右側)
062 亀の子束子西尾商店
西尾商店の隣りは先端医療モールビルで、滝野川郵便局があります。
郵便局から約180m歩くとマンションBE’RISがあり、この付近に日本橋から2番目の平尾一里塚があったと云われていますが、現在は標示などありません。
11時02分、002平尾一里塚付近(標示なし)
063 平尾一里塚付近
平尾一里塚跡付近から約170m歩くと左側に馬頭観音が祀られていると史料に記されていましたが、Mさんと探しましたが見付かりませんでした。
さらに40m先の交差点を左に入ると、「近藤勇の供養塔」があると史料に記されていたのでMさんに見学の可否を聞くと、「見なくていい」との回答に同調し、立ち寄りませんでした。
埼京線の踏切手前の交差点を左折すると約50mで板橋駅東口があり、左角に近藤勇や新選組の供養塔が祀られており、立ち寄りました。
 ※①=近藤勇供養塔(左側)
002-2 近藤勇供養塔
供養塔の近くには近藤勇が埋葬された処に供えられた墓石がありました。
 ※①=近藤勇埋葬時の墓石
002-3 当初の墓石

交差点から約100m歩くと埼京線の踏切があり、電車の通過を待って渡りました。
ただ、板橋駅近くの踏切で、駅に到着した時から遮断機が降り長い時間待たされました。
11時07分、埼京線板橋駅付近踏切
064 埼京線板橋駅手前踏切
踏切を渡ったところでMさんに、
 E=そろそろお昼を食べませんか?
 M=今、何時?
 E=11時を過ぎました
 M=まだ、早くない?
 E=朝、早かったのでは?
 M=まだ大丈夫です
 E=そうですか。11時30分を過ぎたら食べましょう
ということになり、先に進むことになりました。
踏切を渡った処を左折すると板橋駅西口で、駅前ロータリーにケヤキの木が建っており、「むすびのケヤキ」だそうです。
 ※①=むすびのケヤキ(左側)
003-2 むすびのけやき
西口から街道に戻り約500m歩くと高架を首都高速中央環状線が走る板橋郵便局前交差点があり、高架下の交差点を渡りました。
交差点を渡った右側に東光寺があり、戦国武将の宇喜多秀家の墓所があるというので、街道を右側に外れて見に行きました。
11時19分、宇喜多秀家墓所(東光寺)=右側
065 宇喜多秀家の墓所
寺院に入りましたが何処に墓所があるのか分からずウロウロと探していると、入口直ぐの処に名前が刻まれた墓石があり見付かりました。
寺院からは入口を真っ直ぐに出て、突き当りの三差路を左折して街道に戻りました。
そして戻った街道を約50m歩くと、右側に観明寺があり、参道入口の左側に庚申塔が建っていました。
11時23分、寛文の庚申塔(右側)
066 寛文の庚申塔
観明寺を出て約30m歩くと右折出来る道があり、右側の電柱に「平尾宿脇本陣跡」と記された案内標示があり、右折して約60m歩くと左側にマンション・アーバンハイムがあり、入口右側の植え込みに豊田家脇本陣跡の標柱と解説板が建っていました。
 ※①=平尾宿脇本陣入口(直進=旧中山道・右折=脇本陣)
006 案内標示
11時25分、平尾宿脇本陣・豊田家跡(左側)
068 平尾脇本陣跡
脇本陣跡を記録に残して街道に戻り約20m進むと左側に縁宿公園があり、公園内に板橋宿の案内標板が建てられていました。
11時27分、板橋宿案内標板(左側)
069 板橋宿碑
 ※板橋宿史跡案内図(左側)
069-1 宿図
宿場案内ボードから約80m歩くと蕎麦屋らしき店があり、Mさんに「ここでいいですか?」と聞くとOKの返事があり、昼食に立ち寄りました。
《昼食》
11時30分~11時58分、麺屋・はちどり(右側)
070 昼食(はちどり)
〔注文〕
 ●濃厚つけ麺(土曜ランチ):800円
 ●中生ビール:500円
記録に残そうと気が付いた時は、既に食べ終わっていました。
記録より食い気の方が勝っていたようです。
食後、店外にあるトイレで用を済ませ、先に進みました。
昼食店から約150m歩くと旧中山道仲宿交差点があり、直進して渡りました。
12時01分、旧中山道仲宿交差点(直進)
071  旧中仙道仲宿交差点
交差点から約40m歩くと、右側にレンガ造りで有形文化財に指定されても良い建物の板五米店があり記録に残しました。
12時02分、板五米店(右側)=写真は再訪したR04.12.09に撮影したものに差し替え
010 板五米店
建物は大正12(1923)年に建てられたもので、両側の煉瓦壁が火災から玄関先を守るなど、防火を意識した造りとなっており、表通りの母屋のほかにも、裏に煉瓦造の蔵もあるそうです。
米店から約20m歩くと右側に遍照寺がありましたが、本堂建て替えのため、更地になっていました。
12時02分、遍照寺(右側)
073 遍照寺跡
近い将来、立派な本堂が建てられることでしょう。
遍照寺から約300m歩くと右側にスーパー・ライフがあり、手前の飯田不動産店の左脇に飯田本陣跡の標柱と解説板が建っていました。
12時09分、板橋宿本陣・飯田新左衛門家跡(右側)
074 板橋宿本陣跡
本陣跡から約70m歩くとスーパーライフを過ぎた処に変則十字路があり、右折して約60m進むと左側に文殊院が建っていました。
 ※①=文殊院・山門
012 文殊院・山門
文殊院から街道の交差点に戻り、右折して街道を約30m進むと左に入る小路があり、突き当たったマンション・板橋仲宿パークホームズの駐車場入口の脇に板橋宿脇本陣跡の標柱と解説板が建っていました。
 ※①=板橋宿仲宿脇本陣跡(左側)
013 中宿脇本陣跡
脇本陣跡から街道に戻り約140m歩くと石神井川が流れており、木製の欄干で出来た地名の由来となっている「板橋」が架けられていました。
12時15分、板橋
076 板橋
 ※板橋碑(右側)
077 板橋碑
 ※板橋の欄干の石神井川の眺め(左側)
078 板橋からの石神井川
板橋を渡って約210m歩くと、右側に本町にぎわい広場があり、広場の奥に時を知らせる『時の鐘』が建っていました。
 ※①=時の鐘(右側)
015 時の鐘
時の鐘の建っている本町にぎわい広場に隣接して交番があり、その先隣りに板橋宿上宿碑が建っていました。
12時25分、板橋宿上宿碑(右側)
079 板橋・上宿碑
上宿碑から約30m歩くと縁切榎前交差点で、交差点を渡った右角に縁切エノキが植生されていました。
12時26分、縁切エノキ(右側)
080 縁切り榎
縁切榎から緩やかな縁切坂を上るなど約210m歩くと、環七通りに突き当り陸橋の下を潜って進みました。
環七通りが宿境で、ここで「板橋宿」が終わり「わらび宿」に入ります。
12時29分、宿境(板橋宿・わらび宿)=現環七陸橋
081 環状7号ガード(上宿の終わり)
 ※わらび宿(現在の風景)
082 わらび宿の始まり
環状七号陸橋を潜ったところから約220m歩くと、右側に大きさが違う祭礼神輿が4台並んで置いてあったので、記録に残しました。
12時34分、板橋清水町祭礼(右側)
083 板橋清水町祭礼
今日は街道沿いの多くの町内(文京区湯島~板橋区志村)で、秋まつりが行われていました。
祭礼の処から約350m歩くと、首都高速5号池袋線と分岐する処となり、街道はそのまま真っ直ぐ進みます。
12時38分、分岐(右)
084 分岐(右)
首都高速との分岐から約350m歩くと、都営三田線本蓮沼駅があり、さらに約230m歩くと右側に桜の名所で板橋十景になっている南蔵院があり立ち寄りました。
12時46分、桜の名所・板橋十選(南蔵院)=右側
085 桜の名所板橋十景(南蔵院)
満開の時の枝垂れ桜は、さぞ綺麗なことだろうと連想させる立派なものでした。
南蔵院から約170m歩くと、左側にセブンイレブンがあり、店舗前の信号を渡った角のセブンイレブンの右脇を約10m入った左側に庚申塔・道標の石碑が建っていました。
12時50分、庚申塔・道標(左側)
086 庚申塔・道標
道標を確認した後、セフセンイレブン前の信号を渡り、進行方向右側を志村警察署前を通るなど約
600m歩くと、志村一里塚交差点があり、右・左の一対で日本橋から3番目の一里塚がありました。
12時58分、003志村一里塚(右塚)=右側
087 志村一里塚(右側)
 ※志村一里塚・解説(右塚)
087-1 解説
交差点を渡った左側にも一里塚が残されていました。
13時00分、003志村一里塚(左塚)=左側
088-1 志村一里塚(左側)
一里塚が完全な姿で残るのは稀で、都内では北区西ヶ原の一里塚とこの志村一里塚の二ヶ所のみで、交通史上の重要な遺跡として、国および板橋区の史跡に指定・登録されている文化財です。
一里塚から約150m歩くと、志村坂上交差点となり、街道は左斜め(みずほ銀行志村支店の右側)に進みます。
13時02分、志村坂上交差点分岐(斜め左)
089 分岐(真ん中)
交差点から約60m歩くと、ブロック塀に囲まれて庚申塔が祀られていました。
13時04分、庚申塔(右側)
090 庚申塔
庚申塔から約120m歩くと、左側の路地の角に庚申塔と1,792年建立の大山道標があり、脇に解説板が建てられていました。
13時05分、大山道標・庚申塔(左側)
091 大山道標・庚申塔
道標から約50m歩くと、左側に清水坂碑が建っていました。
13時06分、清水坂碑(左側)
092 清水坂碑
清水坂は大きく曲がっている急坂で、日本橋を出発して最初の難所だったそうです。また、街道で唯一右側に富士山を一望できる名所で、昭和30年代頃までは旧街道の面影を残していましたが、都営三田線の開通による都市化でその面影は消えてしまったそうです。
急坂を下ると、左側に清水坂碑と解説板が建てられていました。
13時09分、清水坂碑(左側)
093 清水坂碑
左側の坂碑の先で道は分岐しており、街道は右に大きく曲がります。
 ※分岐(右折)
094 分岐(右折)
坂を下り終ると都営三田線が走るガードがあり、資料ではガード手前の左側辺りに志村立場(茶屋)跡があったと記されていますが、標識などは建っていませんでした。
歴史的な場所にはぜひ標識を建てて、後世の人がその当時のことを偲ぶことができるように自治体にはお願いしたいと思います。
13時10分、志村立場跡付近(左側)
095 志村立場跡付近(都営三田線ガード)
都営三田線のガードを潜り約80m歩くと国道17号線に合流しました。
17号線をそのまま直進すると環状8号が交差する志村三丁目交差点となり、歩道橋を渡らずに下を潜って真っ直ぐに渡りました。
13時13分、分岐志村三丁目歩道橋交差点(直進)
096 分岐(歩道渡る)
そして渡ったところをさらに、右に17線を横切って渡りました。
 ※分岐(交差点を右に渡る)
097 分岐(右折して歩道渡る)
志村三丁目交差点には17号線を跨ぐ歩道橋が設置されており、歩道橋を渡って17号線の反対側に出てから環状8号を渡っても同じで、このルートを歩くと歩道橋の下にある地蔵尊を見ることが出来ます。
私とMさんは歩道橋の上り下りが面倒で、地蔵尊は見ないで通過しました。
そして国道17号を横切って渡り、そのまま約30m直進すると自販機が立ち並んでおり、その手前を左折しました。
 ※分岐(交差点渡り、最初の路地を左折)
098 分岐(左折)
路地に入って約350m歩くと、左側に日本チョコレート工業協同組合があり、昼食後約1時間30分が経過したので、水分補給を兼ねて休憩に立ち寄りました。
休憩 13時22分~13時30分
 ※日本チョコレート工業協同組合(左側)
099 休憩
組合は休日のようで、入口脇の縁石に座り疲れを癒しました。
ここで巣鴨の千成もなかで買った「塩大福・豆大福」を食べ、水分補給とカロリー補給をしました。
この辺りになってくると、旅の疲れと昼食で飲んだ生ビールの後遺症が出てきて、歩くのが辛い状態になっていました。
「さあ、行きましょう」とわが身を奮い立たせる言葉を発し、到着地に向けて出発しました。
そして約230m歩くと、再び17号線に合流し、隅田川を渡るまで17号線を歩きました。
13時32分、分岐(右折)
100 分岐(右折)
合流してから約120m歩くと、右側にヤナセ販売店、左折して高島通りの志村坂下交差点となり、真っ直ぐ進みました。
13時34分、志村坂下分岐(直進)
101 志村坂下交差点
志村交差点を渡り約450m歩くと、左分岐合流点に交番、さらに約60m進むと左側にラーメン店があり、ラーメン店の横に馬頭観音の祠があると史料に記されていたのですが、17号線を行き来するのが面倒でそのまま右側を進みました。
ラーメン店の前辺りから約230m歩くと、隅田川に架かる志村橋がありました。
13時43分、志村橋(隅田川)
102 志村橋
 ※隅田川(下流方向)
103 隅田川
志村橋を渡ると、右側にパチンコ・スロットルのガーデン板橋があり、その手前を隅田川に沿って右折しました。
13時44分、分岐(右折)
104 分岐(右折)
街道はガーデン板橋に沿って約70mで左折します。
 ※分岐(左折)
105 分岐(左折)
そして約70mで突き当りとなり、左折、右折とクランク形の桝形道になっています。
 ※分岐(左折)
106 分岐(左折)
(上の写真)突き当りを左折して直ぐに右折する左角に、舟渡し板碑群がありました。
13時47分、舟渡しの板碑群(左側)
107 鮒渡し板碑群
板碑群から約400m歩くと、突き当りに土手が見え、右上に埼京線の高架となっている十字路があり、左折しました。
13時52分、分岐(左折)
108 分岐(左折)
左折して約50m歩くと、突き当りとなり、右折しました。
 ※分岐(右折)
109 分岐(右折)
道は普通のアスファルト舗装の道と茶色のカラー舗装の道となり、普通のアスファルトの道を進みました。
 ※分岐(直進)
110 分岐(右直進)
横断歩道の処を左に入り、階段を上がって土手の上にでました。
 ※分岐(左の階段)
111 分岐(階段登る)
階段をの上ると、左側に荒川に架かる戸田橋があり、橋を渡りました。
13時55分、戸田橋(荒川)
112 戸田橋(荒川)
日本橋を出発して最初の大きな川で、渡し船が利用されていたので、船場跡があるとのことでしたが、確認することはできませんでした。
戸田橋を渡り始めて約30m歩くと、道路沿いに日本橋から16㎞の距離標が建っていました。
13時56分、16㎞距離標(右側)
113 16㎞距離標
距離標は進行方向側の標板がなく、写真は歩いてきた方向に向かって撮りました。
 ※戸田橋から眺め(下流側)
114 荒川河川敷(下流側)
 ※戸田橋からの眺め(上流側)
115 荒川河川敷(上流側)
戸田橋は橋長519mと大きな橋で、下流側の河川敷で遊ぶサッカーを眺めたり、上流側の景色を眺めながら渡り、橋のたもとの川岸一町目交差点を右折しました。
14時03分、川岸一丁目交差点分岐(右折)
116 分岐(右折)
交差点を渡るとMさんが右先の交番を通り過ぎて行こうとするので、「Mさん!!」と呼びとめて戻ってもらいました。
交番を過ぎた先に土手下に出る道がありますが、それは街道ではありません。
街道は交差点を右折して、真っ直ぐに階段を下ります。
 ※分岐(階段下り)
117 分岐(階段)
階段を下り、約60m直進すると左折できる道があり、左折しました。
ここを左折しないで直進した場合は、この先の戸田橋(東)信号を左折しても、田辺三菱製薬が右側にある川岸橋で街道に合流します。
14時10分、分岐(左折)
118 分岐(左折)
左折して200m歩くと、菖蒲川に突き当り、T字路を右折します。
14時13分、分岐(右折)
119 分岐(右折)
右折して約80m歩くと川岸橋が架かっており、左折して橋を渡ります。
橋を渡った右側に田辺三菱製薬㈱戸田事業所があります。
14時14分、分岐(左折)
120 分岐(左折)
 ※川岸橋
121 川岸橋
川岸橋を渡った左側に川岸公園があり、トイレ休憩で立ち寄りました。
14時15分~14時22分 川岸公園(左側)=休憩
公園では孫の弟君と同年代の女の子が、両親に自転車の乗り方を教わっていました。
女の子は「怖い!!」を連発し、泣きながら自転車に乗りますが、恐怖心が先に立ってしまうのかなかなか上手くいかず、泣きながら練習をしていました。
私は公園のベンチに座り、「親も大変だな」と思いながら眺めていました。
休憩を終え、到着地を目指して出発しました。
公園を出て約30m歩くと左折できる路地があり、左折しました。
 ※分岐(左折)
122 分岐(左折)
路地を左折して約70m歩くとT字路となり、T字路を右折しました。
14時23分、T字路分岐(右折)
123 分岐(右折)
右折した街道を少し蛇行しながら約150m歩くと、またT字路となり左折します。
 ※分岐(直進)
124 分岐(直進)
江戸時代は戦いを想定して広くした道を先細りにした桝形や曲尺手(かねんて)と云われるクランク形の道を城下の入口に設けていましたが、荒川を渡ったところで敵の襲来を防ぐために曲尺手の桝形道にしたのでしょうか。
後日、史料を調べてみたいと思います。
14時25分、T字路分岐(左折)
125 分岐(左折)
T字路分岐を左折して約140m歩くと、再び国道17号に合流し右折しました。
14時27分、分岐(右折)
126 分岐(右折)
右折して約70m先に川岸三丁目交差点があり、進行右側から左側に交差点を渡り先に進みました。
交差点から約60m歩くと、左側につつじ幼稚園があり、園内に1685年に建立された庚申塔があると史料に記されていたので立ち寄りました。
しかし、幼稚園は休園で扉が閉まっており、園外から探しましたが、見付かりませんでした。
また、つつじ保育園の辺りが日本橋から4番目の上戸田一里塚があったところというのですが、史蹟を記す標識がなく現風景を記録に残しました。
14時30分、004上戸田一里塚跡付近
127 上戸田一里塚跡付近
一里塚跡付近から約200m歩くと、今日の終点ある本町一丁目交差点に到着しました。
15時30分、戸田公園・本町一丁目交差点(到着地)

128 本町一丁目交差点
交差点の手前で到着の看板を掲げ、Mさんに写真を撮って頂いて到着式を行い、今日の旅を終了しました。
129 到着式(本町1丁目交差点)
今日、一日お疲れ様でした。
【帰路】
帰路は埼京線戸田公園駅から電車に乗って帰ります。
本町一丁目交差点を左折し、途中のドラッグストアで水分補給のスポーツドリンクをMさんが買い求めながら約400m歩いて戸田公園駅交差点を左折しました。
130 戸田公園入口交差点
交差点を左折して約100m歩くと、突き当りに埼京線戸田公園駅があり、右側の階段を上って駅舎に入りました。
 ※埼京線戸田公園駅東口
131 戸田公園駅東口
改札を入ろうとすると、「直ぐに電車が来ますよ」とMさんに促されてホームに行くと、電車が入線し待つことなく乗車しました。
途中、電車を乗り継いで帰ってきましたが、全て数分の待ち時間で乗車することができ、約1時間で最寄り駅に着きました。
駅でMさんと別れ、私はスーパーで夕食の弁当(握り寿司)を買って家に帰り、シャワーで汗を流してサッパリし、焼酎麦茶割りで咽喉を潤し至福のひと時を過ごしました。
【総括】
1週間前に箱根・金時山の山行をしてきたのですが、その時に足の袋ハギが攣りそうになり、脚力の低下が気になっていました。
日々の鍛練が大切ということは分かっているのですが、諸々の用事に対応していると時間が取れなかったり、天候に左右されたりして歩かなくなっていました。
今回の旅は多少のアップダウンがありましたが、ほとんど平地状態でしたので、山行に比べて息が切れることもなく歩くことができました。
しかし、平地とは云え「約17㎞+α(史跡見学などで街道から外れる距離)」と約20㎞という距離は長く、その上に蒸し暑い日となり、午後の旅はかなりきついものになりました。
※昼食に飲んだ生ビールの後遺症も大きな負担になりました。
また、家に帰ってきてから左足の裏を見たら、2ケ所にマメが出来ていました。
次回は歩行鍛練して臨みたいと思います。

【次回の予告】

次回の第2回「旧中仙道二人旅」は、
実施日=10月16日(日)
行 程=戸田公園・本町一丁目交差点 ~ 宮原・宮原駅入口交差点
歩程距離=約16.8㎞
を計画しています。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  
  

5街道の内、旧東海道夫婦二人旅(H24.03.11~H26.01.17)と旧甲州道中夫婦二人旅(H26.09.15~H28.05.30)を踏破し、3街道目は一番距離が長く、峠越えが多い旧中山道を歩くことに決め、出発は早い方が良いと考え、9月に出立することにしました。
当初、中山道の旅はMさんと一緒に歩く予定にしていたのですが、旧甲州道中を途中から一緒に歩いたMさんと話し合い、自分の好きな時に好きなだけ歩きたいということから、第1回の日本橋は一緒に出立し、第2回目以降はそれぞれ自由に旅をすることになりました。
しかし、旅の準備を進める中で、「長い道中になるので、一人で旅するより二人で旅した方が話し相手も出来るし、安全ではないか」と考え、Mさんと旅の進め方について話し合い、日程や行程をお互いに調整しながら二人で旅をすることになりました。
そして、旅の出立となる第1回の旅の日程は、Mさんの予定が取り易いと云っていた平日の金曜日と、私の都合が良い土日・祭日の中から9月16日(金)と9月17日(土)を提案し、Mさんの都合が良い9月17日(土)に決まりました。
今回の旅は、私もMさんも旧東海道を踏破しているため、草津の合流地から京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を歩いて大阪・高麗橋までの69宿+4宿を旅する計画です。
さあ、約600㎞、73宿先の大阪・高麗橋のゴールを目指して、出発です。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールでお願いします。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


 

↑このページのトップヘ