【天候】 快晴
【宿場】 (07)鴻巣宿⇒ (08)熊谷宿
【行程】 歩行距離=15.9㎞ 総距離=66.0㎞
鴻巣駅入口交差点⇒(3.1㎞)⇒宮前交差点⇒(2.9㎞)⇒前砂交差点⇒(3.2㎞)⇒前原集会所前分岐⇒(2.7㎞)⇒久下神社前⇒(4.0㎞)⇒筑波交差点
【ルート図】
↓宿場(黒線囲みが第4回旅の宿場)
↓第4回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今回の旅はH28.12.11に予定していたのですが、直前に私が風邪を引いてしまいMさんのご配慮(無理しないように)で今日に順延となり、第3回の旅(H28.11.14)の到着点である「鴻巣宿・鴻巣駅入口交差点」から「熊谷宿・筑波(熊谷駅入口)交差点」までの約15.9㎞を歩きます。
東海道&甲州道中の旅を通じて、風邪などの体調不良で日程を変更したのは初めてです。
平素から男一人住まいのため、体調管理には気を付けていたのですが、崩してしまいました。
旅コースの地図、史蹟の場所を書き記す旅の準備は11日に向けて行っていたので、順延期間は再チェックを行っただけで済みました。
《移動》
集合が6時と早いため、平素より1時間早く起床し、旅の支度を整え、定番の磯部餅で朝食を摂り、冬の訪れを感じる冷たい風を受けながら最寄り駅に行くと、少し遅れてMさんがやってきました。
今回は日曜日の早朝ということで座って移動し、電車を乗り換え出発駅の鴻巣駅に到着しました。
07時44分、鴻巣駅着
鴻巣駅の改札を出て東口に出ると、駅前ロータリーの処にH26.10.11のこうのす花火大会で打ち上げられた四尺玉花火の模型が展示されていました。
※この花火はギネス世界記録に認定されているようです
東口から約270m歩くと出発地の鴻巣駅入口交差点に着き、出発地の看板を掲げた写真を撮る出発式を行い旅に出発しました。
【=旅=】
07時53分、鴻巣駅入口交差点(出発地)
出発して街道の左側の歩道を歩くと、路面に市名の象徴となっているコウノトリ図のタイルが埋め込まれていました。
鴻巣駅入口交差点から約290m歩くと雷電神社前のバス停がありました。
鴻神社の前の神社名は雷電神社と云っていたそうで、その当時の名前がバス停に残っていました。
07時58分、雷電神社前バス停(左側)
バス停の直ぐ先の左側に明治初期に建てられた田沼家の蔵が残っていました。
07時59分、田沼家の蔵(左側)
資料では田沼家の蔵の手前の駐車場が問屋場跡とのことでしたが、どの駐車場か特定できませんでした。
田沼家の蔵から約40m先の進行右側に鴻神社があり、参拝に立ち寄りました。
08時00分、鴻神社(右側)
本殿に参拝し、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒をご祈願しました。
※鴻神社・本殿
鴻神社を出ると鴻神社前交差点があり、交差点で分岐して右折すると日光裏街道です。
※分岐・日光裏街道
鴻神社交差点を真っ直ぐに渡り約500m直進すると、右側に池元院があり立ち寄りました。
08時12分、池元院(右側)
寺院入口の左脇に念仏碑、境内に蘭渓堂碑と鬼子母神堂が祀られていました。
※念仏碑
※蘭渓堂碑
※鬼子母神堂
池元院から約60m歩くと加美交差点で加美追分とも云われており、Y字路分岐を左側に進みました。
08時15分、加美交差点(左側)
交差点の左側には平成の中山道道標が建てられていました。
※平成の旧中山道道標
交差点から約220m歩くと第3中山道踏切があり、熊谷方面に向かう高崎線が走って行きました。
08時18分、第3中山道踏切
踏切を渡って約180m進むと、右側に滝乃屋がある十字路があり、十字路からさらに分岐して右にカーブしながら進む松山道がありました。
08時20分、松山道(左側)
松山道の分岐から約60m歩くとコンビニがあり、トイレに立ち寄りました。
08時20分~08時24分、休憩(トイレ)
トイレ休憩を済ませ、約220m進むと右側に白山神社があり、境内に寛文6年建立の庚申塔などの石塔群があると云うので立ち寄りました。
08時29分、白山神社(右側)
※石塔群
白山神社を出て街道を約850m歩くと左側に「聖山光徳寺」入口の看板が建っており、天長2(823)年創建の古刹ということで立ち寄りました。
08時39分、分岐(左折) 街道は黄矢印
左折して約70m進むと右折する道があり、右折すると突き当りに光徳寺がありました。
※分岐(右折)
08時41分、光徳寺
本堂は新しく建て替えられており、境内にも古刹を示すものもなく、創建約1,200年の歴史のある寺院という感じがなく、少し拍子抜けしました。
境内に記録に残すものはないかと探し、新旧の石灯篭が並んでいたので記録に残しました。
※新旧の石灯籠(境内)
街道に戻り約130m歩くと右側に箕田観音堂がありました。
08時47分、箕田観音堂(右側)
箕田観音堂は路端に建っているかと思ったら、広い敷地の奥に本堂が建っていました。
往時は吹張山平等院と呼ばれていたそうで、敷地の広さは往時を彷彿させるものでしたが、建物が取り壊されていて淋しさを感じました。
※石仏石塔群(境内)
箕田観音堂から約500m歩くと宮前交差点があり、真っ直ぐに渡って進みました。
08時55分、宮前交差点(直進)
宮前交差点から約190m歩くと、明治5(1,872)年に開校し創立144年の歴史のある箕田小学校がありました。
私が卒業した小学校も1年後の明治6年開校だったので、親しみを感じ記録に残しました。
08時58分、箕田小学校(左側)
箕田小学校を過ぎると直ぐに右側に1,000年を超える歴史がある龍昌寺があり立ち寄りました。
08時59分、龍昌寺・梵鐘(右側)
龍昌寺を出て直ぐの左側に陽刻された地蔵道標があると資料に記されていたのですが、Mさんと二人で探しましたが、見付けることが出来ませんでした。
龍昌寺から約180m歩くと右側に武蔵武士と渡辺姓の発祥の地である氷川八幡神社があり、立ち寄りました。
09時07分、氷川八幡神社(右側)
境内には宝暦9(1759)年に建立された箕田碑が建っていました。
※箕田碑(境内)
氷川八幡神社から約260m歩くと、左側の赤レンガ塀の脇に馬頭観世音碑が建っていました。
09時16分、馬頭観世音碑(左側)
馬頭観世音碑から約200m歩くと、武蔵水路に架かる中宿橋がありました。
09時19分、中宿橋
※武蔵水路
中宿橋交差点を真っ直ぐに渡り約130m歩くと、左側に石塔群がありました。
09時21分、石塔群(左側)
石塔群から約250m歩くと箕田追分交差点があり、街道は直進(黄矢印)します。
また、右折する道は館林行田道の基点(追分=白矢印)になっています。
09時24分、箕田追分(直進)
交差点の角に平成の中山道道標が建っていました。
※平成の中山道道標(右側)
交差点の左側に地蔵堂、堂の脇に庚申塔が建っていました。
※地蔵堂・庚申塔(左側)
箕田追分交差点から約190m歩くとブロック塀があり、それに隠れるように石塔2基が建っていました。
09時28分、石塔(左側)
石塔から約70m歩くと左側にバス停苗木があり、その横にブロックの建屋に囲まれて正徳2(1712)年建立の庚申塔と岡像女之神碑が建っていました。
09時30分、庚申塔・岡像女之神碑(左側)
バス停苗田から約700m歩くと左側に介護老人保健施設秋桜があり、施設を過ぎるT字路の角に前砂村標石が建っていました。
09時39分、前砂村標石(左側)
ここで街道から外れて板石塔婆が残る龍昌寺に立ち寄ることにしました。
09時44分、龍昌寺(左側)・板石塔婆
街道に戻り約160m歩くと、左側に日本橋から14番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
09時54分、014前砂一里塚跡(左側)
一里塚跡から約220m歩くと、根岸スズキ販売を過ぎた先を左側に50mくらい入った処に観音堂が建っていました。
09時59分、観音堂(左側)
観音堂から少し離れた左側の畑に陽刻の石像が3体建っていました。
※陽刻の石像(左側)
観音堂から約140m歩くと、右側に江原家があり、敷地内に忍領界石標があるというので立ち寄りました。
10時03分、江原家(右側)
邸内に入らせてもらい解説標板(白丸)の後方に石標が建っていました。
※忍領界石標(右側)
※石標を正面から見る場合は、白丸の標板を過ぎた処を左に曲がると見れます。なお、現在も江原家は住んでいるので、挨拶は不可欠です。
江原家から約110m歩くと前砂交差点があり、その手前に平成の中山道道標が建っていました。
10時07分、平成の中山道道標(右側)
前砂交差点は道標を廻り込む形で、一番右側の道(黄矢印)を進みます。
前砂交差点を真っ直ぐに進み約800m歩くと、第4中山道踏切があり、右折して渡ります。
10時17分、分岐・第4中山道踏切(右折)
第4中山道踏切を渡る手前の左側に、平成の中山道道標が建っていました。
※平成の中山道道標(左側)
道標を左側に見ながら第4中山道踏切を渡り、渡った処を左折して約110m歩くとY字路となり、右側に進みます。
※分岐・Y字路(右側)
Y字路の分岐に妙徳地蔵が祀られていました。
10時20分、妙徳地蔵(左側)
そして妙徳地蔵の裏手に古時計工房というのがあると、事前の資料作成の時に知り面白い名前にどのような店舗か楽しみにしていたのですが、写真のとおり今年の3月に裁判所の差し押さえ物件になっていて、ものの見事に期待を裏切ってくれました。
古時計工房から約50m歩くと県道307号と合流し、道なりに左に進みます。
10時22分、分岐・合流
分岐・合流から約450m歩くと吹上駅前交差点があり、交差点から左手を眺めるとJR高崎線吹上駅が見えました。
10時27分、吹上駅前(左側)
吹上駅前交差点から約170m歩くと左側に原精肉店があり、店の前に明治4(1904)年に建立された軍馬頭尊碑が建っていました。
10時30分、軍馬頭尊碑(左側)
軍馬頭尊の右斜め向かいの路地を右側に入ると、本陣跡があった場所があるというので、街道を離れて見に行きました。
※分岐(右折)
路地を約40m進むと右側に酒亭香川があり、店舗の手前左側に明治天皇が休憩した碑が建っていました。
10時32分、明治天皇御駐輦碑(右側)
街道に戻り約80m歩くと吹上本町交差点があり、その手前左側に平成の中山道道標が建っていました。
10時34分、平成の中山道道標(左側)
交差点を過ぎ、鳥正に沿って左折し、吹上本町交差点からの道と合流します。
※分岐・鶏正に沿って左折
※分岐・合流(吹上本町からの道と合流)
合流から約60m歩くと右折カーブの処の左側に、八王子千人同心街道の基点がありました。
10時36分、八王子千人同心街道基点(左側)
八王子千人同心街道基点から約90m歩くと、右側に吹上神社があり立ち寄りました。
10時38分、吹上神社(右側)
吹上神社の隣りに東曜寺があり、宝暦年間(1751年頃)に建立されたいぼ地蔵尊があるというので立ち寄りましたが、建立されている場所が分かりませんでした。
※東曜寺(右側)
東曜寺から吹上神社の境内を通って街道に戻り、約180m歩くと右側に吹上本町郵便局があり、郵便局を過ぎた陸橋の下の左側に中山道間の宿碑が建っていました。
10時45分、中山道吹上間の宿碑
街道は高架橋を通ってJR高崎線を渡ります。
①間の宿碑を廻り込む形で高架橋を上ります
②階段を一番上まで上ります
③高架橋からの眺め
④橋を渡って下ります
⑤高架橋を下り、線路方向に左折して進みます
高架橋を下り約600m歩くと(途中の右側に富士電機機器制御㈱コスモウィングがある)、右側に葛西家があり、隣家との境に猿田彦石碑が建っていました。
10時56分、猿田彦石碑(右側)
猿田彦石碑の先の道路を越えた角に平成の中山道道標が建っていました。
10時56分、平成の中山道道標(右側)
平成の中山道道標を左に見ながら街道を外れて右折して約40m歩くと、榎戸堰がありました。
10時57分、榎戸堰(右側)
榎戸堰の手前左側には、榎戸堰公園が作られていました。
※榎戸堰公園
公園の近くにトイレがあり、数時間休みなしで歩いたので、休憩することにしました。
ひと息ついて元気を取戻し、旅に出立すると、平成の中山道道標から約60m歩いた処に榎戸樋管は確認しましたが、元荒川起点の標石は見落としてしまいました。
その代わり榎戸樋管を記録に残しました。
11時05分、榎戸樋管(左側)
※榎戸樋管(右側)
榎戸樋管から約160m歩くとT字路の突き当り左側に、元禄11(1698)年に建立された権八延命地蔵が祀られていました。
11時08分、権八延命地蔵(左側)
地蔵の処のT字路を右折して土手道を上ります。
※分岐(右折)
土手道を進みます。
土手道は上段と下段があり、中山道は下段の道ですが、どちらを歩いても距離の差はありません。
上段の方が景色が良いので上段を歩いても構いませんが、街道はさらに下に向かうので、分岐するところを間違えないようにする必要があります。
土手道を歩いていると上段、中段、下段に別れる分岐(T字路から約300m)があり、下段を進みます。
11時13分、分岐(右側の下段の道)
分岐の下段の道を進むと直ぐ右側に八幡神社(別名を大曲八幡)や正徳5(1715)年に建立された庚申塔が建っていました。
11時16分、八幡神社(右側)
八幡神社から約270m歩くと、右側に安永8(1779)年建立の馬頭観音が建っていました。
11時18分、馬頭観音(右側)
馬頭観音を過ぎると土手に上る道となり、道なりに進みました。
土手道は熊谷堤で、見通しが良く、快晴の天気で気持ちの良い旅になりました。
※熊谷堤
熊谷堤を歩いていると左手に富士山、そして左斜め前方に浅間山(白丸)がそれぞれ眺めることができました。
熊谷堤を歩いていた地元の人に聞いたら「富士山はなかなかみられないので、今日は天気が良いので幸運ですよ」と云ってました。
ただ富士山は靄がかかっていたため、デジカメでは撮れませんでした。
※熊谷堤からの景色(白丸印は浅間山)
真ん中で撮ったつもりでしたが、端になってしまいました。
熊谷堤を歩いているとY字路分岐があり、中山道は右側に進みます。
11時28分、Y字路分岐(右側)
右側に行くのが中山道の正しい道なのですが、熊谷堤沿いにある決壊の跡碑に立ち寄るのでしたら、左側の熊谷堤を進むと50~60m先にあり、碑を見てから土手を下って下道の街道に出ることもできます。
私達は右側の街道を進み、碑の下から土手を往復して決壊の跡碑を見に行きました。
11時30分、決壊の跡碑(左側)
土手の下道を進むと右側にライオンズマンション行田弐番館があり、その脇に石鳥居の神社が見えました。
事前に調べた資料にマンション前に稲荷神社があり、ここが一里塚跡というので、土手の草をかき分けて神社に下って行きました。
草をかき分けて進んだのは良いのですが、枯れた草花がズボンにこびり付いて落とすのにひと苦労しました。
そのため、土手を真っ直ぐに降りて時間短縮も良いのですが、土手道を約100m通り越すとマンションとの境界フェンス沿った参道があるので、稲荷神社と久下一里塚跡に行く場合はお勧めします。
11時37分、正一位稲荷神社(右側)
神社の石鳥居を潜って進むと神社の本殿の隣りに、日本橋から15番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
11時38分、015久下一里塚跡(右側)
一里塚跡から少し先の土手の草の中に馬頭観音が建てられていました。
※馬頭観音(右側)
土手道はY字路分岐となり、右側の道を進みます。
11時46分、Y字路分岐(右側)
土手道から離れて行くと左側に、明治45(1912)年に建立された久下堤碑が建っていました。
11時56分、久下堤碑(左側)
久下堤碑から約270m歩くと、右側に久下神社があり嘉永4(1851)年に建立された常夜燈があるというので立ち寄りました。
12時01分、久下神社(右側)
神社から約170m歩くと白壁土蔵の新井家がありました。
12時05分、新井家の白壁土蔵(右側)
※新井家の建物群(右側)
時間は12時を過ぎ、早朝の朝食からお菓子を少し食べただけで、空腹感が増大してきました。
Mさんが調べた食事処が約300m先にあるというので、もう少しだと気持ちを奮いたたせて先に進みました。
昼食を食べる予定にしていた「辻久」という店舗に着くと、暖簾が出ていません。
12時08分、食事処・辻久
日曜日は定休日のようで、昼食が食べられなくなりガッカリしました。
次の店に出会うことを期待して先に進みました。
辻久から約100m歩くと県道257号の高架陸橋があり、下を潜って進みます。
12時10分、高架陸橋
陸橋の下を潜り約350m歩くと、右側に対の石柱を残している成田山跡がありました。
12時15分、成田山跡(右側)
成田山跡から約60m歩くと、小沢家の門前に中山道道標が門の両側に建っていました。
個人が建てたものと思われますが、街道筋にはこのように街道が好きな方がおられます。
12時17分、中山道道標(右側)
小沢家から約40m歩くとY字路となり、街道は左側を進みます。
※Y字路分岐(左側)
Y字路分岐を左側に約100m進むと、またY字路的な分岐があり、街道は左側の道を上って土手に出ます。
※Y字路分岐(左側)
私とMさんはY字路に分かれる右側に久下権八公園があり、公園内に道標が建っていました。
12時20分、賽の神道標(右側)
公園に沿って右折すると、左側に元禄11(1698)年に建立された久下権八地蔵がありました。
12時21分、久下権八地蔵(左側)
権八地蔵からY字路に戻り、土手に上る道を進むと右側に路傍の祠があり記録に残しました。
12時22分、路傍の祠(右側)
路傍の祠から約20m先の右側に久下の渡し冠水橋跡碑が建っていました。
12時22分、久下の渡し冠水橋跡碑(右側)
冠水橋跡碑の先で土手上道に合流し、右方向に進みます。
※分岐・合流(右方向)
土手上道を約100m歩くとY字路分岐となり、右側の道を下りました。
12時24分、Y字路分岐(右側)
土手上道のY字路分岐から約60m進むと、右側のブロック塀の上から標板が出ていました。
12時26分、みかりや跡(右側)
みかりや跡は、忍藩の殿様が鷹狩の際、ここで休息したところから御狩屋(みかりや)と呼ばれた。
しがらきごぼう、久下柚餅子(ゆべし)、鮎うるかが名物だったそうです。
御狩屋跡から約120m歩くと、分岐・合流し左方向に進みます。
12時25分、分岐・合流(左方向)
分岐・合流から約190m歩くと、東竹院の案内看板が建っており、境内のだるま石を見に立ち寄りました。
12時32分、分岐(東竹院入口=左折)
分岐を右折して約80m歩くと、右に参道があり、左手に埼玉中央漁業ますつり場を見ながら進むと本堂があり、境内にだるま石がありました。
12時34分、東竹院(左側)
※だるま石(境内)
東竹院から街道を約500m進むと元荒川通りの交差点になりますが、街道は約50m歩く手前を右折します。
※右折する付近に熊久橋があるのですが、確認できませんでした。
12時44分、分岐(熊久橋付近=右折)
元荒川通りを横切り、約40m先を左折します。
※分岐(直進)
左角の筒井家に沿って左折
※分岐(左折)
左折して約140m歩くと、元荒川通りの交差点を右折した道と合流し、右方向に進みます。
※分岐・合流(右方向)
合流してから約230m歩くと交差点があり、右側の交差点角に地蔵尊が建っていました。
12時49分、地蔵尊(右側)
食事処・辻久から約40分、歩きながら食事処を探したのですが、1軒もありません。
「食べる所ないの?」と思いながら、空腹を我慢して街道旅を続けました。
そして地蔵尊の先の交差点を渡り約60m歩くと、右側に普通の民家かと思う寺院があり、記録に残しました。
12時51分、佛説寺(右側)
佛説寺から約230m歩くと、右側に曙公園があり、公園の街道沿いに日本橋から16番目の一里塚跡があり標板が建っていました。
12時54分、016八丁一里塚跡(右側)
八丁一里塚跡から約250m歩くと、右折する道路があり、右折して秩父鉄道の踏切を渡ります。
12時57分、分岐(右折)
※秩父鉄道の踏切
秩父鉄道の踏切を渡ると、直ぐ先に新幹線の高架、さらにJR高崎線の踏切(第6中山道踏切)があり、3つの線路を渡ったり、潜って通り抜けました。
JR高崎線の第6中山道踏切を渡って約80m歩くと熊谷駅北口に通じる交差点があり、街道は真っ直ぐに直進します。
ここまで来ると昼食は街道旅が終わってからにし、旅を続けました。
交差点を真っ直ぐに渡り約270m歩くと、国道17号の銀座1丁目交差点があり、左折しました。
13時02分、分岐(銀座1丁目交差点)左折
交差点を左折して約180m歩くと、筑波交差点があり今回の旅を終了しました。
13時05分、熊谷宿・筑波(熊谷駅入口)交差点着
《帰路》
今日の旅の到着地である熊谷駅入口の筑波交差点に到着し、持参した到着を記した看板を掲げて写真を撮る到着式を行い、今日の旅を終えました。
〔昼食〕 13:12~13:55
熊谷駅は到着地の交差点から約300mの処にあり、乗車する電車を14時19分に決め、昼食会場を探しました。
「これは」と思う店を覗くと営業中ののれんが出ておらず、日曜日は定休のようです。
Mさんと熊谷駅に向かいながら「日曜日が定休日の店が多いので、開いている店に入りましょう」
と探しながら歩くと、駅の手前の中華店の「永香閣」と店が開店していたので、腹ペコの胃袋を膨らませるため入店しました。
店内に入ると1組のお客がおりましたが、入れ替わるような感じで食べ終えて出て行き、私とMさんだけになりました。
私は乾いた咽喉を潤したいので「生ビール」を注文し、食事はMさんと同じ五目そば定食にしました。
少し待っていると生ビールが運ばれ、アルコールを好まないMさんは水で乾杯し、今日の旅の無事を祝しました。
〔帰路〕
店を出て、熊谷駅に行くとまだ時間があるというので、駅ビルで熊谷名物の「五家宝」をお土産に買いました。
改札を入りホームに下り予定していた列車に乗り、帰路の途に着きました。
14時19分、高崎線熊谷駅発
熊谷駅で乗車した列車が動くと直ぐに睡魔に襲われ、二人とも爆睡状態になりました。
何回か乗り換えを経て最寄り駅に戻り、Mさんと家の近くで別れ、私はスーパーで夕食の食材を買って帰りました。
【総括】
今回の旅は
①昼食を何処で食べるか
②熊谷堤の土手道の旧道の部分が判明するか
の不安がもろに的中し、
①の昼食は鴻巣から歩き始めると熊谷堤を過ぎた辺りで昼時になり、加えて日曜日が定休日のところが多く、街道沿いで食べことができず、旅が終えてから熊谷駅近くの中華屋で食べることになりました
②熊谷堤の道は上でも下でも並行しているためどちらでも良い感じで、土手の上の方が景色が良いので、自転車だけ気を付けて歩けばと思います。
但し、土手の上を歩いて史跡に巡りあうのは、決壊の跡碑で、逆に015久下一里塚は土手から下ったマンションの直ぐ近くの稲荷神社と一緒になっているので、立ち寄るのは難しくなります。
幸いMさんと二人で確認しながら歩いていたので、015久下一里塚は見落とさないで済みホッとしました。
【次回の予告】
次回の第5回「旧中山道二人旅」は、
実施日= 1月 9日(月・祝)
行 程=熊谷・筑波交差点~深谷・仲町交差点
歩程距離=約11.9㎞
を計画しています。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【宿場】 (07)鴻巣宿⇒ (08)熊谷宿
【行程】 歩行距離=15.9㎞ 総距離=66.0㎞
鴻巣駅入口交差点⇒(3.1㎞)⇒宮前交差点⇒(2.9㎞)⇒前砂交差点⇒(3.2㎞)⇒前原集会所前分岐⇒(2.7㎞)⇒久下神社前⇒(4.0㎞)⇒筑波交差点
【ルート図】
↓宿場(黒線囲みが第4回旅の宿場)
↓第4回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今回の旅はH28.12.11に予定していたのですが、直前に私が風邪を引いてしまいMさんのご配慮(無理しないように)で今日に順延となり、第3回の旅(H28.11.14)の到着点である「鴻巣宿・鴻巣駅入口交差点」から「熊谷宿・筑波(熊谷駅入口)交差点」までの約15.9㎞を歩きます。
東海道&甲州道中の旅を通じて、風邪などの体調不良で日程を変更したのは初めてです。
平素から男一人住まいのため、体調管理には気を付けていたのですが、崩してしまいました。
旅コースの地図、史蹟の場所を書き記す旅の準備は11日に向けて行っていたので、順延期間は再チェックを行っただけで済みました。
《移動》
集合が6時と早いため、平素より1時間早く起床し、旅の支度を整え、定番の磯部餅で朝食を摂り、冬の訪れを感じる冷たい風を受けながら最寄り駅に行くと、少し遅れてMさんがやってきました。
今回は日曜日の早朝ということで座って移動し、電車を乗り換え出発駅の鴻巣駅に到着しました。
07時44分、鴻巣駅着
鴻巣駅の改札を出て東口に出ると、駅前ロータリーの処にH26.10.11のこうのす花火大会で打ち上げられた四尺玉花火の模型が展示されていました。
※この花火はギネス世界記録に認定されているようです
東口から約270m歩くと出発地の鴻巣駅入口交差点に着き、出発地の看板を掲げた写真を撮る出発式を行い旅に出発しました。
【=旅=】
07時53分、鴻巣駅入口交差点(出発地)
出発して街道の左側の歩道を歩くと、路面に市名の象徴となっているコウノトリ図のタイルが埋め込まれていました。
鴻巣駅入口交差点から約290m歩くと雷電神社前のバス停がありました。
鴻神社の前の神社名は雷電神社と云っていたそうで、その当時の名前がバス停に残っていました。
07時58分、雷電神社前バス停(左側)
バス停の直ぐ先の左側に明治初期に建てられた田沼家の蔵が残っていました。
07時59分、田沼家の蔵(左側)
資料では田沼家の蔵の手前の駐車場が問屋場跡とのことでしたが、どの駐車場か特定できませんでした。
田沼家の蔵から約40m先の進行右側に鴻神社があり、参拝に立ち寄りました。
08時00分、鴻神社(右側)
本殿に参拝し、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒をご祈願しました。
※鴻神社・本殿
鴻神社を出ると鴻神社前交差点があり、交差点で分岐して右折すると日光裏街道です。
※分岐・日光裏街道
鴻神社交差点を真っ直ぐに渡り約500m直進すると、右側に池元院があり立ち寄りました。
08時12分、池元院(右側)
寺院入口の左脇に念仏碑、境内に蘭渓堂碑と鬼子母神堂が祀られていました。
※念仏碑
※蘭渓堂碑
※鬼子母神堂
池元院から約60m歩くと加美交差点で加美追分とも云われており、Y字路分岐を左側に進みました。
08時15分、加美交差点(左側)
交差点の左側には平成の中山道道標が建てられていました。
※平成の旧中山道道標
交差点から約220m歩くと第3中山道踏切があり、熊谷方面に向かう高崎線が走って行きました。
08時18分、第3中山道踏切
踏切を渡って約180m進むと、右側に滝乃屋がある十字路があり、十字路からさらに分岐して右にカーブしながら進む松山道がありました。
08時20分、松山道(左側)
松山道の分岐から約60m歩くとコンビニがあり、トイレに立ち寄りました。
08時20分~08時24分、休憩(トイレ)
トイレ休憩を済ませ、約220m進むと右側に白山神社があり、境内に寛文6年建立の庚申塔などの石塔群があると云うので立ち寄りました。
08時29分、白山神社(右側)
※石塔群
白山神社を出て街道を約850m歩くと左側に「聖山光徳寺」入口の看板が建っており、天長2(823)年創建の古刹ということで立ち寄りました。
08時39分、分岐(左折) 街道は黄矢印
左折して約70m進むと右折する道があり、右折すると突き当りに光徳寺がありました。
※分岐(右折)
08時41分、光徳寺
本堂は新しく建て替えられており、境内にも古刹を示すものもなく、創建約1,200年の歴史のある寺院という感じがなく、少し拍子抜けしました。
境内に記録に残すものはないかと探し、新旧の石灯篭が並んでいたので記録に残しました。
※新旧の石灯籠(境内)
街道に戻り約130m歩くと右側に箕田観音堂がありました。
08時47分、箕田観音堂(右側)
箕田観音堂は路端に建っているかと思ったら、広い敷地の奥に本堂が建っていました。
往時は吹張山平等院と呼ばれていたそうで、敷地の広さは往時を彷彿させるものでしたが、建物が取り壊されていて淋しさを感じました。
※石仏石塔群(境内)
箕田観音堂から約500m歩くと宮前交差点があり、真っ直ぐに渡って進みました。
08時55分、宮前交差点(直進)
宮前交差点から約190m歩くと、明治5(1,872)年に開校し創立144年の歴史のある箕田小学校がありました。
私が卒業した小学校も1年後の明治6年開校だったので、親しみを感じ記録に残しました。
08時58分、箕田小学校(左側)
箕田小学校を過ぎると直ぐに右側に1,000年を超える歴史がある龍昌寺があり立ち寄りました。
08時59分、龍昌寺・梵鐘(右側)
龍昌寺を出て直ぐの左側に陽刻された地蔵道標があると資料に記されていたのですが、Mさんと二人で探しましたが、見付けることが出来ませんでした。
龍昌寺から約180m歩くと右側に武蔵武士と渡辺姓の発祥の地である氷川八幡神社があり、立ち寄りました。
09時07分、氷川八幡神社(右側)
境内には宝暦9(1759)年に建立された箕田碑が建っていました。
※箕田碑(境内)
氷川八幡神社から約260m歩くと、左側の赤レンガ塀の脇に馬頭観世音碑が建っていました。
09時16分、馬頭観世音碑(左側)
馬頭観世音碑から約200m歩くと、武蔵水路に架かる中宿橋がありました。
09時19分、中宿橋
※武蔵水路
中宿橋交差点を真っ直ぐに渡り約130m歩くと、左側に石塔群がありました。
09時21分、石塔群(左側)
石塔群から約250m歩くと箕田追分交差点があり、街道は直進(黄矢印)します。
また、右折する道は館林行田道の基点(追分=白矢印)になっています。
09時24分、箕田追分(直進)
交差点の角に平成の中山道道標が建っていました。
※平成の中山道道標(右側)
交差点の左側に地蔵堂、堂の脇に庚申塔が建っていました。
※地蔵堂・庚申塔(左側)
箕田追分交差点から約190m歩くとブロック塀があり、それに隠れるように石塔2基が建っていました。
09時28分、石塔(左側)
石塔から約70m歩くと左側にバス停苗木があり、その横にブロックの建屋に囲まれて正徳2(1712)年建立の庚申塔と岡像女之神碑が建っていました。
09時30分、庚申塔・岡像女之神碑(左側)
バス停苗田から約700m歩くと左側に介護老人保健施設秋桜があり、施設を過ぎるT字路の角に前砂村標石が建っていました。
09時39分、前砂村標石(左側)
ここで街道から外れて板石塔婆が残る龍昌寺に立ち寄ることにしました。
09時44分、龍昌寺(左側)・板石塔婆
街道に戻り約160m歩くと、左側に日本橋から14番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
09時54分、014前砂一里塚跡(左側)
一里塚跡から約220m歩くと、根岸スズキ販売を過ぎた先を左側に50mくらい入った処に観音堂が建っていました。
09時59分、観音堂(左側)
観音堂から少し離れた左側の畑に陽刻の石像が3体建っていました。
※陽刻の石像(左側)
観音堂から約140m歩くと、右側に江原家があり、敷地内に忍領界石標があるというので立ち寄りました。
10時03分、江原家(右側)
邸内に入らせてもらい解説標板(白丸)の後方に石標が建っていました。
※忍領界石標(右側)
※石標を正面から見る場合は、白丸の標板を過ぎた処を左に曲がると見れます。なお、現在も江原家は住んでいるので、挨拶は不可欠です。
江原家から約110m歩くと前砂交差点があり、その手前に平成の中山道道標が建っていました。
10時07分、平成の中山道道標(右側)
前砂交差点は道標を廻り込む形で、一番右側の道(黄矢印)を進みます。
前砂交差点を真っ直ぐに進み約800m歩くと、第4中山道踏切があり、右折して渡ります。
10時17分、分岐・第4中山道踏切(右折)
第4中山道踏切を渡る手前の左側に、平成の中山道道標が建っていました。
※平成の中山道道標(左側)
道標を左側に見ながら第4中山道踏切を渡り、渡った処を左折して約110m歩くとY字路となり、右側に進みます。
※分岐・Y字路(右側)
Y字路の分岐に妙徳地蔵が祀られていました。
10時20分、妙徳地蔵(左側)
そして妙徳地蔵の裏手に古時計工房というのがあると、事前の資料作成の時に知り面白い名前にどのような店舗か楽しみにしていたのですが、写真のとおり今年の3月に裁判所の差し押さえ物件になっていて、ものの見事に期待を裏切ってくれました。
古時計工房から約50m歩くと県道307号と合流し、道なりに左に進みます。
10時22分、分岐・合流
分岐・合流から約450m歩くと吹上駅前交差点があり、交差点から左手を眺めるとJR高崎線吹上駅が見えました。
10時27分、吹上駅前(左側)
吹上駅前交差点から約170m歩くと左側に原精肉店があり、店の前に明治4(1904)年に建立された軍馬頭尊碑が建っていました。
10時30分、軍馬頭尊碑(左側)
軍馬頭尊の右斜め向かいの路地を右側に入ると、本陣跡があった場所があるというので、街道を離れて見に行きました。
※分岐(右折)
路地を約40m進むと右側に酒亭香川があり、店舗の手前左側に明治天皇が休憩した碑が建っていました。
10時32分、明治天皇御駐輦碑(右側)
街道に戻り約80m歩くと吹上本町交差点があり、その手前左側に平成の中山道道標が建っていました。
10時34分、平成の中山道道標(左側)
交差点を過ぎ、鳥正に沿って左折し、吹上本町交差点からの道と合流します。
※分岐・鶏正に沿って左折
※分岐・合流(吹上本町からの道と合流)
合流から約60m歩くと右折カーブの処の左側に、八王子千人同心街道の基点がありました。
10時36分、八王子千人同心街道基点(左側)
八王子千人同心街道基点から約90m歩くと、右側に吹上神社があり立ち寄りました。
10時38分、吹上神社(右側)
吹上神社の隣りに東曜寺があり、宝暦年間(1751年頃)に建立されたいぼ地蔵尊があるというので立ち寄りましたが、建立されている場所が分かりませんでした。
※東曜寺(右側)
東曜寺から吹上神社の境内を通って街道に戻り、約180m歩くと右側に吹上本町郵便局があり、郵便局を過ぎた陸橋の下の左側に中山道間の宿碑が建っていました。
10時45分、中山道吹上間の宿碑
街道は高架橋を通ってJR高崎線を渡ります。
①間の宿碑を廻り込む形で高架橋を上ります
②階段を一番上まで上ります
③高架橋からの眺め
④橋を渡って下ります
⑤高架橋を下り、線路方向に左折して進みます
高架橋を下り約600m歩くと(途中の右側に富士電機機器制御㈱コスモウィングがある)、右側に葛西家があり、隣家との境に猿田彦石碑が建っていました。
10時56分、猿田彦石碑(右側)
猿田彦石碑の先の道路を越えた角に平成の中山道道標が建っていました。
10時56分、平成の中山道道標(右側)
平成の中山道道標を左に見ながら街道を外れて右折して約40m歩くと、榎戸堰がありました。
10時57分、榎戸堰(右側)
榎戸堰の手前左側には、榎戸堰公園が作られていました。
※榎戸堰公園
公園の近くにトイレがあり、数時間休みなしで歩いたので、休憩することにしました。
ひと息ついて元気を取戻し、旅に出立すると、平成の中山道道標から約60m歩いた処に榎戸樋管は確認しましたが、元荒川起点の標石は見落としてしまいました。
その代わり榎戸樋管を記録に残しました。
11時05分、榎戸樋管(左側)
※榎戸樋管(右側)
榎戸樋管から約160m歩くとT字路の突き当り左側に、元禄11(1698)年に建立された権八延命地蔵が祀られていました。
11時08分、権八延命地蔵(左側)
地蔵の処のT字路を右折して土手道を上ります。
※分岐(右折)
土手道を進みます。
土手道は上段と下段があり、中山道は下段の道ですが、どちらを歩いても距離の差はありません。
上段の方が景色が良いので上段を歩いても構いませんが、街道はさらに下に向かうので、分岐するところを間違えないようにする必要があります。
土手道を歩いていると上段、中段、下段に別れる分岐(T字路から約300m)があり、下段を進みます。
11時13分、分岐(右側の下段の道)
分岐の下段の道を進むと直ぐ右側に八幡神社(別名を大曲八幡)や正徳5(1715)年に建立された庚申塔が建っていました。
11時16分、八幡神社(右側)
八幡神社から約270m歩くと、右側に安永8(1779)年建立の馬頭観音が建っていました。
11時18分、馬頭観音(右側)
馬頭観音を過ぎると土手に上る道となり、道なりに進みました。
土手道は熊谷堤で、見通しが良く、快晴の天気で気持ちの良い旅になりました。
※熊谷堤
熊谷堤を歩いていると左手に富士山、そして左斜め前方に浅間山(白丸)がそれぞれ眺めることができました。
熊谷堤を歩いていた地元の人に聞いたら「富士山はなかなかみられないので、今日は天気が良いので幸運ですよ」と云ってました。
ただ富士山は靄がかかっていたため、デジカメでは撮れませんでした。
※熊谷堤からの景色(白丸印は浅間山)
真ん中で撮ったつもりでしたが、端になってしまいました。
熊谷堤を歩いているとY字路分岐があり、中山道は右側に進みます。
11時28分、Y字路分岐(右側)
右側に行くのが中山道の正しい道なのですが、熊谷堤沿いにある決壊の跡碑に立ち寄るのでしたら、左側の熊谷堤を進むと50~60m先にあり、碑を見てから土手を下って下道の街道に出ることもできます。
私達は右側の街道を進み、碑の下から土手を往復して決壊の跡碑を見に行きました。
11時30分、決壊の跡碑(左側)
土手の下道を進むと右側にライオンズマンション行田弐番館があり、その脇に石鳥居の神社が見えました。
事前に調べた資料にマンション前に稲荷神社があり、ここが一里塚跡というので、土手の草をかき分けて神社に下って行きました。
草をかき分けて進んだのは良いのですが、枯れた草花がズボンにこびり付いて落とすのにひと苦労しました。
そのため、土手を真っ直ぐに降りて時間短縮も良いのですが、土手道を約100m通り越すとマンションとの境界フェンス沿った参道があるので、稲荷神社と久下一里塚跡に行く場合はお勧めします。
11時37分、正一位稲荷神社(右側)
神社の石鳥居を潜って進むと神社の本殿の隣りに、日本橋から15番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
11時38分、015久下一里塚跡(右側)
一里塚跡から少し先の土手の草の中に馬頭観音が建てられていました。
※馬頭観音(右側)
土手道はY字路分岐となり、右側の道を進みます。
11時46分、Y字路分岐(右側)
土手道から離れて行くと左側に、明治45(1912)年に建立された久下堤碑が建っていました。
11時56分、久下堤碑(左側)
久下堤碑から約270m歩くと、右側に久下神社があり嘉永4(1851)年に建立された常夜燈があるというので立ち寄りました。
12時01分、久下神社(右側)
神社から約170m歩くと白壁土蔵の新井家がありました。
12時05分、新井家の白壁土蔵(右側)
※新井家の建物群(右側)
時間は12時を過ぎ、早朝の朝食からお菓子を少し食べただけで、空腹感が増大してきました。
Mさんが調べた食事処が約300m先にあるというので、もう少しだと気持ちを奮いたたせて先に進みました。
昼食を食べる予定にしていた「辻久」という店舗に着くと、暖簾が出ていません。
12時08分、食事処・辻久
日曜日は定休日のようで、昼食が食べられなくなりガッカリしました。
次の店に出会うことを期待して先に進みました。
辻久から約100m歩くと県道257号の高架陸橋があり、下を潜って進みます。
12時10分、高架陸橋
陸橋の下を潜り約350m歩くと、右側に対の石柱を残している成田山跡がありました。
12時15分、成田山跡(右側)
成田山跡から約60m歩くと、小沢家の門前に中山道道標が門の両側に建っていました。
個人が建てたものと思われますが、街道筋にはこのように街道が好きな方がおられます。
12時17分、中山道道標(右側)
小沢家から約40m歩くとY字路となり、街道は左側を進みます。
※Y字路分岐(左側)
Y字路分岐を左側に約100m進むと、またY字路的な分岐があり、街道は左側の道を上って土手に出ます。
※Y字路分岐(左側)
私とMさんはY字路に分かれる右側に久下権八公園があり、公園内に道標が建っていました。
12時20分、賽の神道標(右側)
公園に沿って右折すると、左側に元禄11(1698)年に建立された久下権八地蔵がありました。
12時21分、久下権八地蔵(左側)
権八地蔵からY字路に戻り、土手に上る道を進むと右側に路傍の祠があり記録に残しました。
12時22分、路傍の祠(右側)
路傍の祠から約20m先の右側に久下の渡し冠水橋跡碑が建っていました。
12時22分、久下の渡し冠水橋跡碑(右側)
冠水橋跡碑の先で土手上道に合流し、右方向に進みます。
※分岐・合流(右方向)
土手上道を約100m歩くとY字路分岐となり、右側の道を下りました。
12時24分、Y字路分岐(右側)
土手上道のY字路分岐から約60m進むと、右側のブロック塀の上から標板が出ていました。
12時26分、みかりや跡(右側)
みかりや跡は、忍藩の殿様が鷹狩の際、ここで休息したところから御狩屋(みかりや)と呼ばれた。
しがらきごぼう、久下柚餅子(ゆべし)、鮎うるかが名物だったそうです。
御狩屋跡から約120m歩くと、分岐・合流し左方向に進みます。
12時25分、分岐・合流(左方向)
分岐・合流から約190m歩くと、東竹院の案内看板が建っており、境内のだるま石を見に立ち寄りました。
12時32分、分岐(東竹院入口=左折)
分岐を右折して約80m歩くと、右に参道があり、左手に埼玉中央漁業ますつり場を見ながら進むと本堂があり、境内にだるま石がありました。
12時34分、東竹院(左側)
※だるま石(境内)
東竹院から街道を約500m進むと元荒川通りの交差点になりますが、街道は約50m歩く手前を右折します。
※右折する付近に熊久橋があるのですが、確認できませんでした。
12時44分、分岐(熊久橋付近=右折)
元荒川通りを横切り、約40m先を左折します。
※分岐(直進)
左角の筒井家に沿って左折
※分岐(左折)
左折して約140m歩くと、元荒川通りの交差点を右折した道と合流し、右方向に進みます。
※分岐・合流(右方向)
合流してから約230m歩くと交差点があり、右側の交差点角に地蔵尊が建っていました。
12時49分、地蔵尊(右側)
食事処・辻久から約40分、歩きながら食事処を探したのですが、1軒もありません。
「食べる所ないの?」と思いながら、空腹を我慢して街道旅を続けました。
そして地蔵尊の先の交差点を渡り約60m歩くと、右側に普通の民家かと思う寺院があり、記録に残しました。
12時51分、佛説寺(右側)
佛説寺から約230m歩くと、右側に曙公園があり、公園の街道沿いに日本橋から16番目の一里塚跡があり標板が建っていました。
12時54分、016八丁一里塚跡(右側)
八丁一里塚跡から約250m歩くと、右折する道路があり、右折して秩父鉄道の踏切を渡ります。
12時57分、分岐(右折)
※秩父鉄道の踏切
秩父鉄道の踏切を渡ると、直ぐ先に新幹線の高架、さらにJR高崎線の踏切(第6中山道踏切)があり、3つの線路を渡ったり、潜って通り抜けました。
JR高崎線の第6中山道踏切を渡って約80m歩くと熊谷駅北口に通じる交差点があり、街道は真っ直ぐに直進します。
ここまで来ると昼食は街道旅が終わってからにし、旅を続けました。
交差点を真っ直ぐに渡り約270m歩くと、国道17号の銀座1丁目交差点があり、左折しました。
13時02分、分岐(銀座1丁目交差点)左折
交差点を左折して約180m歩くと、筑波交差点があり今回の旅を終了しました。
13時05分、熊谷宿・筑波(熊谷駅入口)交差点着
《帰路》
今日の旅の到着地である熊谷駅入口の筑波交差点に到着し、持参した到着を記した看板を掲げて写真を撮る到着式を行い、今日の旅を終えました。
〔昼食〕 13:12~13:55
熊谷駅は到着地の交差点から約300mの処にあり、乗車する電車を14時19分に決め、昼食会場を探しました。
「これは」と思う店を覗くと営業中ののれんが出ておらず、日曜日は定休のようです。
Mさんと熊谷駅に向かいながら「日曜日が定休日の店が多いので、開いている店に入りましょう」
と探しながら歩くと、駅の手前の中華店の「永香閣」と店が開店していたので、腹ペコの胃袋を膨らませるため入店しました。
店内に入ると1組のお客がおりましたが、入れ替わるような感じで食べ終えて出て行き、私とMさんだけになりました。
私は乾いた咽喉を潤したいので「生ビール」を注文し、食事はMさんと同じ五目そば定食にしました。
少し待っていると生ビールが運ばれ、アルコールを好まないMさんは水で乾杯し、今日の旅の無事を祝しました。
〔帰路〕
店を出て、熊谷駅に行くとまだ時間があるというので、駅ビルで熊谷名物の「五家宝」をお土産に買いました。
改札を入りホームに下り予定していた列車に乗り、帰路の途に着きました。
14時19分、高崎線熊谷駅発
熊谷駅で乗車した列車が動くと直ぐに睡魔に襲われ、二人とも爆睡状態になりました。
何回か乗り換えを経て最寄り駅に戻り、Mさんと家の近くで別れ、私はスーパーで夕食の食材を買って帰りました。
【総括】
今回の旅は
①昼食を何処で食べるか
②熊谷堤の土手道の旧道の部分が判明するか
の不安がもろに的中し、
①の昼食は鴻巣から歩き始めると熊谷堤を過ぎた辺りで昼時になり、加えて日曜日が定休日のところが多く、街道沿いで食べことができず、旅が終えてから熊谷駅近くの中華屋で食べることになりました
②熊谷堤の道は上でも下でも並行しているためどちらでも良い感じで、土手の上の方が景色が良いので、自転車だけ気を付けて歩けばと思います。
但し、土手の上を歩いて史跡に巡りあうのは、決壊の跡碑で、逆に015久下一里塚は土手から下ったマンションの直ぐ近くの稲荷神社と一緒になっているので、立ち寄るのは難しくなります。
幸いMさんと二人で確認しながら歩いていたので、015久下一里塚は見落とさないで済みホッとしました。
【次回の予告】
次回の第5回「旧中山道二人旅」は、
実施日= 1月 9日(月・祝)
行 程=熊谷・筑波交差点~深谷・仲町交差点
歩程距離=約11.9㎞
を計画しています。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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