旧中山道二人旅

旧東海道、旧甲州道中と2つの街道を踏破し、5街道の中で一番距離が長く、峠越えも多く、一番厳しい中山道の歩き旅をします。 相方のYumiさんは車椅子とベットの生活となり特養でお世話になっているため、中山道の旅は旧甲州道中を旅したMさんと二人で旅をすることになりました。 今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅を行います。 旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入り、東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。 街道で見かけましたら、気軽に声を掛けて下さい。

2017年11月

【天候】 晴れ 
【宿場】 (34)奈良井宿 ⇒ (35)藪原宿
【行程】 歩行距離=6.96㎞ 総距離=267.68㎞
民宿かとう前⇒(1.29㎞)⇒鳥居峠登り口⇒(2.1㎞)⇒鳥居峠⇒(1.7㎞)⇒消防署前⇒(1.6㎞)⇒藪原一里塚跡⇒(0.27㎞)⇒ 藪原駅入口分岐
【ルート図】
 ↓
宿場(桃色=第17回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
000 第17回宿場図
 ↓第17回旅のルート
000-1 第17回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は奈良井宿民宿かとう~鳥居峠~藪原駅入口分岐までの6.96km歩きます。
当初は6時30分に朝食を食べ、奈良井駅7時28分の電車で1(木曽平沢駅)~2(贄川)駅戻り、宿泊した奈良井宿を通って鳥居峠を越える予定になっていたのですが、昨日頑張って歩いたので、宿舎の食事時間に食べることになり、開いた時間を朝の散策時間に当てることにしました。
《朝の散策》
朝、5時に起き、朝の身支度と旅の支度を整え、6時頃から奈良井宿の散策に出掛けました。
外に出ると夜明け前でフラッシュを使わないと撮れない状態で、歩いている人も居ません。
※奈良井宿
001 夜明け直前の街並み
民宿かとうを出て路地を抜け、JRの線路を横切り、木曽大橋を見に行きました。
ライトアップの写真を撮った総ヒノキ造りの木曽大橋を見に行くと、歩く所は霜が下り、橋の傾斜を考えると滑って転びそうなため、見るだけしました。
※早朝の木曽大橋
002-2 木曽大橋
専念寺にうなり石(夜毎唸りをあげたという石で、釘を打ち付けた跡がある)があるというので見に行きました。
境内を丹念に見たのですが、それらしき石はありません。
何処かに移動したのか、撤去されたのかとMさんと話しながら寺院から退去しようとすると、境内外の道路沿いにありました。
※うなり石
003 うなり石
奈良井宿の町並みは、軍事的な守りを重視した枡形道が随所に見られます。
※桝形道
004 桝形道
木曽の山間の寒さを感じながら朝の散策を終え、朝食を食べに戻りました。
朝食は普通の配膳で、昨日と同じ場所で食べましたが、街道旅の男性は私達が食べに来ると、既に食べ終えて旅に出立していました。
※朝食
012 朝食
昨日、当初予定を変更して奈良井宿まで歩いて来なければ、私達も既に食べ終えて出立していたのですが、その必要がなくなったので、ゆっくりと食べ、トイレを済ませ民宿を後にしました。
【=旅=】
08時02分、民宿かとう(出発地)
旅の出立に当たり出発地を記した看板を掲げて出発式を行っているのですが、今回は変更に対応できる看板が作成できなかったため、看板なしの出発式を行い第17回旅に出発しました。
013 民宿かとう(出発地)
民宿かとうの先隣りは予約の時、「満室です」と断られた「いかりや町田」です。
※いかりや町田(左側)
183 いかりや町田
いかりやから約10m先の右側に、食事・土産の越後屋がありました。
※食事・土産・越後屋(右側)
184 そば処・越後屋
越後屋から約40m歩くと、右側の斎藤漆器店の隣りに寛政5年(1793)に創業し、銘酒「杉の森」の蔵元である杉の森酒造がありましたが、見学できませんでした。
※杉の森酒造(左側)
185 杉の森酒蔵
杉の森酒造の先隣りに、煙草の中村屋があり、店の前に今は懐かしい円筒形の郵便ポストが建っていました。
※煙草・中村屋(左側)
186 煙草・中村屋
中村屋の真向かい(右側)に伝統的建造物群保存地区碑が建っていました。
※伝統的建造物群保存地区碑(右側)
187 保存地区碑
地区碑の先隣りに、積水水場がありました。
※横水水場(右側)
188 積水水場
横水水場から約60m歩くと右側に大宝寺に通じる道があり、マリア地蔵庭園があると云うので朝の散策で立ち寄りましたが、良く分からなかったので、入口だけ記録に残しました。
※マリア地蔵庭園(大宝寺)=右側
014 マリア地蔵庭園入口
マリア地蔵庭園入口から約20m歩くと、延宝3年(1675)に創業し、現在郷土館になっている旧旅籠の徳利屋がありましたが、時間が早く見学出来ませんでした。
※旧旅籠・徳利屋(現郷土館)=左側
006 徳利屋
徳利屋の左斜め向かいの道を入った処に、本陣跡があり、標柱が建っていました。
※本陣跡(右側)
010 本陣跡
街道を約40m歩くと、左側に観光案内所があり約50m進むと、左側に寛政年間(1789~1801)に創業した旧旅籠で、現旅館として続いている越後屋がありました。
※越後屋(左側)
008 えちごや旅館
越後屋の斜め向かいに文政元年(1818)築で、脇本陣を務め、下問屋も兼ねた伊勢屋があり、現在は旅館を営んでいます。
※伊勢屋(右側)
009 脇本陣・下問屋跡(現伊勢屋)
伊勢屋の先は、先細りになる枡形道になっていました。
※桝形道
011 桝形道
旅館・越後屋の隣り、伊勢屋の真向かいに漢方薬で有名な日野百草丸本舗奈良井店がありました。
08時05分、日野百草丸本舗(左側)
015 日野百草丸本舗
日野百草丸本舗から約30m歩くと、右側に笹屋酒店がありました。
08時06分、笹屋酒店(右側)
016 笹屋酒店
笹屋酒店の先隣りに上問屋跡があり、現在は資料館になっており、門前に明治天皇が立ち寄られた石碑が建っていました。
08時06分、上問屋跡(現資料館)=右側
017 上問屋跡(現資料館)
時間が早くかったので、資料館が会館していなかったため、記録だけ残し先に進みました。
資料館から約50m歩くと、右側に長泉寺があり、寛永10年(1633)徳川第3代将軍家光公によって始められた「お茶壺道中」の宿所で拝領の茶壺があるというので立ち寄りましたが、寺院の開門前で見ることができませんでした。
08時09分、長泉寺(右側)
018 長泉寺
長泉寺を出て街道を約50m歩くと、右クランク形の枡形道になっており、右側に鍵の手水場がありました。
※桝形道
019 枡形道
08時11分、鍵の手水場(右側)

020 鍵の手水場
枡形道の右側に、
・荒幡不動尊
021 荒沢不動尊
・鍵の手碑

022 鍵の手碑
・男女双体道祖神

023 男女双体道祖神
が順番に建っていました。
枡形道のクランクを出て約90m歩くと、右側に天保年間(1830~1844)に建築された中村家住宅がありました。
08時14分、中村家住宅(右側)
024 旧中村屋住宅     024-1 解説
中村家住宅から約150m歩くと、右側に高札場跡があり、現在は昭和48年に復元されたモニュメントが建てられていました。
08時17分、高札場跡(右側)
025 高札場跡
高札場跡の先隣りに、宮の沢水場があり、水場の後方に石塔群が祀られていました。
※宮の沢水場(右側)
026 宮の沢水場
水場から約20m進むと、右側に鎮神社があり、Yumiさんの病気平癒と旅の安全をご祈願するため立ち寄り、お賽銭をご奉納して手を合わせました。
08時19分、鎮神社(右側)
027 鎮神社
ご祈願を終え神社から約40m歩くと、右側に楢川歴史民俗資料館があり、前庭に青屯句碑が建っていました。
08時23分、青屯句碑(右側)
028 青邨句碑
楢川歴史民俗資料館から約70m歩くと右側に石段があり、旧街道は石段を上って進みます。
08時24分、分岐(右側の石段を上る)
029 分岐(右の階段)
右側の階段を上ると、右側に中北道標(鳥居峠2.3km、奈良井宿0.1km)が建っており、道標を見ながら擁壁上の草道を進みました。
※擁壁上の草道
030 旧街道
(この先から鳥居峠を越え藪原宿手前の石畳道分岐まで時間で表示します)
08時29分、分岐(突き当たった県道を右折)

031 合流(右折)
草道を約5分歩くと県道に突き当たり、県道を右折して坂道を上ります。
突き当たる手前の左側に、信濃路自然遊歩道道標が建っていました。
上り坂を右に曲がりながら約3分歩くと、右側に信濃路自然遊歩道中山道マップの看板が建っており、手前の分岐を右折しました。
08時32分、分岐(信濃路自然遊歩道中山道マップ看板手前)=右折
032 分岐(右折)
石畳の上り坂を進むとくるみ坂となり、さらに坂を上って進みます。
※石畳のくるみ坂
033 くるみ坂(石畳道)
くるみ坂を上ると左折しながら木橋(1番目)を渡ります。
08時40分、木橋(1番目)
034 木橋①
木橋を渡り、約2分歩くと左側に展望台と記された案内板が建っており、左折して展望台に行きました。
08時42分、分岐(展望台)=左折
035 分岐(左折)=展望台  
坂道を約2分上ると東屋のある展望台に到着し、ザックを下ろして一服休憩を取りました。
08時44分~08時47分、休憩(展望台)
036 展望台の休憩所
一方、展望台は木々に囲まれて眺望は期待外れでした。
水分補給などの休憩を終え、坂を下って街道の分岐に戻ると、分岐の数m先の左側に、小石が積み重なった観音像がありました。
08時48分、観音像(左側)
037 石に埋もれた観音像
小石が積み重ねられた観音像から2つの木橋を渡り、左に曲がりながら進むと右側に葬沢があり標識と信濃路自然遊歩道道標が建っていました。
08時55分、葬沢(右側)
038 葬沢
葬沢標識の直ぐ隣りに中の茶屋跡があり、休憩できる建物が建っていました。
※中の茶屋跡
039 中の茶屋跡
中の茶屋跡を過ぎ、道が九十九折になる所の左側に道祖神が祀られていました。
08時57分、道祖神(左側)
040 道祖神
道は九十九折に峠道を上ります
※九十九折の道
041 九十九折りの上り
九十九折の道を過ぎ4つ目の木橋を渡り、さらに上り坂を進むと今度はコンクリート橋が架かっていました。
09時07分、コンクリート橋
043 コンクリート橋
コンクリート橋を渡りながら右側を見ていると水場があり、記録に残しました。
※水場(右側)
044 水場
コンクリート橋を渡り約6分歩くと、右側に日本橋から65番目の鳥居峠一里塚跡があり、跡地に石碑と解説パネルが建っていました。
09時13分、65鳥居峠一里塚跡(右側)
045 鳥居峠一里塚跡     045-1 解説
資料では4番目の木橋を渡る手前に記されていたのですが、コンクリート橋を渡り、5番目の木橋を渡る手前にありました。
一里塚跡を過ぎ、5番目、6番目の木橋を渡ると、林道に突き当たるT字路となり、
右側の中北道標、左側に自然石道標を見ながら左折します。
09時19分、分岐(T字路)=左折
046 分岐(峠の茶屋)左折
T字路から約100m歩くと、左側に峠の茶屋跡なのか休憩所があり、休憩に立ち寄りました。
09時21分~09時30分、峠の茶屋(休憩)
047 峠の茶屋
朝からトイレに行ってなかったので、まずトイレを済ませ、休憩所内でザックを下ろして休憩しました。
建物の裏は今朝の冷え込みで、一面霜で真っ白。
流れている水場の水は、手を浸していられない冷たさでした。
※霜で真っ白                    ※水場
047-1 寒気による霜   047-2 水場
休憩を終え、ザックを背負い、休憩所脇の白い案内看板を左側に見ながら、山道に入りました。
※分岐(峠の茶屋)
048 分岐(鳥居峠)
上り坂を約3分歩くと、右に曲がった所の左側の崖上に、明覚霊神碑が建っていました。
09時33分、明覚霊神碑(左側)
049 明覚霊神碑
明覚霊神碑から1分くらい先が鳥居峠と思うのですが、標識が建っていないので通り過ぎてしまい、気がついたら下る丸太階段の処まで進んでしまいました。
09時34分、丸太階段
050 鳥居峠付近
階段を下り、少し歩くと左側に明治天皇が一時休まれた所に石碑が建っていました。
09時35分、明治天皇駐蹕所碑(左側)
051 明治天皇駐驒所碑
駐蹕所碑の先で丸太階段を下ると斜めT字路となり、真っ直ぐに進みそうになるのですが、ヘアピンカーブのように右折して舗装路を下ります。
※分岐(斜めT字路)=右折
052 分岐(右折)
舗装路の坂を下り、二叉の分岐を左に曲がり、直ぐに次の分岐を左に曲がって土道(遊歩道藪原宿方面)を進みます。
※分岐
053 分岐(左折)
右角に木製道標、自然石道標が続き、その先に熊除けの鐘が設置されており、鐘を叩いてから先に進みました。
09時39分、自然石道標(右側)      ※熊除けの鐘①(右側)
054 自然石道標 055 熊除けの鐘
明治の道とも云われている土道を約3分歩くと、右側に子宝伝説の子産のトチがあり、解説パネルが建っていました。
09時42分、子産のトチ(右側)
057 子産の栃     057-1 解説
子産のトチから約1分歩くと、左側に鳥居峠のトチノキ群碑が建っていました。
09時43分、鳥居峠のトチノキ群碑(左側)
056-1 トチノキ群碑
トチノキ群碑から約1分歩くと、2つ目の熊除けの鐘があり、ここでも鐘を叩いてから先に進みました。
09時44分、熊除けの鐘②(右側)
059 熊除けの鐘
熊除けの鐘から約2分歩くと、左側にベンチ、右側に鳥居峠の御嶽神社がある分岐となり、右側の坂と階段を上って御嶽神社に立ち寄りました。
09時46分、御嶽神社(右側)
061 御嶽神社   061-1 御嶽神社
鳥居の処から参拝し、分岐に戻りました。
09時48分、分岐(御嶽神社前)=直進
060 分岐(真ん中)
左側のベンチを見ながら直進し、約2分歩くと右側に御岳手洗水鉢があり、その奥に義仲硯水があると云うので、立ち寄りました。
09時50分、御岳手洗水鉢、義仲硯水(右側)
062 御嶽手洗水鉢   063 硯水の伝説
平家追討の旗を揚げた木曽義仲は、この水で硯を摺り戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したそうです。
街道に戻ると道の左右にテーブル付きベンチがあり、ベンチの先で道が三叉に分岐し、左側に中北道標が建っており、鳥居峠300m・JR藪原駅2.7kmの道標の向きに沿って左側の道を進みました。
09時51分、分岐(三叉路)=左側
065 分岐(左側)   065-1 分岐道標
左側の道を約2分進むと、これから行く藪原の町並みかどうか分かりませんが、紅葉に囲まれた町を眺めることが出来ました。
09時53分、木曾の町並み
066-1 眺め
三叉路分岐から約4分歩いた処の右側に、馬頭観音が祀られていました。
09時55分、馬頭観音(右側)
067 馬頭観音
資料では馬頭観音の先辺りに芭蕉句碑があると記されていましたが、確認することができませんでした。
鳥居峠の下り道はこの先九十九折りの道を下っていくのですが、その途中の右側に供養塔が建っていました。
※九十九折の下り坂
069 九十九折りの下り坂
10時02分、供養塔(右側)

068 供養塔
九十九折の坂を下って行くと、右から左に走る林道の真向かい左側に一方通行進入禁止の標識、右側に自然石道標が建っている道があり、林道を横切って進みました。
10時05分、分岐(林道横切り)=直進
070 分岐(真ん中)
林道を横切る手前の左側に中北道標、右側に鳥居峠碑が建っており、その他に3つ目の熊除けの鐘が設置されていたので、鐘をカンカン鳴らして先に進みました。
※中北道標(左側)                ※鳥居峠碑(右側)
072 中北道標   073 鳥居峠碑
※熊除けの鐘③(右側)

071 熊除けの鐘
一方通行進入禁止の道に入ると石畳道となり、分岐から約3分歩くと左側に赤い
鳥居と社の原町稲荷社が斜面に祀られていました。
※石畳道
074 石畳道
10時08分、原町稲荷社(左側)

075 原町稲荷社
稲荷社から約1分歩くと左側に中北道標と自然石道標が立つ石畳道分岐となり、旧国道に合流し、分岐点に信濃路自然歩道中山道ルート標板が建っていました。
10時09分、石畳道分岐(旧国道に合流)
076 合流(旧国道)
合流分岐から約280m歩くと、十字路があり横切ります。

10時13分、分岐(十字路)=直進
077 分岐(横断)
十字路を横切り約60m歩くと、右側に中北道標(白丸)が建っていました。

※分岐(合流)
078 中北道標
分岐合流から約160m歩くと、左側に天降社があり、敷地内に木祖村唯一の大モミジが植生されていました。
10時16分、天降社・大モミジ(左側)
079 天降社・大もみじ
天降社から約90m歩くと、左側に原町清水の水場がありました。
10時18分、原町清水(左側)
080 原町清水
水場から約160m歩くとクランク形の道となり、右に曲がり、次に左に曲がる処に(黄色矢印)に右側(白矢印)に入る道があり、白矢印の道を入ると左側に尾州御鷹匠役所跡があり、標柱と解説パネルが建っていました。
10時21分、尾州御鷹匠役所跡(左側)
081 分岐(右鷹匠碑)   082 尾州御鷹匠役所跡
旧街道に戻り、約40m進むと左側に、飛騨街道追分碑が建っていました。
10時22分、飛騨街道追分碑(左側)
(追分碑)              (右折)              (跨線橋)

083-1 追分碑  083 飛騨街道追分  084 跨線橋
追分碑の前を右折し、線路際を右折して跨線橋を跨いでJR中央本線を渡りますが、跨線橋に上る袂の右側に、水神、津島大神が祀られていました。
10時24分、水神碑・津島大神碑(右側)
085 津島大神碑・水神碑
石碑の先から階段を上り、線路を跨ぐ跨線橋を渡り、線路の反対側に行きました。
跨線橋を渡り、葛沢橋を越えるなど約100m歩くと、左側に本陣跡があり、跡地に標柱が建っていました。
10時27分、藪原宿・本陣跡(左側)
086 藪原宿本陣跡
本陣は、木曽氏の家臣であった古畑十右衛門が代々務めていました。
本陣から約50m歩くと、左側に慶長13年(1608)創業の米屋旅館がありました。
10時28分、米屋旅館(左側)
087 米屋旅館
建物は明治の大火後、須原宿から移築されたものだそうです。
米屋旅館の脇の道は、人によっては旧中仙道と云われている道で、飛騨街道追分碑を左側に見て、約170m先を右折する道(白矢印)です。
※分岐
089 分岐
分岐の真向かいに、創業慶安3年(1650)の銘酒「木曽路」の蔵元である湯川酒造がありました。
10時29分、湯川酒造(右側)
088 湯川酒造
湯川酒造から約50m歩くと、左側に藪原宿が元禄8年(1695)の大火で全焼し、その大火の教訓から広小路を造り防火壁を設けた跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。
10時31分、防火高塀跡(左側)
090 防火高塀跡
防火高塀跡から約120m歩くと、左側に源流の里・二叉水道組合の水場があり、記録に残しました。
10時34分、水場(左側)
093 水場
水場から約100m歩くと、左側にお六櫛工房の山六篠原商店がありました。
10時35分、お六櫛工房・山六篠原商店(左側)
094 篠原櫛店
山六篠原商店から約120m歩くと、右側に高札場跡があり、円筒形ポストを挟むように左側に標柱、右側に解説パネルが建っていました。
10時37分、高札場跡(右側)
096 高札場跡
高札場の辺りは御判形とも呼ばれた枡形になっており、藪原宿の京(西)口で、高札場跡に沿ってY字路を右の下り坂に入ります。
※分岐(京口跡)=右折
095 分岐(右側)
右折して下り坂を約250m歩くと、突き当りのT字路となり、右折します。
※分岐(T字路)=右折
097 分岐(橋を渡る)
右折して直ぐに橋を渡り、右に曲がりながら約140m歩くと、1本目の左折できる道があり、ここが旧中仙道の分岐になります。
10時41分、分岐(左折)
099 分岐(左折)
分岐を曲がってしまうと、その先にある一里塚跡に立ち寄れないため、分岐を左折しないで
そのまま約40m先まで歩くと、右側に蒸気機関車が展示されている公園があり、公園の入り口に日本橋から66番目の藪原一里塚があり、跡地に石碑と解説パネルが建っていました。
10時42分、66藪原一里塚跡(右側)
098 66藪原一里塚跡   098-1 解説
一里塚跡から分岐に戻り、本来は左折する分岐を右折し、約150m先の県道26号が交差する十字路に突き当たりました。
本来は突き当たった県道26号を横切って直進(オレンジ色矢印)するのですが、JRの鉄道敷設により通り抜けできなくなり、突き当たった県道26号を左折して進みます。
10時44分、分岐(県道26号)=左折
100 分岐(左折)
分岐を左折して約30m歩くとJR中央本線のガードがあり、ガードを潜ると約20mでT字路となり右折します。
※分岐(T字路)=右折
102 藪原駅入口分岐(到着地)
今日の到着地である藪原駅入口分岐(T字路)に着きました。
旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を、藪原駅入口分岐で行い今日の旅を終えま
した。
10時45分、藪原駅入口分岐(到着地)
103 藪原駅入口分岐(到着地)
【帰路】
到着式を終え、約160m離れているJR中央本線・藪原駅に移動しました。
104 藪原駅
電車は予定していた13時19分より2時間早い11時19分に乗車できることになり、駅舎で待つことにしました。
トイレを済ませホームに移動しようとすると、駅員さんが「コーヒー入れたから」とコーヒーをご馳走して下さり、体を温めるとともに、心も温かくなりました。
街道旅(旧東海道、旧甲州道中)をする中で、駅員の方に饗されたのは初めてで、記憶に残る思い出を作らせて頂きました。
〔移動〕
定刻から3分遅れて電車が到着し、空いている席に座り帰路に着きました。
11時19分、藪原駅発
105 藪原駅
塩尻駅に3分遅れで到着し、私が指定席の変更、Mさんが駅弁購入を分担し、乗車するまでの約15分を有効に使い、変更した特急に乗って家に帰ってきました。
※車窓から富士山の眺め
108 富士山

【次回の予告】
次回の第18回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=12月 9日(土)
行 程=藪原宿・藪原駅入口分岐 ~ 木曽福島宿・上町交差点
歩程距離=約13.3㎞
です。
藪原駅を出発するのが11時30分頃になるため、昼食を持参して16時頃の日没までに歩く行程になります。

街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  

    

【天候】 晴れ
【宿場】 (31)洗馬宿 ⇒ (32)本山宿 ⇒ (33)贄川宿 ⇒ (34)奈良井宿 
【行程】 歩行距離=22.98㎞ 総距離=260.72㎞
洗馬宿・ガード手前分岐⇒(1.2㎞)⇒平出一里塚跡⇒(3.45㎞)⇒百瀬本陣跡⇒(1.7㎞)⇒牧野交差点⇒(2.93㎞)⇒日出塩一里塚跡⇒(2.85㎞)⇒片平橋 ⇒(2.8㎞)⇒贄川駅入口⇒(2.17㎞)⇒押込一里塚跡⇒(2.6㎞)⇒楢川支所前⇒(2.93)⇒奈良井駅前⇒(0.35㎞)⇒民宿かとう前
【ルート図】
 ↓
宿場(桃色=第16回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
000 第16回宿場図
 ↓第16回旅のルート
000-1 第16回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
スマホのアラームが鳴る前に目を覚ましましたが、鳴るまで待って布団を出て洗面、トイレを済ませ今日の旅支度を整え、Mさんと昼食のおにぎりを買いに近くのコンビニに出掛けました。
〔宿舎の変更〕
コンビニに向かう途中、Mさんから
M=昨晩、今日泊まる「民宿しまだ」から「騒がしい人達が泊まっているので、別の所に移って頂け
  ないでしょうか」と連絡があり、部屋に行ったら寝ていたので変更を受け入れました
E=分かりました。騒がしい人達というのはどういうことなのでしょうかね
M=詳しいことは分からないのですが、騒がしくて寝れないのではないかということです
E=別の所とは何処なのでしょうか?
M=数軒先の「民宿かとう」と云ってました。
  また明日の朝は7時28分の電車に乗るので、6時30分からの朝食で話しました。
E=分かりました
と云うことで、今日の宿泊場所が急遽変更になりました。
〔行程の変更〕
今日の旅行程は贄川駅前まで旅をして、贄川駅から電車に乗って奈良井駅に移動し奈良井宿で泊まり、翌13日は早い電車で贄川駅に移動し、藪原駅15時50分発の電車で帰る予定でいました。
一方、Mさんは1本前の13時19分発の電車に乗りたいと考えているため、少しでも13日の行程を短くしようと贄川駅までを木曽平沢駅まで約5㎞伸ばすことにして出発したのですが、
 ・木曽平沢駅から奈良井駅までの距離(約3㎞)
 ・乗車する電車の時刻(待ち時間)
 ・翌日の行程
などを考え、宿泊する民宿まで歩くことにしました。
《朝食》
6時30分、朝食
001 朝食
宿で配膳された朝食を食べ、ザックの荷物などを整え、旅に出発しました。
07時04分、藤金旅館発
旅館を出発し、約450m離れている昨日の到着地に向かい、恒例の出発式を行い旅立ちました。

【=旅=】
07時10分、洗馬宿・ガード手前分岐(出発地)
002 ガード手前分岐(出発地)
出発地から約50m歩くと中央本線のガードがあり、ガードを潜って先に進みました。
07時11分、中央本線ガード
003 JRガード
ガードを潜ると右側に昭和電工があり、広大な敷地は約700mにおよび、昭和電工からさらに約130m進むと平出遺跡交差点があり、交差点を渡ると左側に日本橋から59番目の一里塚があり、両塚が現存されており、塚の前に標板が建てられていました。
07時22分、59平出一里塚跡(両側)
004 59平出一里塚(左)
両塚が残されていたのですが、右側の塚は確認しないで通過してしまいました。南塚の塚木は武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と呼ばれ、松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなるといわれ乳松とも呼ばれたそうです。また、宝暦6年(1756)頃には茶屋が2軒あったそうです。
一里塚から約230m歩くと左側に平出遺跡の案内看板が建っており、時間も早いこととトイレ&衣服調整を兼ねて、約180m街道を外れて立ち寄りました。
07時28分、平出遺跡(左側)
005-1 平出遺跡
平出遺跡は縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、古墳時代(約千三百年前)の竪穴式住居が復元されている。
平出遺跡でトイレと衣服調整を済ませ、旧街道に戻り先に進みました。
街道に戻り約400m歩くと、JR中央本線第一中山道踏切があり、踏切を渡ってそのまま進みます。
07時43分、JR中央本線第一中山道踏切
006 第一中山道踏切
踏切を渡り約500m歩くと両側にぶどう園があり、信州ワインの産地です。
※ぶどう園(両側)
008 ぶどう園
ぶどう園を過ぎると中山道一里塚交差点があり、交差点を渡ったところをR19に斜め左側の旧道痕跡を進みました。
07時51分、分岐(中山道一里塚交差点)=渡って斜め左
009 分岐(中山道一里塚交差点)斜め左
短い旧道痕跡を歩き、R19の左右を確認して進行左側に移動し、約750m歩くと左側に厨房弁慶、その先にコスモ石油GSがあり、コスモ石油の左側の砂利道に入ります。
08時01分、分岐(コスモ石油GS)=左側
010 分岐(コスモ石油)左側
砂利道を約260m歩き、突き当りのスロープを上り、県道304号に出てR19と交差する平出歴史公園交差点を横切ります。
08時05分、分岐(平出歴史公園交差点)=横切り
011 分岐(平出歴史公園)横切り
交差点を横切り、左に曲がりながら約350m歩くと、右側に肘懸松があり、松と石碑・解説標板がありました。
08時09分、肘懸松(右側)
012-1 碑と解説
松の先の右側に細い下り坂(相生坂)があり、旧街道はその道を進みます。
※分岐(右の細い道)
013 分岐(右側)
細い下り坂を約15m進むと、右側に肘懸松跡標柱が建っていました。
08時10分、肘懸松跡(右側)
012-2 肘懸松跡標柱
細い下り坂(相生坂)をさらに下るとクランク形の枡形状に進むと、善光寺西街道に突き当りますが、突き当たる手前の右側に、安政4年(1857)に建立された分去れ常夜燈が建っていました。
08時11分、分去れ常夜燈(右側)
014 分去れ常夜燈     016-1 解説
常夜燈の先で善光寺西街道に突き当り、分岐を左折します。
※分岐(善光寺西街道)=左折
016 善光寺街道
左折して約130m進むと県道304号と合流し、その合流点に分去れ道標が建っていました。
08時14分、分去れ道標(左側)
017 分去れ道標・石塔群
分去れ道標から約300m歩くと、右側に宗賀農林漁業体験実習館があり、建物の右側の壁に左=洗馬学校跡、右=洗馬宿解説が掲げられていました。
08時18分、洗馬学校跡(左側)
※洗馬学校跡            ※学校跡解説           ※宿解説

018 洗馬学校跡   018-1 洗馬学校解説   018-2 洗馬宿・解説
洗馬学校跡の先に火の見やぐらがあり、その隣の石塀の前に百瀬本陣跡の標柱が建っていました。
08時20分、百瀬本陣跡(左側)
019 百瀬本陣跡
本陣および脇本陣の庭園は善光寺道名所図会で「中山道に稀な」と紹介された名園だったそうです。
本陣跡から約40m歩くと、左側に規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収した荷物貫目改所跡があり、解説板が建っていました。
08時21分、荷物貫目改所跡(左側)
020 荷物貫目改所跡     020-1 解説
荷物貫目改所は中山道では板橋、追分の三宿に設置され、伝馬役の過重軽減を図っていた。
荷物貫目改所跡から約30m進むと、左側に脇本陣跡があり、街道沿いに標柱が、樹木の仕切りの中に明治天皇御駐輦碑が建っていました。
08時22分、脇本陣・明治天皇御駐輦碑(左側)
※脇本陣跡                       ※明治天皇御駐輦碑

021 志村脇本陣跡     022 明治天皇御騨輦碑
脇本陣から約80m歩くと、山本屋商店の先隣りに武居家があり記録に残しました。
08時25分、武居家(左側)
023 旧家(武居家)
武居家から約210m歩くと左側に東屋のある公園があり、公園の道路沿いに芭蕉句碑が建っていました。
08時28分、芭蕉句碑(左側)
025 芭蕉句碑
公園の手前に左に入って行く細い道があり、この道を歩いて行くと中央本線の踏切のない線路に突き当り、「線路横断禁止」と記された看板が建てられていますが、住民はここを渡って神社や墓参りに行っているようです。
※踏切のない線路渡り
024 線路を渡って参拝
芭蕉句碑から約30m歩くと、左側にフェンスに囲まれて高札場跡・洗馬宿碑・中山道碑が建っていました。
08時29分、高札場跡・洗馬宿碑・中山道碑(左側)
026 高札場跡・洗馬宿碑・中山道碑
高札場は御判形(おはんぎょう)で、ここが洗馬宿の京口で、枡形だったようです。
高札場跡等から約60m歩くと、言成地蔵尊に行く分岐があり、街道を離れて地蔵尊に向かいました。
※分岐(言成地蔵尊)=左側
027 分岐(左側)
分岐から約70m歩くと右側に言成地蔵尊の入り口があり、境内を進み参拝しました。
08時34分、言成地蔵尊(右側)
028 言成地蔵入口     029 言成地蔵
地蔵尊は西の枡形あたりに安置されていましたが、余りにも落馬が多く、ある武士が怒って地蔵を斬ってしまいました。そのため、地蔵は移設され言成地蔵として地蔵堂に安置されたようです。
言成地蔵尊から旧街道に戻り、枡形道を下りながらJR中央本線のガードを潜ると、滝社の鳥居が左側に建っていました。
※JR中央本線ガードと滝社鳥居
030 桝形     031 瀧社の鳥居
滝社鳥居の前付近から約80m歩くと、左側に日本橋から60番目の牧野一里塚があり、斜面上の跡に石碑と解説標板が建っていました。
08時40分、60牧野一里塚跡(左側) 
032 60牧野一里塚跡     032-1 解説
牧野一里塚跡の先の街道奥の斜面に馬頭観音が祀られていると資料に記されていましたが、見落として記録に残せませんでした。
※紅葉
033 紅葉の山々
そして、牧野バス停、長瀬口バス停(一里塚跡から約300m)を過ぎ、遠くに紅葉した山を眺めながら歩いていると、右に曲がる舗装路とガードレールの間を抜ける砂利道の分岐(長瀬口バス停から約650m)があり、旧街道はガードレールの間を抜けて砂利道を進みます。
08時53分、分岐(直進)
 ※ガードレールの間                   ※交差点を直進

034 分岐(直進)     035 牧野交差点(直進)
分岐から約80m歩くとR19に合流し、牧野交差点を横断してさらに約180m歩くと左側に今井石材店があり作成された男女双体道祖神が展示されていました。
※男女双体道祖神(今井石材店)=左側
036 石材店の展示 (1)
今井石材店から約500m歩くとY字路分岐があり、右側のため池に沿って進みます。
09時01分、Y字路分岐(右側)
037 分岐(右側)
ため池に沿って約110m歩くと、ため池先の右側に、大正元年(1912)に建碑された瀦水墾田記念碑が建っていました。
09時03分、瀦水墾田記念碑(右側)
038 墾田記念碑
瀦水墾田記念碑から約20m歩くと、左側に本山宿碑が建っていました。
09時04分、本山宿碑(左側)
039 本山宿碑
本山宿碑から約10m先に、秋葉神社が祀られており、先隣りに石仏石造群が建っていました。
09時04分、秋葉神社・石仏石塔群(左折)
040 秋葉神社
秋葉神社から約400m歩くと本山宿の下木戸跡(付近)があり、現在はそば切りの発祥地の標板が建てられていました。
09時10分、本山宿・下木戸跡(付近)
041 下木戸跡付近     042 そば切り発祥の地碑
下木戸跡付近から約100m歩くと、左側に下社参道跡の標板が建っていました。
09時12分、下社参道跡(左側)
043 下社参道跡
下社参道跡の先隣りに連子格子の俵屋(小口家)があり、記録に残しました。
09時13分、連子格子の家・俵屋(左側)
044 俵屋(小口家)
俵屋から約200m歩くと左側の民家の家の前に下問屋跡の標板が建っていました。
09時20分、下問屋跡(左側)
046 下問屋跡
下問屋跡から約20m先の右側に、旧旅籠の川口屋、池田屋、若松屋の三軒が食い違う斜交屋敷形式になっており、国の登録有形文化財になっていました。
09時20分、旧旅籠・川口屋(右側)
045 川口屋
旧旅籠の川口屋の斜め向かいの左側の奥に小林本陣跡がありました。
09時20分、小林本陣跡・明治天皇行在所碑(左側)
047 小林本陣跡     
本陣の標柱は街道から奥まったところに建っており、屋敷の前に「明治天皇本山行在所碑」が建っていました。
※明治天皇行在所跡(左側)
048 明治天皇行在所跡
本陣跡から約20m先の左側に、本山宿碑が建っていました。
09時21分、本山宿碑(左側)
049 本山宿碑
宿碑から約30m歩くと宗賀分団第二部の建物があり、先隣りに花村屋脇本陣跡と上問屋跡があり、それぞれ標柱が建っていました。
09時23分、花村屋脇本陣跡・上問屋跡(左側)
050 脇本陣跡・上問屋跡
脇本陣跡から約120m歩くと、左側の民家の玄関前の植え込みに口留番所跡の標板が建っていました。
09時26分、口留番所跡(左側)
051 口留番所跡
本山宿は松本藩領で尾張藩領に接していたため、厳重な取り締まりが行われていたようです。
口留番所跡から約60m歩くと、左側に高札場跡標板・常夜燈・秋葉大権現石祠がまとまってありました。
09時29分、高札場跡標板・常夜燈・秋葉大権現石祠(左側)
052 高札場跡・常夜燈・秋葉大権現
高札場跡から約120m歩くと、左側の段の上に本山宿の看板が建っており、この辺りが本山宿の京(西)口です。
09時31分、本山宿京(西)口跡
053 本山宿碑(上木戸跡)
本山宿京口(分岐合流付近)から約290m歩くと、右側にオレンジ色のカーブミラーが建っている手前にガード柵の間から右側に細道の下り坂があり、旧街道はその細い道を進みます
※分岐(右折)
054 分岐(右側)
細道の下り坂を約130m下ると第2中山道踏切があり、踏切を渡って進みます。
09時36分、第2中山道踏切
055 第2中山道踏切
踏切を渡り約50m歩くとシンセイ(金型やプラスチック成形)があり、会社を通り過ぎる右側の空き地に「日出塩の青木」の案内看板が建っており、街道を離れて見に行きました。
シンセイの敷地に沿ってクランク形に進むと、突き当りに標板が建っていました。
09時38分、日出塩の青木(右側)
※道案内入り口                     ※日出塩の青木
056 日出塩の青木入口     057 日出塩の青木
日出塩の青木はある貴人の塚の上に大きな絵があり、「洗馬の肘松 日出塩の青木 お江戸の屏風の絵でござる」と詠われたそうです。
旧街道に戻り約240m歩くとR19に合流し、直ぐ(約15m)R19から斜め右に分岐して進みます。
※分岐(合流して直ぐ斜め右に分岐)
058 分岐
斜め右に分岐して約100m歩くと、再びR19に合流し、R19を歩きます。
R19に合流すると、道路向かい側(進行左側)に日本橋から61番目の一里塚跡があり、柵に囲まれた中に白い標柱が建っていました。
09時44分、61日出塩一里塚跡(左側)
059 61日出塩一里塚跡
一里塚跡から約140m歩くと、右側に曹洞宗の寺紋が武田菱の長泉寺がありました。
09時46分、長泉寺(左側)
060 長泉院
長泉寺から約90m歩くと、JR中央本線の日出塩駅があり、記録だけ残して先に進みました。
09時47分、日出塩駅入口(左側)
061 日出塩駅入口
日出塩駅入口(白矢印の先が駅)から約120m歩くと、左側の民家の植え込みのところに筆塚、道祖神、秋葉大権現の石塔が祀られていました。
09時49分、石塔群(左側)
062 石塔群
石塔群から約230m歩くとR19の高架があり、高架下を潜ります。
09時51分、高架下
063 R19高架
高架下を潜って約60m歩くと、斜め右側に入る細い道があり、細い道に入り、再びR19の高架下を潜って進みます。
※分岐(斜め右側)
064 分岐(右側)
細い道を約120m歩くと左側に中北道標(←是より南木曽路碑1.1km →JR日出塩駅0.6km)が建っており、道標の先でR19に合流します。
※10時01分、合流(R19)
065 合流(R19)
R19合流点から約750m歩くとJRのトンネル口があり、その先の左側にR19名古屋まで169kmの距離標が建っていました。
10時09分、169km距離標(左側)
066 169㎞距離標
距離標から約100m歩くと、右側に江戸初期中山道解説碑が建っており、解説碑の道路真向かいに江戸初期の古道中山道の入口(オレンジ色矢印)がありました。
10時11分、江戸初期中山道解説碑・古道中山道入口
※江戸初期中山道解説碑              ※古道中山道入口
068 江戸初期中山道解説     067 江戸初期の中山道
江戸初期中山道解説碑から約240m歩くと境川に架かる桜沢橋があり、桜川橋を渡ると右側に東屋があり、Mさんに声を掛け水分補給などの休憩を取りました。
10時16分~10時22分、東屋(右側)
※桜沢橋               ※境川の眺め           ※東屋
069 桜沢橋   070 奈良井川   071 桜沢橋・東屋
休憩で英気を養い次に向けて出発すると、東屋の建っている同じ敷地内に、「是より南木曽路」の石碑が建っていました。
10時23分、是より南木曽路碑(右側)
072 南木曽路碑
石碑(右側)からR19を横切って左側に移り、戻る感じで草の坂道を上ります。
※分岐(左に上る)
073 分岐(坂道)     075 旧街道
枯れ葉に覆われた山道は桜沢旧道で、村人が開削した道だったので、通行料を徴収する有料道路だったそうです。
坂道を上りながら右に曲がる辺りの左側の山沿いに、馬頭観音が祀られていました。
10時27分、馬頭観音(左側)
076 馬頭観音
馬頭観音を過ぎると右下にR19を見ながら歩き、
077 旧街道
坂を下ってR19に合流するのですが、合流手前の左側に石仏石塔群とその少し奥にトンネル跡がありました。
10時30分、石仏石塔群・トンネル跡
※石仏石塔群                       ※トンネル
078 石仏石塔群     079 旧鉄道トンネル跡
石仏石塔群の先の右側に道標と杖があり、R19に合流します。
R19に合流して約100m歩くと桜沢バス停があり、さらに約70m歩くと右側に桜沢茶屋本陣跡がありました。
10時33分、桜沢茶屋本陣跡(右側)
※本陣主屋跡(上段の間有り)           ※御膳水跡(主屋の前)
080 桜沢茶屋本陣跡     081 御膳水碑(旧家前)
※明治天皇御小休所跡
082 明治天皇小休所跡(蔵の前)
本陣跡から約50m歩くと、右側の道下に旧道の痕跡(オレンジ色矢印)が残っているというので、「この辺りかな」と想定して記録に残しました。
※旧道痕跡
083 旧道痕跡
桜沢茶屋本陣跡から約300m歩くと、旧片平橋に通じていた旧道跡(オレンジ色矢印)がありました。
10時40分、旧道跡(左側)
084 旧道痕跡(左側)
旧道跡から約20m歩くと、奈良井川に架かる片平橋があり、橋を渡って約70m進むと左側に駐車場を表す青の「P」標識、さらに標識から約20m先の右側にカーブミラー(Mさんの所)があり、その真向かい(左側)に斜め左側に下る道(白矢印)がありました。
10時42分、分岐(旧片平橋入口)=斜め左
086 旧片平橋入口(左側)
旧街道を外れ斜め左の道を下って行くと、土木遺産の旧片平橋があるので、見に行きました。
※旧片平橋             ※解説              ※旧片平橋橋脚
087 旧片平橋   087-1 解説  087-2 旧片平橋
旧片平橋を見学して再び旧街道に戻り、約350m歩くと右側に入る道があり、入口右側に中北道標(白丸)が建っていました。
10時50分、分岐(片平旧道)=右側
088 分岐(右側)
片平旧道は旧片平村の道路で、沿道には旧家が残っていました。
※旧片平村の旧家
090 旧片平村の旧家
旧街道になっている片平旧道は約110mでR19に合流するのですが、合流する手前左側に中北道標が建っていました。
※分岐・合流(R19)
091 中北道標
合流した斜め左前方に男女双体道祖神がありましたが、向きが逆だったため、記録に残しませんでした。
合流したR19を約300m歩くと、右側の擁壁の上に日本橋から62番目の一里塚跡があり、残されている西塚に白い標柱と解説標板が建てられていました。
10時58分、62若神子一里塚跡(右側)
092 62若神子一里塚跡    092-1 解説
若神子一里塚から約50m歩くと、斜め右に入れる分岐があり、分岐を右側に進みました。
※分岐(右側)
093 分岐(片平旧道)右折
分岐から約160m歩くと若神子バス停があり、後ろに津島牛頭天王が祀られている水場がありました。
11時01分、水場(右側)
094 水場
水場から約180m歩くと右の坂上に若神子村の鎮守である諏訪神社が祀られていましたが、先を急ぐため記録だけ残して歩を進めました。
11時05分、諏訪神社(右側)
095 諏訪神社
諏訪神社入口から約15m先の左側に、道祖神(天文3年=1534に建立)、廿三夜待供養塔(明和2年=1765建立)、馬頭観音などの石塔群がありました。
11時05分、石塔群(左側)
096 石塔群
石塔群から左に曲がりながら約60m歩くとY字路分岐となり、右側の上り坂を進みました。
※Y字路分岐(右の上り道)
097 分岐(Y字路)右側
Y字路分岐を右側に約70m歩くと、また二叉分岐となり、左側(道的には直進)に進みました。
11時08分、二叉分岐(左側)
098 分岐(直進)
二叉分岐を左側(真っ直ぐ)に約210m歩くと、右に曲がる角に枝垂れ桜があり記録に残しました。
※枝垂れ桜(左側)
099 枝垂れ桜
枝垂れ桜から約30m歩くと、Y字路の分岐点に中北道標が建っている分岐となり、道標を左に見ながら右の少し上る道を進みました。
11時11分、Y字路分岐(右側)
100 分岐(Y字路)右側
右側の道を約20m歩くと右に曲がった付近の大木の根元に、道祖神などの石仏石塔群がありました。
11時12分、石仏石塔群(右側)
101 石仏石塔群
草道を歩くと、左側がパイプフェンスになった道となり、左の眼下にJR中央本線、R19を眺めながら歩きました。
※旧街道草道
102 旧道
草道を歩いていると、右に進む草道(古道)と直進して舗装路(左側に白いパイプガード)に進む分岐があり、右側の古道(オレンジ色矢印)に進みました。
※分岐(右側の古道)
103 分岐(Y字路)右側
道は踏み固められており、迷うことなく歩くことが出来、舗装路に合流しました。
※合流
104 合流
舗装路に合流し、道なりに歩くとY字路分岐となり左側に進み、約120m歩くとR19に合流しました。
11時25分、Y字路分岐(左側)
105 分岐(Y字路)左折
R19合流点から約150m歩くと、左側に当初の到着予定地だったJR中央本線・贄川駅がありました。
11時28分、JR中央本線・贄川駅(左側)
106 贄川駅
駅舎の隣りに蕎麦・関所亭があり開店しているので、Mさんに「食べて行きましょう」と声を掛け中に入りました。
11時29分~11時55分、昼食
〔蕎麦・関所亭〕
107 関所亭(昼食)
店内に入るとお客は1組だけで、空いている席に座りもり蕎麦(600円)を注文しました。
107-1 もりそば
入店客が少なかったので10分も待たないで配膳され、Mさんも私も瞬く間に食べてしまい、精算して外に出ました。
〔贄川駅待合室〕
お腹はまだゆとりがあり、贄川駅の待合室に移動し、持参しているおにぎりを食べることにしました。
駅舎の待合室は1時間30分後でないと電車が来ないので、待合客は一人もおらずMさんと二人で使わせてもらい、昼食用に持参(今朝、セブンイレブンで購入)したおにぎりを食べお腹を膨らませました。
107-2 昼食(贄川駅構内)
昼食を食べ、延長した旅(この時点では木曽平沢駅)に出発しました。
贄川駅舎を出て街道に戻り約110m歩くと、贄川歩道橋を過ぎた左側にR19名古屋まで165kmの距離標が建っていました。
11時57分、165km距離標(左側)
108 165㎞距離標
距離標から約200m歩くと、JR中央本線に架かる関所橋(メロディー橋)があり、橋を渡って左折した処に贄川関所跡があり立ち寄りました。
12時00分、関所橋(メロディー橋)
109 関所橋(メロディー橋)
関所橋は、欄干に吊るされた金属パイプを連続して叩くと「木曽節」の一節を奏でるところから、別名「メロディー橋」と呼ばれています。
12時02分、贄川関所跡(左側)
※関所入口
             ※解説               ※関所碑
111 贄川関所跡   111-1 解説DSC05776   111-2 関所跡碑
贄川関所は尾張藩領で、本山宿の松本藩との領界にあたるため、北口に福島関所の副関所として置かれ、「入り鉄砲に出女」や「木曽五木」の搬出を厳しく取り締り、尾張藩の北番所としも呼ばれていました。
施設の見学は時間の関係から入口だけ見て失礼させて頂こうとしていたら、受付の方が観光協会が発行している「信州木曽路 中山道を歩く」史跡マップを下さいました。
これから南木曽を歩くので、とても良いマップを頂き、受付の方にお礼を云って、関所を出て街道に戻りました。
※分岐合流(贄川関所)
112 分岐(贄川関所)左側
街道に合流して約140m歩くと、左側に郵便局があり、丸型のポストが現役で頑張っていました。
また、この付近が本陣跡で、木曽家の子孫である千村家が務め、問屋、庄屋を兼ねていたようです。
(郵便局の前あたりが千村本陣跡とのことでしたが、記録を忘れました)
12時06分、丸型郵便ポスト(左側)
113 丸型ポスト
郵便局から約40m歩くと、右側に津島・秋葉神社が祀られていました。
12時08分、津島・秋葉神社(右側)
114 津島・秋葉神社
小さい神社の祠から約50m歩くと、右側に元酒店(廃業したようです)があり贄川家が務めた脇本陣跡のようです。
12時09分、脇本陣跡(右側)
115 脇本陣跡(酒店)
脇本陣跡(元酒店)から約110m歩くと、右側に秋葉神社が祀られていました。
12時12分、秋葉神社(右側)
116 秋葉・津島神社
神社の斜め向かいに贄川上町バス停があり、先隣りに国重要文化財に指定されている深澤家住宅がありました。
12時12分、深沢家住宅(右側)
117 深沢家住宅
深澤家は屋号を加納屋と称し苗字帯刀が許された贄川宿屈指の商人です。主屋は嘉永7年(1854)築、北蔵は文政4年(1821)築、南蔵は文久2年(1862)築で、江戸時代末期の木曽地方における宿場の町屋建築の到達点を示す建物といわれている。
深澤家住宅から約60m歩くと、右側にひのきや漆器店があり、店の先を右折しました。
※分岐(ひのきや漆器店先)=右折
118 分岐(ひのきや漆器店先)右折     
枡形状に進み、跨線橋でJR中央本線を越え、R19に合流しました。
※跨線橋の入口
119 分岐(跨線橋)右折
合流したところから約150m歩くと、右側に推定樹齢千年、樹高33m、根元周囲17.6mで長野県天然記念物に指定されている贄川のトチの木が植生されていました。
12時17分、贄川のトチの木(右側)
※入口(白矢印)                    ※トチの木
120-1 贄川のトチ入口     120 贄川のトチ
トチの木から約160m歩くと右側に食堂SSがあり、食堂SSを過ぎた処に地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音などの石仏石塔群が並び、奥に枝垂れ桜が植生されているところがあり、資料にはここが桜宮跡と記されていました。
12時22分、桜宮跡(右側)
121 桜宮跡(石塔群と枝垂れ桜)
桜宮跡から約300m歩くと左側に中村漆器産業があり、R19から分岐して民芸館前を通りグレーチング(金網)の仮設歩道に進み、突き当りの仮設階段を上りました。
※分岐(中村漆器産業前)=左側
122 分岐(中村漆器産業)左側  123 分岐(左折階段)
仮設階段を上り土道の旧道を歩くと、途中から舗道に変わりました。
※土道⇒舗道
124 分岐(直進)
舗道を約50m歩くと右側に中山道石碑が建っていました。
12時30分、中山道石碑(右側)
125 中山道碑
中山道石碑から少し歩くと、押込沢があり、奈良井川に繋がつていました。
12時31分、押込沢
126 押込沢
押込沢を渡ると右側に津島神社が祀られていました。
12時31分、津島神社(右側)
127 津島神社
津島神社から少し歩くと、右側に石仏石塔群がありました。
12時32分、石仏石塔群(右側)
128 石塔群
石仏石塔群から約150m歩くと、右側に日本橋から63番目の一里塚があり、跡に石碑と解説標板が建っていました。
12時34分、押込一里塚跡(右側)
129 63押込一里塚跡
一里塚から約20m歩くと十字路があり、右折して約30m進みR19の桃岡交差点を左折して進みました。
※分岐(右折⇒左折)
130 分岐(クランク形)
交差点を左折すると直ぐに桃岡橋となり、奈良井川と綺麗な紅葉を記録に残しました。
※桃岡橋からの眺め
131 桃岡橋から奈良井川の眺め
桃岡橋を渡り、約50m歩くとJR中央本線のガードがあり、ガード下にR19名古屋まで163kmの距離標が建っていました。
12時36分、163km距離標(左側)
132 ガードを潜る
距離標から約280m歩くと斜め左に入る分岐があり、分岐点(白丸)に中北道標、中山道道標が建っていました。
12時39分、分岐(左折)
133 分岐(左側)     133-1 中山道道標
分岐を斜め左に入り約700m歩くと再びR19に合流し、さらに約550m歩くと平沢北交差点となり右折しました。
12時54分、分岐(平沢北交差点)=右折
135 分岐(平沢北交差点)
右折して約120m歩くと左側に道の駅木曽ならかわがあり、休憩を兼ねて立ち寄りました。
12時56分~13時14分、休憩(道の駅木曽ならかわ)
136 道の駅木曽ならかわ
建物内の店舗を眺めながら歩き、陽当たりの良いベンチにザックを下ろし体を休めました。
【行程の再変更】
ここでMさんと今日の行程について話し合い、「目的地まで約3.5kmと近く、明日の行程を考えると宿泊するところまで行った方が良い」ということになり、今日宿泊する奈良井宿の民宿かとうまで歩くことになりました。
休憩を終え、今日の行程が確定したことで気を引き締め出発しました。
道の駅ならかわを出発し、約300m歩くと下りの坂道(物見坂)となり漆器の平沢の街に入って行きました。
※物見坂
137 物見坂
物見坂を下って行くと、左側の贄川支所に入る右側に御塗処の看板が掛かっている吉久屋があり、記録に残しました。
13時22分、御塗処・吉久屋(右側)
138 吉久屋
街道は吉久屋の真向かいにある贄川支所に入ります。
※分岐(塩尻市贄川支所)=左折
139 分岐(楢川支所)左折
支所の敷地に入ると右側に芭蕉句碑、その先隣りに平沢宿絵図が建てられていました。
13時23分、芭蕉句碑・平沢宿絵(右側)
※芭蕉句碑                       ※平沢宿絵図
141 芭蕉句碑     140 平沢宿案内板
平沢宿絵図の先にある支所建物の右側に中北道標が建っており、道標を左に見ながら右側に進みました。
※分岐(右側)
142 分岐(右折)
道は左に曲がりながら坂を上り、その途中の左側に中山道石垣があり、石垣の前に史跡標柱が建っていました。
13時25分、中山道石垣(左側)
143 中山道石垣
石垣に沿って歩くと左側に諏訪神社の本殿が祀られており、街道は本殿に沿って右側を進みます。
13時27分、諏訪神社(左側)            ※本殿脇を通る
144 諏訪神社    145 分岐(神社右側)
神社の本殿は大宝2年(702)に創建されましたが、天正10年(1582)に鳥居峠で木曽義昌に敗れた武田勝頼が敗走の途次、社殿に火を掛けたため全焼してしまい、朱塗りの本殿が亨保17年(1732)に再建されました。
本殿脇を右側に坂を下ると、県道257号に合流する左側に中北道標(木曽平沢駅0.5km・奈良井駅2.5km)が建っていました。
※分岐(合流左折)
  (下り坂)                        (中北道標)
146 合流(左折)     147 道標
合流から約80m歩くと、左側の段の上に石仏石塔群がありました。
13時30分、石仏石塔群(左側)
148 石仏石塔群
この先辺りから漆器店が軒を連ねる街並みになるのですが、平沢地区は万延2年(1861)の大火後、防火対策として奥行きの深い町割りとし、隣家との間に余地を残し、塗蔵への通路にしたようで、現在の漆器店が軒を連ねる町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」になっています。
※町並み保存の家・まるやま
149 街並み保存の家(まるやま)
※漆器店通り
150 漆器店通り
漆器店通りを歩くと左側に入る道があり、道の手前角に荻村漆工、道の先隣り角に松野屋があり、道を左側に入る(白矢印)と木曽平沢駅で、この分岐(赤線)が最初に変更した今日の到着地点でした。
13時37分、分岐(木曽平沢駅入口)
151 木曽平沢駅入口
木曽平沢駅入口から約90m歩くと、右側に国登録有形文化財に指定されている漆工房巣山があり立ち寄りました。
13時40分、漆工房巣山(右側)
※文化財指定の建物                 ※漆器
152 巣山漆器店     152-2 店内
店の扉を開けて中に入ると漆器が並べられているだけで、店の人は居ません。
通路を進み、さらに奥の扉を開けると住居の家がありましたが、人の気配がしないので店を出て先に進みました。
漆工巣山を出て約90m歩くと、右側に津島神社が祀られていました。
13時43分、津島神社(右側)
153 津島神社
神社から約20m進むと斜めに横切る道がある十字路となり、右手前角に中北道標が建っていました。
※中北道標(右側)
154 中北道標
街道は十字路を斜め左側の上り坂に進みます。
※分岐(左側)
155 分岐(左側)
斜め左側の坂道を上り約80m歩くと、正面が墓地の十字路となり、右折して約10mで県道に合流しました。
13時45分、分岐(墓地前十字路)=右折
156 分岐(右折して県道に合流)
県道合流から約140m歩くと右側に笹良漆器店があり、漆器店先のところのY字路分岐を斜め右側の細い下り坂(信濃路自然歩道)を進みました。
13時47分、分岐(右側)
157 分岐(右側)
右側の細い下り坂に入り約90m歩くとJR中央本線のガードがあり、ガードを潜り奈良井川に沿って土手道をさらに約250m歩くと、奈良井川を渡る歩道橋がありました。
※奈良井川歩道橋
159 分岐(歩道橋)右折
資料に歩道橋を渡った奈良井川の対岸に一里塚跡があるというので、見に立ち寄りました。
歩道橋を渡るとマレットゴルフ場の橋戸一里塚パークがあり、ゴルフ場の先の右側に、日本橋から64番目の一里塚跡があり、跡地に石碑と解説パネルが建っていました。
13時53分、64橋戸一里塚跡(右側)
161 64橋戸一里塚跡
一里塚跡を後にして街道に戻り約450m歩くと右折して奈良井川を渡る道、直ぐにR19に合流する道、直進してR19に合流する分岐となり、真っ直ぐ進みました。
※分岐(直進)
161 合流(国道に合流し奈良井橋渡)
分岐を直進して約100m歩くとR19に合流し、合流した処を右折して奈良井橋を渡りました。
14時02分、分岐(右折)
※右折して奈良井橋を渡る         ※奈良井橋手前の左角に自然石道標
162 分岐(右折) 162-1 自然石道標
奈良井橋を渡るとY字路となり、左側を曲がりながら進みました。
※Y字路分岐(左側)
163 分岐(左折)
Y字路分岐の分岐点に馬頭観音が祀られていました。
14時04分、馬頭観音(右側)
164 馬頭観音
馬頭観音から約220m歩くとJR中央本線奈良井道踏切があり、木曽平沢駅で乗車しようとしていた電車が走ってくるので、暫く(約2分)立ち止まり待っていました。
14時08分、JR中央本線奈良井道踏切
165-1 奈良井道踏切
電車を見送り、斜め左前方を見ると、奈良井駅が見えてきました。
見送った電車が停まっている奈良井駅を眺めながら約450m歩き、奈良井駅に到着しました。
14時16分、奈良井駅(左側)
168 奈良井駅
奈良井駅は電車で来た観光客で賑わっており、私とMさんは駅舎をバックに記念写真を撮ったりしてから先に進みました。
駅を出て約30m歩くと、左側に木曽五木が生育されていました。
※木曽五木(左側)
175 木曽の五木
向かって左(赤いパイロン側)から、
・ヒノキ
・サワラ
・ネズコ
・あすなろ
・こうやまき
です。
木曽五木から約40m進むと、左側に奈良井宿碑が建っていました。
14時19分、奈良井宿碑(左側)
170 奈良井宿碑
奈良井宿碑の先に戻るような形で江戸初期の中山道が残されており、二百地蔵があるというので、右折して坂道を上り向かいました。
右折分岐から約90m坂道を上ると、左側に八幡宮へ上る道があり、右折して進みました。
約20m歩くと八幡宮に行く参道の階段があり、私達は階段手前を右折して杉並木に入りました。
※八幡宮(参道階段)=直進
172 八幡宮参道
※杉並木=右折
173 杉並木
右折して杉並木に入り約70m歩くと、左側に二百地蔵が祀られていました。
14時24分、二百地蔵(左側)
174 二百地蔵 174-1 二百地蔵
二百地蔵から街道に戻り、往時の面影を残す家並みを眺めながら約210m歩くと、左側に当初泊まる予定になっていた「民宿しまだ」があり、外国人の男女が入って行きました。
※往時の面影を残す家並み            ※民宿しまだ 
176 奈良井宿の街並み     179 民宿しまだ
民宿しまだがうるさいと云っていたのは、外国人のことかなとMさんと話しながら家の前を通り過ぎると、右側に下城水場がありました。
※下城水場(右側)
180 下町水場
水場の斜め向かい側に松屋茶房があり、ここが櫛問屋跡で、建物は往時のものだそうです。
13時37分、櫛問屋跡(現松屋茶房)=左側
181 松屋茶房
櫛問屋跡の松屋茶房から数軒先(約40m)の左側に、今日泊まる民宿かとうがあり、今日の長い旅を終えました。
本来はここで到着地を記した看板を掲げて到着式を行うのですが、今日は到着地が2回変更になり、到着地を記す用紙がないため、看板なしで到着式を行いました。
14時40分、民宿かとう(到着地)
183 民宿かとう(到着地)     182-1 民宿かとう
【宿泊】
宿舎に到着しゆっくりと風呂に入ってのんびりしたいと思い、玄関からチャイムを鳴らしても反応がなく、「時間が早く15時頃でないとダメかも」と話し、明日の朝見る史跡などを先に見学することにしました。
民宿かとうから先にある史跡は、第17回旅で掲載致します。
15時少し前に戻りチャイムで来訪を知らせると、親父さんが出て来て部屋に案内してくれました。
部屋は2階の街道に面していない部屋で、残念でした。
《入浴》
風呂は今、給湯しているので、少し待っていて下さいと云われ、着替えるなどして20分程待ち、Mさんに「戻って来なかったら入浴したと思って」と云って浴室に行きました。
浴室は京都の町屋建築のように、階段を降りて1階に行き、1階から中2階に行く感じで階段を上り、少し歩いた先にありました。
浴室は1人がやっとという広さで、浴槽は給湯が終わったばかりということなので、熱いかと思ったら逆で、湯を入れて熱くしないと入っていられない状態でした。
今日の汗を洗い流し、浴槽で温まっているとMさんが来られ、入れ替わりました。
部屋に戻り、明日の支度を整えながらザックを整理し、夕食の時間を待ちました。
《夕食》
夕食は18時過ぎを考えていたのですが、宿の方針で17時ということで、食事をする場所に移動しました。
食事する場所は浴室よりさらに奥で、長い廊下の突き当りにあり、初めての人はあまりにも奥なので、「ここで良いのか」と不安になります。
食事場所に行くと、女性3人組、夫婦、一人街道旅の人の4組8人が、今日の泊り客のようです。
皆さん口々に「17時からの夕食は早いよね」と漏らしておりました。
テーブルに配膳された夕食は、中軽井沢の宿に匹敵する内容で、満足できる内容でした。
 ※夕食
190 夕食
瓶ビールを注文し、喉を潤しながら食べると、今日はビールが1本では物足りなく、Mさんに断って2本目を注文し、のんびりと時間を掛けて食べました。
《散策》
夕食を終え、部屋に戻って浴衣から洋服に着替え、ライトアップされている木製橋の木曽大橋を見に出かけました。
防寒対策を施して外に出ると、他の宿は夕食真っ盛りの頃で、街道には誰も出ていません。
 ※夜の町並み
191 夜の街並み
民宿を出て、右隣りの土産・花筏と松屋茶房の間の細い道を通り、地元の人しか通らないという線路渡りの道を通り、ふれあい公園に沿って流れる奈良井川に架けられた木曽大橋を見に行きました。
 ※ライトアップされた木曽大橋
193-2 木曽大橋③
木曽大橋は上・下流の両側からライトアップされており、とても幻想的で綺麗で、全体の写真を撮った後、木の温もりを感じる橋を渡り、思い出を作りました。
木曽大橋をの思い出を作った後、来た道を通って宿に戻り、明日の支度を整え早い時間に就寝しました。
部屋の間仕切りが薄く、隣りの部屋の話し声が丸聞こえで、とても会話を楽しむ雰囲気にはならず、これでは周りを気にしない外人と一緒では寝てられないと思うとともに、配慮してくれた民宿しまだに感謝しました。
【次回の予告】
次回の第17回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=11月13日(月)
行 程=民宿かとう前 ~ 藪川駅入口分岐
歩程距離=約6.96㎞
です。
宿泊した民宿かとうから奈良井宿を通り、鳥居峠を越えて藪川駅まで歩き、電車を乗り継いで自宅に帰ります。
鳥居峠越えが順調に歩ければ、かなり早い時間に帰ることが出来ます。

街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 晴れ 
【宿場】 (29)下諏訪宿 ⇒ (30)塩尻宿 ⇒ (31)洗馬宿
【行程】 歩行距離=13.43㎞ 総距離=237.74㎞
下諏訪宿・下諏訪駅前交差点 ⇒ (2.71㎞) ⇒ 056東堀一里塚跡 ⇒ (2.42㎞) ⇒ 石舟観音入口 ⇒ (1.75㎞) ⇒057東山一里塚跡 ⇒ (2.42㎞) ⇒ 塩尻町交差点 ⇒ (2.0㎞) ⇒ 塩尻町交差点 ⇒ (2.13㎞) ⇒ 洗馬宿・ガード手前分岐
【ルート図】
 ↓
宿場(桃色=第15回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
000 第15回宿場図
 ↓第15回旅のルート
000-1 第15回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
碓氷峠と和田峠の2つの大きな峠を越え、今回の旅から信越本線沿いの旅から中央線沿線の旅となり、今日は前回旅(H29.10.16)の到着点である「29下諏訪宿・下諏訪駅前交差点」から「31洗馬宿・ガード手前分岐」までの約13.43㎞を歩きます。
下諏訪町は甲州道中の到達地であるとともに、Yumiさんの母親の生誕地でYumiさんともども沢山の思い出が残っている町です。
下諏訪を散策する訳ではありませんが、新たなる旅の出発には最高の場所になりました。
前回の旅から約1ケ月。
この間に、
・写真の整理(約700枚)
・旅ブログの作成
・今回の旅資料の作成
と、時間がもっとほしいと思いながらの忙しい日々を過ごし今日を迎えました。
《移動》
いつもより早く起床し、旅の支度を整え、旅の時の定番の焼き餅(きな粉)で朝食を済ませ、相方のMさんと待合せている場所で合流し、出発地の下諏訪駅に向かいました。
車窓から紅葉した山々を眺め、秋の深まりを感じながら体を休めていました。
09時24分、下諏訪駅着
002 下諏訪駅
下諏訪駅を出てトイレに立ち寄り、駅から約240m離れた出発地の下諏訪駅前交差点に向かいました。
小淵沢駅付近を通過する時は強い雨が降っていましたが、下諏訪駅を降りたつ時は雨は止んでおり、傘を使うことなく出発地に立つことができ、恒例の出発式を行い旅に出立しました。
【=旅=】
09時37分、下諏訪宿・下諏訪駅前交差点(出発地)
003 下諏訪駅前交差点(出発地)
気を引き締めて今日の到着地を目指す第一歩を踏み出しました。
出発地から約140m歩くとY字路分岐となり、左側の道に入ります。
※Y字路分岐(左側)
004 Y字路分岐(左)
Y字路分岐から約50m歩くと左側に魁塚があり、石段の上に石柱で囲まれた中に石碑が建っていました。
09時42分、魁塚(左側)
005 魁塚   005-1 魁塚碑
魁塚は(さきがけづか)は、相楽総三(さがらそうぞう)(本名 小島将(まさ)満(みち)1839~1868)始め8人の赤報隊(相楽率いる一番隊の呼称)幹部が冤罪(えんざい)により、慶応4年(1868)3月3日斬首(ざんしゅ)の刑に処せられた地に、かつての同志であった人達や有志により明治3年 (1870)建立された塚です。
魁塚で衣服調整(アウタージャケットを脱ぐ)と水分補給を行い、約160m歩くと県道185号に突き当り、県道を街道から右側に約20m進むと一の宮常夜燈が建っていました。
09時45分、一の宮常夜燈(右側)
006 一之宮常夜燈
常夜燈から街道に戻り約180m歩くと右側に松沢畳店があり、その先の変則十字路の右角に、4本の柱で囲まれた道祖神が祀られていました。
09時48分、道祖神(右側)
007 道祖神
道祖神から約110m歩くとT字路に突き当り、道路を渡った処の右側の生垣にカーブミラーと左側の低い白壁塀の間に1人がやっと歩ける細い道があり、①中山道道標が建っているところを進みます。
②細い道を進むと砥川の土手に突き当り、土手を右折します。
①家の間の細い道                ②土手T字路(右折)
008 分岐(古道)   009 分岐・右折
③土手道を約70m歩くと、R20号に合流し、左折して富士見橋をわたり、④石神ホンダの手前を左折します。
③合流(左折)                   ④分岐(左折)
010 分岐(富士見橋)左折   011 分岐(石神ホンダ)左折
⑤石神ホンダに沿って右折する
⑤分岐(右折)
012 分岐(石神ホンダ裏)右折
石神ホンダの裏を右折して約280m歩くと十四瀬川に架かる木橋があり、木橋を渡って進みます。
※木橋(直進)
014 分岐(木橋)渡る
木橋を渡って約600m歩くと、左側に旧渡辺家住宅の案内標柱が建っており、街道から外れて見学に行きました。
10時06分、分岐(旧渡辺家住宅)
015 分岐(旧渡辺家住宅)左折
分岐から約50m進むと、右側に旧渡辺家住宅が保存されていました。
10時08分、旧渡辺家住宅(右側)
016 旧渡辺家住宅
旧渡辺家住宅は、高島藩の散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅跡で、村の治安や警備を担っていたようです。
街道に戻り、約220m歩くと県道14号の長地中町交差点があり、交差点を渡った左側に寛政3(1791)年に建立された道標が建っていました。
10時11分、道標(左側)
017 寛政道標
道標は、寛政3年に建立され「右中山道、左いなみち」と刻まれており、飯田を経て松本に至る道で、百万遍供養塔を兼ねている。
道標から約260m歩くと、「雀おどり」の棟飾りを上げた本棟作りの旧家がありました。
雀おどりの棟飾りの旧家は塩尻宿にまたがっているため、バラバラに掲載するよりまとめて掲載が分かり易いと判断し、一括して掲載しました。
10時16分、本棟作り(棟飾りの雀おどり)
018 本棟造り住宅
①雀おどり(下諏訪宿)             ②雀おどり(下諏訪宿)
019 雀おどり①   019-1 雀おどり②
長野自動車道柿沢橋歩道橋の先
③雀おどり(塩尻宿)               ④雀おどり(塩尻宿)
055 雀おどり③   071 雀踊り
⑤雀おどり(塩尻宿)               ⑥雀おどり(塩尻宿)
073 雀踊り   076 雀おどり 
雀おどりの棟飾りの付いた本棟作りの家から約290m歩くとR20の出早口交差点があり、交差点を斜め真っ直ぐに渡ります。
※分岐(出早口交差点)=斜め真っ直ぐ
020 分岐(出早口)斜め直進
交差点を渡って約70m進むと右側に駐車場があり、鉄塔前付近の笹竹に囲まれて日本橋から56番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
10時22分、56東堀一里塚跡(右側)
021 56東堀一里塚跡
一里塚から約550m歩くと右側に常夜燈と道祖神が建っていました。
10時31分、常夜燈・道祖神(右側)
022 常夜燈と道祖神
常夜燈から道路を横切るなど約20m進むと、右側に馬頭観音が祀られていました。
※馬頭観音(右側)
023 馬頭観音
馬頭観音から横河川に架かる大橋を渡るなど約140m歩くと、左側に石塔群が建っていました。
10時34分、石塔群(左側)
025 石塔群
石塔群から約500m歩くと右側に岡谷市消防団第一分団の火の見やぐらがあり、その足元に男女双体道祖神が祀られていました。
10時41分、男女双体道祖神(右側)
027 夫婦道祖神
道祖神の先を右折して街道を離れて約120m入ると、金網フェンスに囲まれた奥に今井観音堂があり、お賽銭をご奉納して参拝し、Yumiさんの病気完治と旅の御加護をご祈願しました。
10時45分、今井観音堂(右側)
028-1 今井観音堂・枝垂れ桜
今井観音堂から街道に戻り約160m歩くと、左側に明治13年(1880)に明治天皇が山梨、三重、京都方面を巡幸した時に飲まれたご膳水の跡に碑が立っていました。
10時48分、明治天皇今井御膳水碑(左側)
029 明治天皇今井御膳水碑
御膳水碑の先隣りに石柱が建っていました。
※石柱(左側)
030 石柱門
御膳水碑から約25m(石柱の処)先の左側に、今井番所跡碑が建っていました。
10時49分、今井番所跡碑(左側)
031 今井番所跡
番所は高島藩が設けた口留番所で、ここを通過するには高島藩の通行手形が必要だったそうです。
番所跡の斜め先向いに、今井茶屋本陣跡があり、子孫が現在も住んでいました。
10時50分、今井茶屋本陣跡(右側)
032 今井本陣跡・明治天皇御小休所跡    032-1 本陣・今井家
西に塩尻峠を控え4軒の茶屋があり四ツ家立場と呼ばれ、今井氏が茶屋本陣を勤めました。皇女和宮が休息し、門脇には「明治天皇今井御休所跡」が建っており、主屋など11棟が国登録有形文化財になっている。
10時48分~10時53分、休憩
今井茶屋本陣前で休憩を取り持参したアンパンを食べていると、山の会で街道旅をしている一団が来られそのまま通り過ぎようとしたので、「本陣を見ていかないのですか?」と声を掛けると、リーダーが立ち止まり「ここで休憩します」と号令を掛け休憩になりました。
男性3人、女性10人くらいの団体で、私達と同じように下諏訪駅から出発して旧中山道を歩いているようです。
今井茶屋本陣跡から約60m歩くと、右側に中山道碑が建っていました。
10時56分、中山道碑(右側)
033 中山道碑
中山道碑から約220m歩くと、右側に不動尊碑が建立されていました。
11時00分、不動尊碑(右側)
034 不動尊碑
〔分岐を間違える〕
街道は不動尊碑から約140m歩くと右に曲がりながら進み、新開跨道橋を渡って突き当りを左折するのですが、道を間違えて新開跨道橋の手前の中堤歩道橋①を降りてしまい、その先の中堤歩道橋②を上ってR20バイパスを横切りました。
※中堤歩道橋①(白矢印)に左折        ※中堤歩道橋②を上って渡る
035 中堤歩道橋①    036 中堤歩道橋②
街道に合流し、右側に建っている「旧中山道、石舟観音」道標に沿って右折します。
11時05分、分岐(石舟観音道標)=右折
037 分岐(中堤歩道橋脇)右折
分岐から約300m坂を上ると、眼下に諏訪湖を眺めることができ記録に残しました。
※諏訪湖の眺望
038 諏訪湖の眺め
さらに約50m歩くと、右側に石舟観音があり立ち寄りました。
石段を上ると門の頭上に馬頭観音と記された額が掲げられており、さらに階段を上った処に社が祀られていました。
11時11分、石舟観音               ※社
039 石舟観音入口    039-1 石舟観音
石舟観音は本尊の馬頭観音が船状の台上に安置されている所から名付けられており、足腰の弱い人にご利益があるといわれている。境内の鳴沢清水は参拝者の咽喉を潤してきたそうです。
先ほどの一団より先に今井茶屋本陣を出発したのですが、石舟観音に立ち寄っている間に先に進みました。
※塩尻峠の上り道を歩く団体
040 街道歩き
石舟観音から約230m歩くと、左側に塩尻峠の大岩がありました。
11時18分、塩尻峠の大岩(左側)
041 塩尻峠の大岩
大岩から約750mで標高約110m上るきつい林道上り坂で、ハーハー息を切らしながら歩いて塩尻峠に着きました。
先ほどの一団とは塩尻峠の途中まで相前後して歩きましたが、一団が休憩に入ってから会うことはありませんでした。
峠に着くと右側に明治天皇が野立した塩尻峠御野立公園があり、Mさんは公園内の展望台(3階建て)で諏訪湖を眺める云って見に行き、私は水分補給したりして息を整えていました。
11時33分、塩尻峠(直進)
042 塩尻峠
※明治天皇野立跡碑                ※富士浅間社の石祠
043 塩尻峠明治天皇野立跡    044 富士浅間社
峠から今度は一転して下り坂となり、約180m下ると右側の階段の上に天保15年(1844)に建立された中馬に使用した馬の供養塔が建っていました。
11時41分、馬頭観音(右側)
045 馬頭観音
馬頭観音の斜め向かい側に上条茶屋本陣がありました。
11時40分、上条茶屋本陣跡(左側)
046 茶屋本陣跡
本陣は寛政8年(1796)に建築された本棟作りで、門、玄関、上段の間が残され、皇女和宮もここで休息したそうです。
門が開いていたら見学したかったのですが、閉ざされていたので記録だけ残して先に進みました。
本陣跡の真向いに明治天皇がお飲みになった御膳水の跡があり碑が建っていました。
11時41分、明治天皇塩尻嶺御膳水碑(右側)
047 明治天皇塩尻嶺御膳水碑
碑の奥に井戸の形態が残されていました。
本陣跡から約260m歩くと、右側に享保元年(1716)に建立された親子地蔵が祀られていました。
11時45分、親子地蔵(右側)
048 親子地蔵
親子地蔵は天明の大飢饉で行き倒れになった旅の親子を供養して造立された。
親子地蔵から約300m歩くと、左側に日本橋から57番目の一里塚あり、南塚が残されていました。
11時47分、57東山一里塚跡(左側)
049-1 57東山一里塚(南塚)    049-2 解説
元和2年(1616)に塩尻峠が開通し、中山道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更された時に築造されたものだそうです。
一里塚跡から約50m歩くと、中山道道標が建っていました。
11時48分、中山道道標(左側)
050 中山道標識
中山道道標から約230m歩くとY字路となり、左側に進みます。
※Y字路分岐(左側)
051 分岐(Y字路)左
Y字路から約270m歩くと左側に中山道道標、右側にカーブミラーのある分岐があり、右側を進みます。
※分岐(右側)
052 分岐(Y字路)右
分岐の左角に石仏石塔群がありました。
11時56分、石仏石塔群(左側)
053 石仏石塔群
分岐の石仏石塔群から約350m歩くと、正面にR20を跨ぐ塩尻東山歩道橋、左側に中山道道標が建つ分岐となり、右折して進みます。
12時04分、分岐(右折)
056 分岐(塩尻東山歩道橋)右
分岐から約60m歩くと梯子段の釣り鐘があり、記録に残しました。
12時05分、梯子段の釣り鐘(右側)
057 梯子段半鐘
梯子段の釣り鐘から約50m歩くと、犬飼の清水跡があると資料に記されていたのですが、標識なく、清水跡も明確に分からず、Mさんと二人で付近をさがしましたが見付からず、石が集まっていた処を記録に残し先に進みました。
※犬飼の清水跡付近?(右側)
058 犬飼の清水跡
犬飼の清水跡付近から約20m進むとR20に合流し、R20を右に約140m歩くとY字路分岐となり、旧街道は右側に進みます。
12時11分、Y字路分岐(右側=黄矢印)
059 分岐(斜め右)
11時頃から昼食の店を探しながら歩いていると、Y字路分岐を左側(白矢印)に少し進むと食べられる店があり、街道を離れて食べに寄りました。
12時14分~12時32分、昼食(焼肉・東山食堂)
060 昼食(焼肉・東山食堂)
店に入り、案内された席に座ってメニューを見ると、焼肉しかありません。
M=焼肉以外に食べるものはありませんか
店=焼肉店なので、ラーメン以外はありません
Mさんと相談し、ラーメンを食べることにして、ラーメンを注文しました。
配膳までの時間は「え、もう出来たの?」という速さで、ラーメンはお世辞にも美味しいとは云えず、お腹を満たしただけで20分弱で店を後にし、旧街道に戻りました。
分岐から旧街道を約400m歩くと斜面の上に、牛馬守護神碑が建っていました。
12時39分、牛馬守護神碑(右側)
061 牛馬守護神
牛馬守護神碑から約30m先あたりが新茶屋立場跡のようですが、場所は標識や遺構がないので分かりません。
※新茶屋立場跡付近
062 新茶屋立場跡付近
新茶屋立場跡付近の下り坂は永井坂だそうです。
※永井坂
063 永井坂
永井坂を下って行くとR20に突き当たるのですが、歩道はR20から折り返す形で階段を下り、地下道を潜って横断します。
私とMさんは地下道を潜るのが面倒で、R20を横切りました。
※R20横断地下道
064 横断地下道
地下道を潜って外に出ると、右側の土手に伐採されたヒノキ並木の名残りの根っこが残っていました。
※伐採されたヒノキ並木跡(右側)
065 ひのき並木跡
ヒノキ並木跡を右側に見ながら歩いていると、長野自動車道に架かる柿沢歩道橋があり、歩道橋の手前を右折するとみどり湖PA上り線に下る階段があります。
※みどり湖PA上り線に下る階段         ※PAに繋がる階段
066 みどりPA入口    066-1 階段
階段を下りると高速バスの停留所があり、右折してPAの休憩所に向かいます。
※高速バスの停留所
066-2 高速バス停
高速バス停留所を通り過ぎて約80m歩くと休憩所があり、椅子に座って休憩しました。
12時51分~13時03分、休憩
066-3 みどりPA
階段を上り、旧街道に戻り柿沢歩道橋を渡って先に進みます。
※柿沢歩道橋からのみどり湖PA上り線の眺め
067 柿沢橋からの眺め
柿沢歩道橋を渡って約170m歩くと右側に嘉永6年(1853)に建立された馬頭観音が祀られていました。
13時09分、馬頭観音(右側)
068 馬頭観音
馬頭観音から約450m歩くと左に入る道の角に、首塚胴塚の道標が建っており、街道を離れて見学に向かいました。
左折して約110m歩くと左側に白い案内看板が建っており、看板に沿って左折します。
※分岐(首塚胴塚①)=左折            ※分岐(首塚胴塚②)=左折
069-1 首塚胴塚分岐(左折)    069-2 左折
左折して細い道を約90m歩くと、左側に入った処に首塚と胴塚の石碑が建っていました。
13時17分、首塚・胴塚碑(左側)
069 首塚・胴塚
首塚胴塚は天文17年(1548)武田晴信(信玄)と松本の小笠原長時が塩尻峠で合戦となり、小笠原勢が大敗しました。その時、戦死した千余名の亡骸を柿沢の人々がこの地に埋葬したそうです。その後、小笠原長時の子の貞慶は家康に見いだされ嘉永9年(1632)小倉藩15万石の大名になりました。
首塚・胴塚入口道標の斜め向かいに男女双体道祖神が祀られていました。
13時21分、男女双体道祖神(右側)
070 夫婦道祖神
首塚胴塚入口から約140m歩くと右側に雀おどりの棟飾りのついた本棟作りの築180年の旧家があり、その家の真向いに高札場跡がありました。
13時26分、高札場跡(左側)
074 高札場跡
本棟作りの築180年の旧家の前(高札場の斜め前)に道祖神が建っていました。
※本棟作り・雀おどり(右側)
073 雀踊り
13時26分、道祖神(右側)
075 道祖神
高札場跡から約230m歩くと、下柿沢交差点があり、交差点の手前の右角に道祖神が祀られていました。
13時30分、道祖神(右側)
077 道祖神
下柿沢交差点から約60m歩くと分岐点に火の見やぐらのあるY字路となり、左側の道を進みます。
※Y字路分岐(左側)
078 分岐(Y字路)左側
Y字路から約220m歩くとR153(三州街道)に合流し、右折して四沢川に架かる緑並橋を渡ります。
13時35分、分岐(R153)=右折
079 分岐(緑並川)右折
分岐から約100m歩くと右側に男女双体道祖神があり、男女が抱擁していることから「お女郎道祖神」とも呼ばれています。
13時36分、お女郎道祖神(右側)
080 男女双体道祖神
お女郎道祖神から約100m歩くと仲町交差点があり、分岐点に日本橋から58番目の一里塚跡があり、石碑と解説板が建っていました。
13時37分、58柿沢一里塚跡(右側)
081 58柿沢一里塚跡
仲町交差点手前の柿沢一里塚跡から交差点を通り過ぎる左側に、道祖神が祀られていました。
13時39分、道祖神(左側)
082 道祖神
道祖神から約20m進むと、左側に阿禮神社御旅営が祀られていました。
13時39分、阿禮神社御旅営(左側)
083 阿禮神社御旅宮
阿禮神社御旅営から約30m歩くと、左側に三州街道碑が建っていました。
13時40分、三州街道碑(左側)
084 三州街道碑
三州街道碑の斜め向かい側(小口商店の手前)に、塩尻口留番所跡碑が建っていました。
13時42分、塩尻口留番所跡碑(右側)
085 松本藩塩尻口留番所跡
塩尻口留番所跡碑から約80m歩くと、右側に十五堂跡碑が建っていました。
13時43分、十五堂跡碑(右側)
086 十五堂跡碑
十五堂跡碑から約20m歩くと、右側に長屋門が遺構として保存されていました。
13時43分、長屋門の遺構(右側)
087 旧家
長屋門の遺構のところから約50m歩くと右に入る道路の角に、五千石街道碑が建っていました。
13時44分、五千石街道碑(右側)
※五千石街道=松本を経由して糸魚川に至る北(裏)塩の道
五千石街道碑から約260m歩くと右側に、重要文化財の小野家住宅があり、立ち寄りました。
13時48分、重要文化財・小野家住宅(右側)
089 小野家住宅
小野家は江戸時代「いてうや(銀杏屋)」の屋号で旅籠屋を営み、建物は塩尻宿を通る中山道が塩尻峠に向かって上りかかる所に建っています。間口は八間、切妻造、平入、二階建の背面に棟を直角に平屋が続いており、内部は二階の客室に、鶴、松などを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付ける。なかでも「桜の間」は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に示しており、幕末の宿場の雰囲気を示す好例である。
平素は有料での拝観ですが、今日は塩尻宿の日で無料で解説付き案内で拝観させて頂きました。
実物は写真より数段素晴らしく、見学に訪れることをお勧めします。

※廊下と客間           ※襖絵             ※桜の間
089-1 重要文化財の二階  089-2 押し入れ戸の絵  089-4 桜の絵
小野家住宅の見学を終え、約40m歩くと塩尻町交差点となり、進行左側の交差点付近に上問屋跡碑が建っていました。
14時01分、上問屋跡碑(左側)
090 上問屋跡
塩尻町交差点を過ぎた左側に、明治天皇行在所跡碑が建っていました。
14時01分、明治天皇行在所跡碑(左側)
091 明治天皇行在所跡
明治天皇行在所跡碑の道路真向いに高札場跡があり、モニュメントの脇に下問屋跡碑が建っていました。
14時02分、高札場跡・下問屋跡碑(右側) 
092 高札場跡
明治天皇行在所跡碑から約20m進むと左側に、塩尻宿本陣跡があり、跡碑が建っていました。
14時03分、塩尻宿本陣跡(左側)
093 塩尻宿本陣跡
本陣跡碑の先隣りに、塩尻宿碑と脇本陣跡碑が建っていました。
14時04分、塩尻宿碑・脇本陣跡碑(左側)
094 塩尻宿脇本陣跡
脇本陣跡から約40m歩くと笑亀酒造があり、入口ブロック塀の脇に塩尻陣屋跡があり、石碑が建っていました。
14時05分、塩尻陣屋跡(左側)
095 塩尻陣屋跡
塩尻宿は慶長10年(1605)以降、天領となり、享保10年(1725)に幕府直轄領となり陣屋が置かれた。
陣屋跡の笑亀酒造は銘酒笑亀の蔵元で、なまこ壁で覆われた穀蔵は国登録有形文化財に指定されている。
笑亀酒造左側)
096 笑亀酒蔵(塩尻陣屋跡)
笑亀酒造から約200m歩くと塩尻町歩道橋があり、街道は手前を右折します。
※分岐(右折)
097 分岐(歩道橋前)右折
右折するため歩道橋の所に行くと歩道橋の根元に、駕籠立場跡と塩尻村役場跡があり、石碑が建っていました。
14時08分、駕籠立場跡・塩尻村役場跡(左側)
098 賀籠立場跡・役場跡
歩道橋を渡り、階段を下りた所に鉤の手跡があり、石碑が建っていました。
なお、この場所は枡形跡でしたが、忘れて記録を残せませんでした。
14時10分、鉤の手跡(左側)
099 鉤の手跡碑
鉤の手跡から約140m歩くと、右側に阿禮神社があり、鳥居の処から一礼して先に進みました。
14時12分、阿禮神社(右側)
100 阿礼神社
延喜式神名帳に記載された古社で、社殿は享保3年(1718)に再建されたものである。
神社の入口から約10m進むと右側に塩尻東小学校があり、校門の前に塩尻宿碑が建っていました。
ここが塩尻宿の西の出入り口の京口でした。
14時13分、塩尻宿碑(右側)
101 塩尻宿碑
塩尻宿碑から約300m歩くと右側に、火除けの鬼瓦がブロック塀の上に飾られた旧家がありました。
14時18分、火除けの鬼瓦を飾る旧家(右側)
102 古民家
旧家から約20m歩くと右側に、男女双体道祖神が祀られていました。
14時18分、男女双体道祖神(右側)
103 男女双体道祖神
道祖神の先隣りが旧堀の内村の名主を勤めた堀内家で、本棟造りの家屋は国の重要文化財になっているのですが、全面改修中で見ることができませんでした。
14時19分、堀内家住宅(右側)
104 堀内家住宅(修復中)
堀内家住宅から約250m歩くと大小屋交差点となり、左角に石仏石塔群がありました。
14時22分、石仏石塔群(左側)
105 石仏石塔群
大小屋交差点を横断し、左側のミキ美容室と右側の飯田犬猫病院看板の間(細道)を進みます。
※分岐(左斜めの細道)
106 分岐(大小屋交差点)斜め左
細道を約190m進むとT字路となり、突き当りを右折、約20m先でR153に合流し、
左折して田川に架かる塩尻橋を渡ります。
塩尻橋を渡りR153を約180m歩くと下大門交差点があり左折します。
下大門交差点を右折すると、R153は松本街道として善光寺西街道に通じています。
※分岐(下大門交差点)=右折         ※松本街道(赤矢印)
107 分岐(下大門交差点)左折    108 松本街道
下大門交差点から約230m歩くと右側に大門神社があり、一服休憩に立ち寄りました。
14時32分~14時45分、休憩(大門神社)=右側
109 大門神社    110 御神木
大門神社から約40m進むと右側に耳塚神社が祀られていました。
14時46分、耳塚神社(右側)
111 耳塚神社
耳塚神社は、天文17年(1548)桔梗ケ原の合戦で武田晴信(信玄)と小笠原長時が戦い、武田軍が勝利しました。この戦いで討ち死にした将兵の耳を葬った所と云われ、耳の聞こえるご利益があると評判だったそうです。
耳塚神社から約80m進むと、右側の民家の植え込みの中に男女双体道祖神が祀られていました。
14時16分、男女双体道祖神(右側)
112 男女双体道祖神
男女双体道祖神から約210m歩くと、今日の旅の到着地であるガード手前の分岐に着きました。
到着地で旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を行い、今日の旅を終えました。
14時51分、洗馬宿・ガード手前分岐(到着地)
113 ガード手前分岐(到着地)
到着式を終え宿泊する旅館に向かう途中に「有明山神燈」があるというので、史蹟を探しながら約50m歩くと、左側に入る道の分岐に建っていました。
14時55分、有明山神燈(左側)
114 有明山神燈
【宿泊】
有明山神燈から約400m歩くと、T字路となり、T字路の左側に宿泊する藤金旅館がありました。

115 旅館藤金
旅館に入りチェックインを行い、夕食は18時頃、翌日の朝食は6時30分頃ということで部屋に案内されました。

〔行程変更〕
部屋は個室で、Mさんと交替で入浴したり、ザックの荷造りしたり、翌日の旅の行程を確認したりして過ごしました。

その中で、旅の行程は贄川駅前までの14.9㎞で計画していましたが、3日目の行程と帰路の電車の乗車時間(13:19)を考え、木曾平沢駅まで5.4㎞を追加することに変更しました。

〔夕食〕
Mさんとの打合せを終え、18時頃から夕食になりました。

116 夕食
夕食は鱒とハンバーグに3品の小皿と、料金に見合ったものが配膳され、ビールで喉を潤し至福のひとときを楽しみました。

相方のMさんは飲めないので、私一人で飲むのですが、1本では物足りなく追加して2本飲み、Mさんは私が食べ終わるまで話し相手になって下さいました。

お腹を満たし明日の朝食の時間を確認し部屋に戻りました。

疲れと酔いでベットに横になると瞬く間に夢の世界に入ってしまいました。

【次回の予告】
次回の第16回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=11月12日(日)
行 程=洗馬宿・ガード手前分岐 ~ 奈良井宿・木曽平沢駅入口
歩程距離=約20.3㎞
泊まる宿が奈良井宿のため、木曽平沢駅から奈良井駅まで1駅移動し、夕食の前に奈良井宿を観光する予定です。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


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