【宿場】 (34)奈良井宿 ⇒ (35)藪原宿
【行程】 歩行距離=6.96㎞ 総距離=267.68㎞
民宿かとう前⇒(1.29㎞)⇒鳥居峠登り口⇒(2.1㎞)⇒鳥居峠⇒(1.7㎞)⇒消防署前⇒(1.6㎞)⇒藪原一里塚跡⇒(0.27㎞)⇒ 藪原駅入口分岐
【ルート図】
↓宿場(桃色=第17回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第17回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は奈良井宿民宿かとう~鳥居峠~藪原駅入口分岐までの6.96km歩きます。
当初は6時30分に朝食を食べ、奈良井駅7時28分の電車で1(木曽平沢駅)~2(贄川)駅戻り、宿泊した奈良井宿を通って鳥居峠を越える予定になっていたのですが、昨日頑張って歩いたので、宿舎の食事時間に食べることになり、開いた時間を朝の散策時間に当てることにしました。
《朝の散策》
朝、5時に起き、朝の身支度と旅の支度を整え、6時頃から奈良井宿の散策に出掛けました。
外に出ると夜明け前でフラッシュを使わないと撮れない状態で、歩いている人も居ません。
※奈良井宿
民宿かとうを出て路地を抜け、JRの線路を横切り、木曽大橋を見に行きました。
ライトアップの写真を撮った総ヒノキ造りの木曽大橋を見に行くと、歩く所は霜が下り、橋の傾斜を考えると滑って転びそうなため、見るだけしました。
※早朝の木曽大橋
専念寺にうなり石(夜毎唸りをあげたという石で、釘を打ち付けた跡がある)があるというので見に行きました。
境内を丹念に見たのですが、それらしき石はありません。
何処かに移動したのか、撤去されたのかとMさんと話しながら寺院から退去しようとすると、境内外の道路沿いにありました。
※うなり石
奈良井宿の町並みは、軍事的な守りを重視した枡形道が随所に見られます。
※桝形道
木曽の山間の寒さを感じながら朝の散策を終え、朝食を食べに戻りました。
朝食は普通の配膳で、昨日と同じ場所で食べましたが、街道旅の男性は私達が食べに来ると、既に食べ終えて旅に出立していました。
※朝食
昨日、当初予定を変更して奈良井宿まで歩いて来なければ、私達も既に食べ終えて出立していたのですが、その必要がなくなったので、ゆっくりと食べ、トイレを済ませ民宿を後にしました。
【=旅=】
08時02分、民宿かとう(出発地)
旅の出立に当たり出発地を記した看板を掲げて出発式を行っているのですが、今回は変更に対応できる看板が作成できなかったため、看板なしの出発式を行い第17回旅に出発しました。
民宿かとうの先隣りは予約の時、「満室です」と断られた「いかりや町田」です。
※いかりや町田(左側)
いかりやから約10m先の右側に、食事・土産の越後屋がありました。
※食事・土産・越後屋(右側)
越後屋から約40m歩くと、右側の斎藤漆器店の隣りに寛政5年(1793)に創業し、銘酒「杉の森」の蔵元である杉の森酒造がありましたが、見学できませんでした。
※杉の森酒造(左側)
杉の森酒造の先隣りに、煙草の中村屋があり、店の前に今は懐かしい円筒形の郵便ポストが建っていました。
※煙草・中村屋(左側)
中村屋の真向かい(右側)に伝統的建造物群保存地区碑が建っていました。
※伝統的建造物群保存地区碑(右側)
地区碑の先隣りに、積水水場がありました。
※横水水場(右側)
横水水場から約60m歩くと右側に大宝寺に通じる道があり、マリア地蔵庭園があると云うので朝の散策で立ち寄りましたが、良く分からなかったので、入口だけ記録に残しました。
※マリア地蔵庭園(大宝寺)=右側
マリア地蔵庭園入口から約20m歩くと、延宝3年(1675)に創業し、現在郷土館になっている旧旅籠の徳利屋がありましたが、時間が早く見学出来ませんでした。
※旧旅籠・徳利屋(現郷土館)=左側
徳利屋の左斜め向かいの道を入った処に、本陣跡があり、標柱が建っていました。
※本陣跡(右側)
街道を約40m歩くと、左側に観光案内所があり約50m進むと、左側に寛政年間(1789~1801)に創業した旧旅籠で、現旅館として続いている越後屋がありました。
※越後屋(左側)
越後屋の斜め向かいに文政元年(1818)築で、脇本陣を務め、下問屋も兼ねた伊勢屋があり、現在は旅館を営んでいます。
※伊勢屋(右側)
伊勢屋の先は、先細りになる枡形道になっていました。
※桝形道
旅館・越後屋の隣り、伊勢屋の真向かいに漢方薬で有名な日野百草丸本舗奈良井店がありました。
08時05分、日野百草丸本舗(左側)
日野百草丸本舗から約30m歩くと、右側に笹屋酒店がありました。
08時06分、笹屋酒店(右側)
笹屋酒店の先隣りに上問屋跡があり、現在は資料館になっており、門前に明治天皇が立ち寄られた石碑が建っていました。
08時06分、上問屋跡(現資料館)=右側
時間が早くかったので、資料館が会館していなかったため、記録だけ残し先に進みました。
資料館から約50m歩くと、右側に長泉寺があり、寛永10年(1633)徳川第3代将軍家光公によって始められた「お茶壺道中」の宿所で拝領の茶壺があるというので立ち寄りましたが、寺院の開門前で見ることができませんでした。
08時09分、長泉寺(右側)
長泉寺を出て街道を約50m歩くと、右クランク形の枡形道になっており、右側に鍵の手水場がありました。
※桝形道
08時11分、鍵の手水場(右側)
枡形道の右側に、
・荒幡不動尊
・鍵の手碑
・男女双体道祖神
が順番に建っていました。
枡形道のクランクを出て約90m歩くと、右側に天保年間(1830~1844)に建築された中村家住宅がありました。
08時14分、中村家住宅(右側)
中村家住宅から約150m歩くと、右側に高札場跡があり、現在は昭和48年に復元されたモニュメントが建てられていました。
08時17分、高札場跡(右側)
高札場跡の先隣りに、宮の沢水場があり、水場の後方に石塔群が祀られていました。
※宮の沢水場(右側)
水場から約20m進むと、右側に鎮神社があり、Yumiさんの病気平癒と旅の安全をご祈願するため立ち寄り、お賽銭をご奉納して手を合わせました。
08時19分、鎮神社(右側)
ご祈願を終え神社から約40m歩くと、右側に楢川歴史民俗資料館があり、前庭に青屯句碑が建っていました。
08時23分、青屯句碑(右側)
楢川歴史民俗資料館から約70m歩くと右側に石段があり、旧街道は石段を上って進みます。
08時24分、分岐(右側の石段を上る)
右側の階段を上ると、右側に中北道標(鳥居峠2.3km、奈良井宿0.1km)が建っており、道標を見ながら擁壁上の草道を進みました。
※擁壁上の草道
(この先から鳥居峠を越え藪原宿手前の石畳道分岐まで時間で表示します)
08時29分、分岐(突き当たった県道を右折)
草道を約5分歩くと県道に突き当たり、県道を右折して坂道を上ります。
突き当たる手前の左側に、信濃路自然遊歩道道標が建っていました。
上り坂を右に曲がりながら約3分歩くと、右側に信濃路自然遊歩道中山道マップの看板が建っており、手前の分岐を右折しました。
08時32分、分岐(信濃路自然遊歩道中山道マップ看板手前)=右折
石畳の上り坂を進むとくるみ坂となり、さらに坂を上って進みます。
※石畳のくるみ坂
くるみ坂を上ると左折しながら木橋(1番目)を渡ります。
08時40分、木橋(1番目)
木橋を渡り、約2分歩くと左側に展望台と記された案内板が建っており、左折して展望台に行きました。
08時42分、分岐(展望台)=左折
坂道を約2分上ると東屋のある展望台に到着し、ザックを下ろして一服休憩を取りました。
08時44分~08時47分、休憩(展望台)
一方、展望台は木々に囲まれて眺望は期待外れでした。
水分補給などの休憩を終え、坂を下って街道の分岐に戻ると、分岐の数m先の左側に、小石が積み重なった観音像がありました。
08時48分、観音像(左側)
小石が積み重ねられた観音像から2つの木橋を渡り、左に曲がりながら進むと右側に葬沢があり標識と信濃路自然遊歩道道標が建っていました。
08時55分、葬沢(右側)
葬沢標識の直ぐ隣りに中の茶屋跡があり、休憩できる建物が建っていました。
※中の茶屋跡
中の茶屋跡を過ぎ、道が九十九折になる所の左側に道祖神が祀られていました。
08時57分、道祖神(左側)
道は九十九折に峠道を上ります
※九十九折の道
九十九折の道を過ぎ4つ目の木橋を渡り、さらに上り坂を進むと今度はコンクリート橋が架かっていました。
09時07分、コンクリート橋
コンクリート橋を渡りながら右側を見ていると水場があり、記録に残しました。
※水場(右側)
コンクリート橋を渡り約6分歩くと、右側に日本橋から65番目の鳥居峠一里塚跡があり、跡地に石碑と解説パネルが建っていました。
09時13分、65鳥居峠一里塚跡(右側)
資料では4番目の木橋を渡る手前に記されていたのですが、コンクリート橋を渡り、5番目の木橋を渡る手前にありました。
一里塚跡を過ぎ、5番目、6番目の木橋を渡ると、林道に突き当たるT字路となり、
右側の中北道標、左側に自然石道標を見ながら左折します。
09時19分、分岐(T字路)=左折
T字路から約100m歩くと、左側に峠の茶屋跡なのか休憩所があり、休憩に立ち寄りました。
09時21分~09時30分、峠の茶屋(休憩)
朝からトイレに行ってなかったので、まずトイレを済ませ、休憩所内でザックを下ろして休憩しました。
建物の裏は今朝の冷え込みで、一面霜で真っ白。
流れている水場の水は、手を浸していられない冷たさでした。
※霜で真っ白 ※水場
休憩を終え、ザックを背負い、休憩所脇の白い案内看板を左側に見ながら、山道に入りました。
※分岐(峠の茶屋)
上り坂を約3分歩くと、右に曲がった所の左側の崖上に、明覚霊神碑が建っていました。
09時33分、明覚霊神碑(左側)
明覚霊神碑から1分くらい先が鳥居峠と思うのですが、標識が建っていないので通り過ぎてしまい、気がついたら下る丸太階段の処まで進んでしまいました。
09時34分、丸太階段
階段を下り、少し歩くと左側に明治天皇が一時休まれた所に石碑が建っていました。
09時35分、明治天皇駐蹕所碑(左側)
駐蹕所碑の先で丸太階段を下ると斜めT字路となり、真っ直ぐに進みそうになるのですが、ヘアピンカーブのように右折して舗装路を下ります。
※分岐(斜めT字路)=右折
舗装路の坂を下り、二叉の分岐を左に曲がり、直ぐに次の分岐を左に曲がって土道(遊歩道藪原宿方面)を進みます。
※分岐
右角に木製道標、自然石道標が続き、その先に熊除けの鐘が設置されており、鐘を叩いてから先に進みました。
09時39分、自然石道標(右側) ※熊除けの鐘①(右側)
明治の道とも云われている土道を約3分歩くと、右側に子宝伝説の子産のトチがあり、解説パネルが建っていました。
09時42分、子産のトチ(右側)
子産のトチから約1分歩くと、左側に鳥居峠のトチノキ群碑が建っていました。
09時43分、鳥居峠のトチノキ群碑(左側)
トチノキ群碑から約1分歩くと、2つ目の熊除けの鐘があり、ここでも鐘を叩いてから先に進みました。
09時44分、熊除けの鐘②(右側)
熊除けの鐘から約2分歩くと、左側にベンチ、右側に鳥居峠の御嶽神社がある分岐となり、右側の坂と階段を上って御嶽神社に立ち寄りました。
09時46分、御嶽神社(右側)
鳥居の処から参拝し、分岐に戻りました。
09時48分、分岐(御嶽神社前)=直進
左側のベンチを見ながら直進し、約2分歩くと右側に御岳手洗水鉢があり、その奥に義仲硯水があると云うので、立ち寄りました。
09時50分、御岳手洗水鉢、義仲硯水(右側)
平家追討の旗を揚げた木曽義仲は、この水で硯を摺り戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したそうです。
街道に戻ると道の左右にテーブル付きベンチがあり、ベンチの先で道が三叉に分岐し、左側に中北道標が建っており、鳥居峠300m・JR藪原駅2.7kmの道標の向きに沿って左側の道を進みました。
09時51分、分岐(三叉路)=左側
左側の道を約2分進むと、これから行く藪原の町並みかどうか分かりませんが、紅葉に囲まれた町を眺めることが出来ました。
09時53分、木曾の町並み
三叉路分岐から約4分歩いた処の右側に、馬頭観音が祀られていました。
09時55分、馬頭観音(右側)
資料では馬頭観音の先辺りに芭蕉句碑があると記されていましたが、確認することができませんでした。
鳥居峠の下り道はこの先九十九折りの道を下っていくのですが、その途中の右側に供養塔が建っていました。
※九十九折の下り坂
10時02分、供養塔(右側)
九十九折の坂を下って行くと、右から左に走る林道の真向かい左側に一方通行進入禁止の標識、右側に自然石道標が建っている道があり、林道を横切って進みました。
10時05分、分岐(林道横切り)=直進
林道を横切る手前の左側に中北道標、右側に鳥居峠碑が建っており、その他に3つ目の熊除けの鐘が設置されていたので、鐘をカンカン鳴らして先に進みました。
※中北道標(左側) ※鳥居峠碑(右側)
※熊除けの鐘③(右側)
一方通行進入禁止の道に入ると石畳道となり、分岐から約3分歩くと左側に赤い
鳥居と社の原町稲荷社が斜面に祀られていました。
※石畳道
10時08分、原町稲荷社(左側)
稲荷社から約1分歩くと左側に中北道標と自然石道標が立つ石畳道分岐となり、旧国道に合流し、分岐点に信濃路自然歩道中山道ルート標板が建っていました。
10時09分、石畳道分岐(旧国道に合流)
合流分岐から約280m歩くと、十字路があり横切ります。
10時13分、分岐(十字路)=直進
十字路を横切り約60m歩くと、右側に中北道標(白丸)が建っていました。
※分岐(合流)
分岐合流から約160m歩くと、左側に天降社があり、敷地内に木祖村唯一の大モミジが植生されていました。
10時16分、天降社・大モミジ(左側)
天降社から約90m歩くと、左側に原町清水の水場がありました。
10時18分、原町清水(左側)
水場から約160m歩くとクランク形の道となり、右に曲がり、次に左に曲がる処に(黄色矢印)に右側(白矢印)に入る道があり、白矢印の道を入ると左側に尾州御鷹匠役所跡があり、標柱と解説パネルが建っていました。
10時21分、尾州御鷹匠役所跡(左側)
旧街道に戻り、約40m進むと左側に、飛騨街道追分碑が建っていました。
10時22分、飛騨街道追分碑(左側)
(追分碑) (右折) (跨線橋)
追分碑の前を右折し、線路際を右折して跨線橋を跨いでJR中央本線を渡りますが、跨線橋に上る袂の右側に、水神、津島大神が祀られていました。
10時24分、水神碑・津島大神碑(右側)
石碑の先から階段を上り、線路を跨ぐ跨線橋を渡り、線路の反対側に行きました。
跨線橋を渡り、葛沢橋を越えるなど約100m歩くと、左側に本陣跡があり、跡地に標柱が建っていました。
10時27分、藪原宿・本陣跡(左側)
本陣は、木曽氏の家臣であった古畑十右衛門が代々務めていました。
本陣から約50m歩くと、左側に慶長13年(1608)創業の米屋旅館がありました。
10時28分、米屋旅館(左側)
建物は明治の大火後、須原宿から移築されたものだそうです。
米屋旅館の脇の道は、人によっては旧中仙道と云われている道で、飛騨街道追分碑を左側に見て、約170m先を右折する道(白矢印)です。
※分岐
分岐の真向かいに、創業慶安3年(1650)の銘酒「木曽路」の蔵元である湯川酒造がありました。
10時29分、湯川酒造(右側)
湯川酒造から約50m歩くと、左側に藪原宿が元禄8年(1695)の大火で全焼し、その大火の教訓から広小路を造り防火壁を設けた跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。
10時31分、防火高塀跡(左側)
防火高塀跡から約120m歩くと、左側に源流の里・二叉水道組合の水場があり、記録に残しました。
10時34分、水場(左側)
水場から約100m歩くと、左側にお六櫛工房の山六篠原商店がありました。
10時35分、お六櫛工房・山六篠原商店(左側)
山六篠原商店から約120m歩くと、右側に高札場跡があり、円筒形ポストを挟むように左側に標柱、右側に解説パネルが建っていました。
10時37分、高札場跡(右側)
高札場の辺りは御判形とも呼ばれた枡形になっており、藪原宿の京(西)口で、高札場跡に沿ってY字路を右の下り坂に入ります。
※分岐(京口跡)=右折
右折して下り坂を約250m歩くと、突き当りのT字路となり、右折します。
※分岐(T字路)=右折
右折して直ぐに橋を渡り、右に曲がりながら約140m歩くと、1本目の左折できる道があり、ここが旧中仙道の分岐になります。
10時41分、分岐(左折)
分岐を曲がってしまうと、その先にある一里塚跡に立ち寄れないため、分岐を左折しないでそのまま約40m先まで歩くと、右側に蒸気機関車が展示されている公園があり、公園の入り口に日本橋から66番目の藪原一里塚があり、跡地に石碑と解説パネルが建っていました。
10時42分、66藪原一里塚跡(右側)
一里塚跡から分岐に戻り、本来は左折する分岐を右折し、約150m先の県道26号が交差する十字路に突き当たりました。
本来は突き当たった県道26号を横切って直進(オレンジ色矢印)するのですが、JRの鉄道敷設により通り抜けできなくなり、突き当たった県道26号を左折して進みます。
10時44分、分岐(県道26号)=左折
分岐を左折して約30m歩くとJR中央本線のガードがあり、ガードを潜ると約20mでT字路となり右折します。
※分岐(T字路)=右折
今日の到着地である藪原駅入口分岐(T字路)に着きました。
旅の終わりを締めくくる恒例の到着式を、藪原駅入口分岐で行い今日の旅を終えました。
10時45分、藪原駅入口分岐(到着地)
【帰路】
到着式を終え、約160m離れているJR中央本線・藪原駅に移動しました。
電車は予定していた13時19分より2時間早い11時19分に乗車できることになり、駅舎で待つことにしました。
トイレを済ませホームに移動しようとすると、駅員さんが「コーヒー入れたから」とコーヒーをご馳走して下さり、体を温めるとともに、心も温かくなりました。
街道旅(旧東海道、旧甲州道中)をする中で、駅員の方に饗されたのは初めてで、記憶に残る思い出を作らせて頂きました。
〔移動〕
定刻から3分遅れて電車が到着し、空いている席に座り帰路に着きました。
11時19分、藪原駅発
塩尻駅に3分遅れで到着し、私が指定席の変更、Mさんが駅弁購入を分担し、乗車するまでの約15分を有効に使い、変更した特急に乗って家に帰ってきました。
※車窓から富士山の眺め
【次回の予告】
次回の第18回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=12月 9日(土)
行 程=藪原宿・藪原駅入口分岐 ~ 木曽福島宿・上町交差点
歩程距離=約13.3㎞
です。
藪原駅を出発するのが11時30分頃になるため、昼食を持参して16時頃の日没までに歩く行程になります。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
https://michinoku-trail.blog.jp/