旧中山道二人旅

旧東海道、旧甲州道中と2つの街道を踏破し、5街道の中で一番距離が長く、峠越えも多く、一番厳しい中山道の歩き旅をします。 相方のYumiさんは車椅子とベットの生活となり特養でお世話になっているため、中山道の旅は旧甲州道中を旅したMさんと二人で旅をすることになりました。 今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅を行います。 旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入り、東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。 街道で見かけましたら、気軽に声を掛けて下さい。

2018年06月

【天候】 薄曇り
【宿場】 (61)醒ヶ井宿⇒(62)番場宿⇒(63)鳥居本宿⇒(64)高宮宿
【行程】 歩行距離=13.95㎞ 総距離=480.53㎞
R21分岐合流⇒(2.2㎞)⇒117久礼一里塚跡⇒(2.15㎞)⇒中山道番場碑⇒(1.8㎞)118摺針一里塚跡⇒(2.0㎞)⇒鳥居本駅入口⇒(2.25㎞)⇒新幹線ガード⇒(2.15㎞)⇒大堀町交差点⇒(1.4㎞)⇒高宮駅入口
【ルート図】
 宿場(桃色=第32回旅・黄色=踏破済み)
000 第32回宿場
 第32回旅のルート
000-2 第32回ルート
【旧中山道二人旅】

《序章》
今日は前日の旅で到着した醒ヶ井宿・R21号分岐合流から高宮宿・高宮駅入口までの約13.95㎞を歩き、近江鉄道・高宮駅から米原駅に移動し、米原駅から東海道新幹線ひかり号で自宅に帰ります。
〔前日の打合せ〕
前日の行程打合せで、
①行程
天気は曇り一時雨で、時間の経過とともに降水確率が高くなっているため、街道から外れた史跡の見学は傘なしの時だけ行い、雨天の時は街道沿いのみにする
②出発
ホテルの朝食が6:30から食べられるとのことで、当初予定していた8:03発の電車を1本前の7:27に変更し、ホテルを7:15に出発する
③帰路
到着地に着く時間により(雨天の場合は時間を要するため)高宮駅13:35発を1本前の12:35発にし、新幹線も米原駅で14:57を13:57に指定席変更する
ことにしました。
《準備》
朝、5時15分にセットしたモーニングコールでベットを出て、洗面を済ませ、旅支度を整え朝食に向かいました。
朝食開始の6:30の5分前に1階の食事会場に行くと、まだ準備が終わるのを待ってホテル提供の朝食を食べエネルギーを補給しました。
朝食はバイキング形式で、並べられた和食に沿った食材を取って食べ、短い時間ですが食後のコーヒーを飲んで憩いのひと時を過ごし、部屋に戻り、ザックの荷物を点検し、チェックアウトしました。
《移動》
07時10分、ホテル発
今日の降雨確率は50%と高かったのですが、ホテルを出ると薄り曇で雨は降っておらず、「このまま旅の終わりまで降らないで」と心の中で祈りながら米原駅に向かいました。
下車駅の醒ヶ井駅はパスモが利用できないため、切符を買って入場し、定刻に入線した電車に乗車し1駅先の醒ヶ井駅に向かいました。
07時27分、JR米原駅発

001 米原駅
07時32分、醒ヶ井駅着
002 醒ヶ井駅
醒ヶ井駅から駅前交差点に出て、歩道のないR21の道路沿いを約350m歩き、今日の出発地である醒ヶ井・R21合流分岐まで移動し、出発地でMさんと交互に出発式を行い旅に出発しました。
【=旅=】
07時38分、醒ヶ井・R21合流分岐(出発地)
003-2 出発地
出発地を出て直ぐに道路を横切って進行右側に移動し約50m歩くと、右側に一類狐魂等衆碑と地蔵尊が祀られていました。
07時39分、一類狐魂等衆碑と地蔵尊(右側)
004 一類弧魂等衆碑
一類狐魂等衆碑から約50m歩くと、進行左側に新しい地蔵堂が祀られていました。
07時40分、地蔵堂(左側)
006 地蔵堂
地蔵堂の直ぐ先に丹生川に架かる丹生川橋があり、橋の手前右側の川沿いに、壬申の乱横河の古戦場跡があり、解説標板が建っていました。
07時41分、壬申の乱横河の古戦場跡(右側)
005 壬申の乱・横河の古戦場跡
丹生川橋を渡り、右側のます料理・おたべを見ながら約240m歩くと、Y字路があり、分岐点に中山道河南標識が建っていました。
07時45分、中山道河南標識(分岐点)
008 中山道河南標識
街道はY字路を右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
007 分岐(右)
Y字路分岐から約300m歩くと、右側の澤家の脇に地蔵堂が祀られていました。
07時48分、地蔵堂(右側)
009 地蔵堂
澤家脇の地蔵堂から約100m歩くと、右側に屋根付き建屋の中に地蔵堂が祀られていました。
07時49分、地蔵堂(右側)
010 地蔵堂
屋根付き地蔵堂から約400m歩くと、左側に瓦葺屋根の地蔵堂が祀られていました。
07時55分、地蔵堂(左側)
011 地蔵堂
地蔵堂から約210m歩くと、R21樋口交差点があり、横断して進みましたが、地蔵堂が続いています。
地域によっては道祖神が多く祀られていたりするなど、地域によって違いを感じます。
※分岐(樋口交差点)=横断
012 分岐(樋口交差点)横断
樋口交差点から約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
08時01分、地蔵堂(左側)
013 地蔵堂
地蔵堂から約180m歩くと、和佐川に架かる和佐川橋があり、渡って進みました。
08時03分、和佐川(右方向)
014 和佐川
和佐川橋を渡り約50m進むと、右側の吉田八十郎商店の真向かいに、白壁の長屋門の旧家があり記録に残しました。
08時04分、長屋門の旧家(左側)
015 長屋門
長屋門から約250m歩くと、
※①T字路分岐に突き当たり左折、
016 分岐(左折)
※②
約30m歩くとY字路分岐となり、右方向に進み北陸自動車道の高架下を潜り
017 分岐(右)
※③
高架先のY字路分岐を右方向
018 分岐(右)
に進みます。
そして※③Y字路分岐の分岐点に、日本橋から117番目の一里塚跡があり、跡地に解説標板と中山道碑が建っていました。
08時08分、117久礼一里塚跡(分岐点)
019 117久礼一里塚跡  019-2 解説
一里塚跡から約150m歩くと、右に曲がる所に右に上っていく草道があり、旧道と間違えて入らないようにして下さい。
街道は左側の中山道道標、カーブミラー、柳の木に沿って、舗装路を右に曲がって進みます。
※分岐(右カーブ)
020 分岐(舗装を右方向)
中山道道標(白丸)から約450m歩くと、右側に問屋場跡があり、標石が建っていました。
08時17分、問屋場跡標石(右側)
021 問屋場跡
米原湊を控えた番場宿は物資輸送の要となり、最盛期には問屋場が6軒あったそうです。
問屋場跡標石から約70m歩くと、右側の石塀の前に問屋場跡(土川家)の標石が建っていました。
08時18分、問屋場跡標石(右側)
022 問屋場跡
問屋場跡から約60m歩くと、県道240号と交差する十字路となり、右角に番場宿碑が建っていました。
08時18分、番場宿碑(右側)
023 番場宿碑
十字路を交差する県道240号の右方向は、琵琶湖の米原湊に通じている米原道で、街道は横断して進みます。
※分岐(十字路)=横断
024 米原道
十字路を横断すると右側に、手差しが刻み込まれた道標が建っていました。
08時19分、手差し道標(右側)
025 手差し道標
十字路から約10m歩くと、高尾家が勤めた脇本陣跡があり、敷地の角に標石が建っていました。
08時20分、脇本陣跡(高尾家)・問屋場跡=右側
026 脇本陣跡
高尾家は問屋場も兼ねていました。
脇本陣跡の先隣りに、問屋場跡の標石が建っていました。
08時20分、問屋場跡(右側)
027 問屋場跡
問屋場跡の先隣りに北村家が勤めた本陣跡があり、跡地に標石が建っていました。
08時21分、本陣跡(北村家)=右側
028 本陣跡
本陣標石が建っている先隣りは北村家で、玄関脇に明治天皇小休所跡と問屋場跡の標石が建っていました。
08時21分、明治天皇小休所跡 ・ 問屋場跡(右側)
029 問屋場跡・明治天皇碑
明治天皇碑の建っている北村家から約60m先の右側に、問屋場跡標石が建っていました。
08時22分、問屋場跡(右側)
030 問屋場跡
問屋場跡から約80m歩くと、番場忠太郎碑が建っている蓮華寺に通じる分岐があり、雨天ではなかったので右折して蓮華寺に向かいました。
※分岐(左折)
031 分岐(左折)
分岐を左折して約150m歩くと名神高速道路があり、高架下を潜って進むと正面に蓮華寺がありました。
蓮華寺に入る右側に「北条仲時墓所」の解説標板が建っており、境内に入ると本堂右側に土肥三郎元頼墓所があり、本堂裏手に番場忠太郎地蔵尊が祀られていました。
また、忠太郎地蔵尊の右側に樹齢700年の一向杉が生育されていました。
※蓮華寺                     ※北条仲時公の墓解説標板  
032 運華寺 033 北条仲時解説
※土肥三郎元頼墓所              ※一向杉  
036 番場忠太郎地蔵 037 一向杉
※番場忠太郎地蔵尊
                         
038 土肥三郎元頼の墓  036-2 解説
番場忠太郎は長谷川伸(しん)の戯曲「瞼の母」の主人公で、近江(滋賀県)の番場生まれのやくざです。
5歳の時に生き別れた母を探しに旅に出て、江戸柳橋の料理屋水熊の女将おはまが母とわかるが、おはまは母と名のらず、忠太郎は母への思いを胸にふたたび旅立つ物語で、昭和6年の初演以来,舞台,映画,テレビなどで数多く上演されています。
蓮華寺の境内見学は有料のようでしたが、朝の早い時間だったので誰もおらず、見学を終えて帰る時、寺社の人が出てきましたがそのまま失礼させて頂きました。
蓮華寺から街道に戻り約200m進むと、左側に地蔵堂が建っていました。
08時37分、地蔵堂(左側)
039 地蔵堂
地蔵堂の斜め前に大日如来堂が祀られていました。
08時38分、大日如来堂(右側=写真後方の建物)
040 大日如来堂(後方建物)
大日如来堂から約170m歩くと菜種川が流れており、この川が東番場と西番場の境です。
08時39分、菜種川(右方向)
041 菜種川
菜種川はここから街道に沿って左側を流れているのですが、街道の下を潜った所から約20m歩くと、左側に鎌刃城案内標識が建っていました。
08時40分、鎌刃城案内標識(左側)
042 鎌刃城跡案内
鎌刃城は土肥三郎元頼が築城した山城ですが、織田信長の前に廃城となりました。
案内標識から緩やかな坂を約170m上りながら歩くと、右側に北野神社が祀られていました。
08時42分、北野神社(右側)
043 北野神社
寛平6(894)年に創建され、菅原道真を勧請し祀っています。
北野神社から約20m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
08時42分、地蔵堂(右側)
044 地蔵堂
地蔵堂から約40m歩くと、左側に鎌刃城と中山道の宿・番場の建物がありました。
08時44分、鎌刃城と中山道の宿・番場(左側)
045 鎌刃城と中山道番場宿 045-2 看板
建物から右側の称揚寺、本授寺を通り過ぎなど約600m歩くと、左側に中山道番場碑が建っていました。
08時51分、中山道番場碑(左側)
046 中山道番場宿碑
街道の直ぐ左側は名神高速道路が走っており、車の行き交う音が聞こえてきました。
街道は小摺針峠に向けて緩やかな上り坂になっていました。
※街道(緩やかな上り坂)
047 街道(緩やかな上り坂)
左側の段上の名神高速道路に沿って緩やかな坂を上って名神高速道路と同じくらいの高さになると勾配がきつくなりました。
勾配がきつくなる辺りで、Mさんから「休息しよう」と声がかかり、立ち休憩で水分補給しました。
08時56分~08時58分、休憩
048 街道・急坂
ひと息ついて急坂を「ヨイショ、コラショ」と声を出しながら歩くと、頂上と思われるあたりの舗装の色が変わっているので、ここを小摺針峠としました。
09時03分、小摺針峠
049 小摺針峠
名神高速道路米原トンネルの上が峠の頂上で、米原市と彦根市の市境になっているそうです。
舗装の色が変わっているところから下り坂となり、峠から約120m歩くと、右側に泰平水と地蔵堂が並んでいました。
09時05分、泰平水・地蔵堂 (右側)
050 泰平水・地蔵堂
泰平水水・地蔵堂から約500m歩くと、三差路分岐となり、左側に中山道道標が建っていました。
09時10分、中山道道標(左側)
052 中山道道標
道標(白丸)の建っている三差路分岐を右方向に進みました。
※分岐(三差路)=右方向
051 分岐(右)
三差路から約300m歩くと、右側に日本橋から118番目の摺針一里塚跡があり、跡地に標石が建っていました。
09時14分、118摺針一里塚跡(右側)
053 118小摺針一里塚跡
摺針一里塚跡から約100m歩くと傾斜のきつい上り坂となり、称名寺入口を過て約70m先で左側の細い道に入ります。
※分岐(左側の細い道)
054 分岐(左の細道)
分岐から約40m細い道を上ると左側に神明宮の鳥居が建っており、ここが摺針峠だそうです。
09時17分、神明宮・鳥居(左側)・・・摺針峠
056 神明宮
鳥居前を道なりに右方向に進みました。
※分岐(右方向)
055 分岐(右)
分岐を右方向に進む直ぐ先の左側に、往時峠の茶屋だった望湖堂跡があり明治天皇摺針峠御小休所碑(白丸)が建っていました。
09時18分、望湖堂・明治天皇摺針峠御小休所碑(左側)
057 明治天皇碑
明治天皇碑から約10m先の左側に、望湖堂跡の解説標板が建っていました。
09時18分、望湖堂解説標板(左側)
058 望湖堂跡
ここから景色のひろがる西の方を眺めると、琵琶湖を見ることができました。
※琵琶湖の眺め
059 琵琶湖の眺め
お江戸日本橋を出発してから32日目(約475㎞)に、琵琶湖を眺めることができるところまで来たかと、我が足に感謝しました。
望湖堂から坂を約30m下って下道に合流し、下道を約50m歩くと、左に下る分岐があり、左折して階段を下りました。
※分岐(下道に合流)          ※分岐(左折して階段を降る)
060 分岐(合流)  061 分岐(左折)
山道は岐阜県で終わりかと思っていたのですが、まだ残っていました。
分岐して
※①草道の階段を下り(約90m)
062 街道(下り)
※②
舗装路を左方向に約20m進み
063 分岐(斜め横断)
※③
土道に入りました。
064 分岐(入口)
※④
丸太橋を渡り
065 丸太橋
※⑤
樹林帯の中を歩き
066 樹林帯
※⑥
土道から舗装路に入る
067 分岐(合流)
〔④~⑥=450m〕

※①~※⑥の道は雨が降ったらとても歩けない状態だったので、歩きながらMさんと、「雨天だったら歩けなかったね」と云いながら歩くとともに、中山道で歩く山道はこれが最後だと思うと、薄曇りの街道歩き日和に歩くことができ、良い思い出を作ることができました。
※分岐(黄矢印=右折、下矢倉旧道=青矢印)
068 分岐(右折)
〔街道を間違える〕
※⑥から約30m歩くと変則四差路の分岐となり、右折して進みましたが、真っ直ぐ横断(青矢印)して下矢倉旧道に入るのが正しいのかも知れません。
※下矢倉旧道=分岐が約80m先のT字路を右折し、矢倉橋の手前でR8に突き当たる
私達は変則四差路を右折し、約30m歩くとR8号に突き当たる手前の左側に、摺針峠・望湖堂石碑が建っていました。
09時29分、摺針峠・望湖堂石碑(左側)
069 摺針峠・望湖堂碑
突き当たったR8号を左折して進むのですが、右方向は北国街道です。
※分岐(R8号)左折          ※北国街道(赤矢印)
070 分岐(左折) 071 北国街道
R8号を約40m歩くと一級河川の矢倉川に架かる矢倉橋があり渡って進みますが、橋の手前で下矢倉旧道からの道(青矢印)が合流します。
09時30分、矢倉橋               ※矢倉川(左方向)
072 矢倉橋 073 矢倉川
矢倉橋を渡り約70m歩くと、R8号から分岐して左方向に進みました。
※分岐(R8号)=左方向
074 分岐(左)
R8号から分岐して約20m進むと、左側に中山道道標が建っていました。
09時32分、中山道道標(左側)
075 中山道道標
道標から約20m歩くと、左側に彦根市のモニュメントが建っていました。
09時33分、彦根市モニュメント(左側)
076 彦根市モニュメント
モニュメントには三本の石柱の上に、近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っていました。
モニュメントから約80m歩くと、右側に中山道標石が建っていました。
09時35分、中山道標石(右側)
078 中山道標石
中山道標石から約40m歩くと、右側に1本だけ松の若木が植樹されており、この辺りが松並木跡のようです。
09時35分、松並木跡(右側)
077-2 1本松
松並木から約190m歩くと、左側に卯建と虫籠窓の旧家が建っていました。
09時37分、卯建と虫籠窓A=左側     ※鳥居本宿標板(左側)
079 卯建・虫籠窓の家  079-2 解説
卯建と虫籠窓Aの旧家から約50m歩くと、右側に虫籠窓の家が建っていました。
09時39分、虫籠窓Bの家(右側)
080 虫籠窓の家
虫籠窓Bの家から約30m歩くと、左側に茅葺き屋根の旧家がありました。
09時39分、茅葺き屋根の家(左側)
081 茅葺き屋根の家
茅葺き屋根の家から約40m進むと、赤玉神教丸の有川家があり、旧門前に明治天皇が小休所標石が建っていました。
09時40分、明治天皇小休所跡(右側)
082 有川家・明治天皇碑
有川家の真向かいの進行左側に、虫籠窓Cの家が建っていました。
09時41分、虫籠窓Cの家(左側)
083 虫籠窓の家
虫籠窓の家の先は枡形道になっており、左折して街道は進みます。
※分岐(枡形)左折
084 枡形道
分岐を左折する右角に、赤玉神教丸の有川家があり、建物は虫籠窓の構造になっていました。
09時42分、赤玉神教丸・有川家(右側)       ※建物=虫籠窓構造
085 赤玉神教丸・有川家       086 虫籠窓
有川家は万治元(1658)年に創業で、多賀大社延命長寿の神の教えによる神教丸は、下痢、食あたり、腹痛の妙薬です。
枡形を左折して約30m進むと、左側に虫籠窓Dの家がありました。
09時43分、虫籠窓Dの家(左側)
087 虫籠窓
虫籠窓の構造の家が立ち並び、籠枠の違うものがあるのですが、ゆっくりと検証して記録に残したいのですが、帰路の時間を考えるとゆっくりしていることが出来ず、多くの情報を残すことにしました。
虫籠窓Dの家から約30m歩くと、虫籠窓Eの家がありました。
09時44分、虫籠窓Eの家(右側)
088 虫籠窓
虫籠窓Eの家から約70m歩くと、右側に旧旅籠米屋があり、現在は旧鳥集会所になっていました。
09時46分、旧旅籠米屋(現旧鳥集会所)=右側
089 旧旅籠・米屋跡
旅籠の主人である岩根治右衛門は井伊直弼から号「自然斎」を賜った絵付師で、湖東焼きの絵付けを行っていました。
旧旅籠米屋から約80m進むと、左側にデイサービス鈴の音があり、建物の二階が虫籠窓になっていました。
09時47分、虫籠窓Fの家(デイサービス鈴の音)=右側
090 虫籠窓
虫籠窓Fの家の先隣りの門に岩根家住宅の解説標板が掲げられていました。
09時48分、岩根家住宅(右側)
091 岩根家住宅
岩根家住宅解説標板の先隣りに、合羽所木綿屋跡があり、軒先に吊り看板が吊るされていました。
09時49分、合羽所木綿屋跡(右側)
※合羽所木綿屋跡               ※吊り看板     
092 合羽所木綿屋跡 092-2 吊り看板
※虫籠窓
092-3 虫籠窓
創業は天保3(1832)年で、看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げています。
文化文政年間(1804~1829)は15軒の合羽所が軒を連ねていた。合羽は亨保5(1720)年に馬場弥五郎が創業したことに始まり、製法は楮(こうぞ)を原料とした和紙に渋柿を塗り込めて防水性を高めていたので、雨の多い木曽路に向かう旅人には必需品になっていました。
合羽所木綿屋跡の斜め向かいに本陣跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
09時50分、本陣跡(左側)
093 本陣跡 093-2 解説
本陣は寺村家が勤め、本陣門が倉庫の扉になっているとのことでしたが、見ないで先に進んでしまいました。
本陣跡から約20m歩くと、右折出来る分岐があり、右方向の奥に近江鉄道の鳥居本駅がありました。
09時51分、近江鉄道鳥居本駅(右側)
094 近江鉄道・鳥居本駅
鳥居本駅入口の分岐から約10m歩くと、左側に高橋家が勤めた脇本陣があり、問屋場も兼ねていたそうです。
09時51分、脇本陣跡・問屋場跡=左側
095 脇本陣跡・問屋場跡 095-2 解説
脇本陣の向かい側で鳥居本駅入口の右角に高札場があったようですが、標板など何も表示されていませんでした。
09時52分、高札場跡(右側)
096 高札場跡
高札場跡から約30m進むと、虫籠窓の家が幾つかあり、記録に残しました。
※虫籠窓の家
※G                    ※H                  ※I
097 虫籠窓 098 虫籠窓 099 虫籠窓
高札場跡から約90m歩くと、文政8(1825)年に創業した合羽所松屋跡があり、軒先に行燈看板が掲げられていました。
09時54分、合羽所松屋(右側)       ※行燈看板
100 合羽所松屋跡  100-3 行燈看板
合羽所松屋から約60m歩くと、十字路分岐があり、分岐の右角に礎石の上に唐破風の桧皮葺き屋根の常夜燈が建っていました。
09時55分、桧皮葺き屋根の常夜燈(右側)
101 木造常夜燈
常夜燈から約50m歩くと、右側に虫籠窓Jの家がありました。
09時56分、虫籠窓Jの家(右側)
102 虫籠窓
虫籠窓Jの家から約100m進むと、左側の駐在所の向かい側に長池地蔵尊があり、建屋の中に祀られていました。
09時58分、長池地蔵尊(右側)
103 長池地蔵尊 103-2 地蔵堂
長池地蔵尊から約70m歩くと、街道の両側に虫籠窓の家がありました。
09時59分、虫籠窓の家
※K(右側)                ※L(左側)
104 虫籠窓  105 虫籠窓
虫籠窓の家から約40m歩くと、右側に専宗寺があり、境内に聖徳太子廊があるというので立ち寄りました。
10時00分、専宗寺(聖徳太子廊)=右側
※聖徳太子廊                  ※専宗寺(山門)          ※鬼瓦
107 聖徳太子堂 106 専宗寺 106-2 鬼瓦
専宗寺から約220m歩くと、右折できる分岐があり、分岐の右角に彦根道追分道標が建っており、右折した道が彦根に通じる彦根道です。
10時04分、彦根道追分道標(右側)
109 彦根道追分道標 109-2 彦根道
道標から約230m歩くと、左側に鳥居本宿標柱が建っていました。
10時06分、鳥居本宿標柱(左側)
110 鳥居本宿碑
標柱から小野川(約230m先)を渡るなど約580m歩くと、左側に小野こまち会館が建っていました。
小野村は小野小町の出生地と云われています。
10時13分、小野こまち会館(左側)
111 小野小町会館
小野こまち会館から約10m歩くと、右側に安立寺の参道入口があり、参道奥に鐘楼門が建っていましたが、雨戸が閉められていて鐘楼を見ることはできませんでした。
10時14分、安立寺・鐘楼門(右側)
112 安立寺
安立寺を出て街道を進むと、左側に流れている川の上に、数軒おきにトイレと思われる建屋が建てられていました。
撮ったトイレ小屋は朽ち果てる寸前になっていますが、もっとしっかりとした建屋もありました。
私もYumiさんの親戚の家(長野県佐久市)に泊めてもらった時、トイレが庭にあり、ここの建屋と同じように板敷きの床だったので、抜け落ちないかビクビクしながら使ったこと、夜間は真っ暗な庭に出なくてはいけなかったことなどを思い出しました。
泊めて頂いた親戚のトイレは汲み取り式でしたが、ここは川に流されて汲み取りの必要はなかったようです。
※トイレ小屋
113 昔のトイレ
安立寺からトイレ小屋などを見ながら約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
10時16分、地蔵堂(左側)
114 地蔵堂
地蔵堂から約140m歩くと、鐘突堂跡があり、跡地に標識が建っていました。
10時19分、鐘突堂跡(右側)
115 鐘突堂跡
鐘突堂跡から約60m歩くと、右側に八幡神社参道入口の社標と常夜燈が建っていました。
10時20分、八幡神社参道入口(右側)
116 八幡神社参道口
参道入口から約240m歩くと、左側の建屋の中に六地蔵が祀られていました。
10時22分、六地蔵(左側)
117 六地蔵
六地蔵から約30m歩くと、小町地蔵堂が祀られていました。
10時23分、小町地蔵堂(左側)
118 小町地蔵堂
小町地蔵堂から約50m歩くと、左側に小町前茶屋跡があり標識が建っていました。
また、標識の手前に中山道標柱がありました。
出羽郡司小野美実(好美)は奥州に下る時、小野宿に泊まり、ここで生後間もない女児を養女に貰い受け、出羽国へ連れ帰りました。この女児が小野小町と云われています。
10時24分、小町前茶屋跡(左側)
119 小町茶屋跡
小野前茶屋は明治の中期まで茶屋があり、お多賀さん参りの人で賑わったそうです。
小町前茶屋跡から約75m歩くと、東海道新幹線の高架橋があり、ガードを潜って進みました。
10時25分、東海道新幹線高架橋(直進)
120 分岐(新幹線高架)
高架橋を潜り約350m歩くと、左側に原八幡神社地蔵尊入口の標柱が建っており、新幹線下を潜った先に地蔵尊(白丸)が祀られていました。
10時29分、原八幡神社地蔵尊(左側)
121 原北地蔵尊(新幹線奥)
原八幡神社地蔵尊入口から約170m歩くと、左側に原・東山霊園入口の大きな看板が建てられており、看板の下に森川許六遺路道標(白丸)が建っていました。
10時31分、森川許六遺路道標(左側)
122 分岐(森川許六道標)左 122-2 道標
森川許六は彦根藩士で芭蕉の高弟でした。庵跡には井戸と句碑が建てられています。
森川許六庵跡に立ち寄るか、この先の原八幡神社に立ち寄るかとなり、原八幡神社に立ち寄ることにし、分岐を通過しました。
森川許六遺路道標から約40m歩くと、右側に聖徳太子を祀る原八幡神社の鳥居が建っており、右折して神社に立ち寄りました。
10時32分、原八幡神社・鳥居       ※本殿
123 原八幡神社・鳥居 123-2 原八幡神社
鳥居を潜り、神社の境内に入ると、白髪塚、芭蕉ひるね塚があり、解説標板が建っていました。
※白髪塚                     ※芭蕉ひるね塚
124 白髮塚 125 芭蕉・ひるね塚
境内で休憩し、水分補給して出発しました。
街道に戻り、約80m歩くと右側に、天保15(1844)年に建立された道標が建っていました。
10時39分、道標(右側)
126 道標
道標の先は名神高速道路彦根ICの高架道路が2つ続いており、下を潜って進みました。
※名神高速道路彦根ICの高架道路下
127 高架下を潜る
2本目の高架道路を潜った所から約150m歩くと、正法寺前交差点の手前左側に多賀神社常夜燈が建っていました。
10時42分、多賀神社常夜燈(左側)
128 多賀大社常夜燈
多賀神社常夜燈の先の正法寺前交差点を横断し、約350m歩くと右側に春日神社の社標が建つ参道入口がありました。
10時47分、春日神社・社標(右側)
129 春日神社入口
春日神社社標から約400m歩くと、右側に矢除地蔵堂が祀られていました。
10時52分、矢除地蔵堂(右側)
130 矢除地蔵堂
聖徳太子は仏教渡来に反対する物部守屋に狙われ、この地において矢を射掛けられると、地蔵菩薩が現れ身代わりとなったそうです。
矢除地蔵堂から約110m歩くと、交差点の手前左側に金毘羅大権現道標が建っていました。
10時54分、金毘羅大権現道標(左側)
131 金毘羅大権現道標
道標から交差点を横断するなど約350m歩くと、斜め左に下る分岐があり、分岐を斜め左方向に入りました。
※分岐(斜め左方向)
132 分岐(左)
分岐から街道(黄矢印)を離れて下り坂(白矢印)を約40m進むと、左側に万葉歌碑が建っていました。
10時58分、万葉歌碑(左側)
133 万葉歌碑
街道に戻り約30m歩くと、芹川に架かる大堀橋があり、橋の右側の歩道を渡りました。
10時59分、大堀橋
134 大堀橋
※芹川(右方向)
                 ※大堀山(左方向)
136 芹川(右)  135 大堀山
大堀橋を渡ると大堀町交差点があり、右側に床の山碑が建っていました。
11時00分、床の山碑(右側)
137 床の山碑
標柱に「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」と刻まれているそうですが、確認を忘れました。
交差点の右角に旭森公園があり、公園の奥に地蔵尊堂が祀られていました。
11時01分、地蔵尊堂(右側)
138 地蔵堂
旭森公園にトイレがあったので、トイレ休憩を行いひと息入れました。
旭森公園を出て約45m歩くと、左側に多賀道道標が建っていました。
11時03分、多賀道道標(左側)
139 多賀道道標
道標先の道路を横断した先の左側に、お休み処だったかどや跡にお休み井戸が残されており、解説標板が建っていました。
11時04分、かどや跡(お休み井戸)=左側
140 かどや跡
かどや跡の真向かい辺りに、石清水神社の参道入口の石段がありました。
11時04分、石清水神社・参道入口(右側)
141 若清水神社
石清水神社参道入口から約210m歩くと、右側に大堀家地蔵堂が祀られていました。
11時07分、大堀家地蔵堂(右側)
142 大堀家の地蔵堂
建久元(1190)年、源頼朝はここで体調を崩し、地蔵菩薩に平癒を祈願したそうです。
大堀家地蔵堂から約90m歩くと、右側に彦根道道標が建っていました。
11時09分、彦根道道標(右側)
※道標                      ※彦根道(赤矢印)
143 彦根道道標(表) 143-3 彦根道
道標から約240歩くと右側の虫籠窓の家の先隣りに、地蔵堂が祀られていました。
11時12分、地蔵堂(右側)
144 地蔵堂
地蔵堂から約350m歩くと、右側に高宮宿碑が建てられていました。
11時18分、高宮宿碑(右側)
145 高宮宿碑
高宮宿碑から約40m歩くと、右側に多賀大社常夜燈が建っており、ここが高宮宿の見附跡で江戸(東)口だったところです。
11時19分、多賀大社常夜燈(右側)       ※高宮宿見附跡 
147 多賀大社常夜燈          146 高宮宿江戸口
常夜燈の直ぐ先に近江鉄道の踏切があり、横断して進みました。
11時19分、近江鉄道・踏切
148 近江鉄道踏切踏切を渡り約180m歩くと、県道224号の高宮町大北交差点があり、交差点を横断した右側の建屋に木之本分身地蔵尊が祀られており、建屋の前に解説標板が建てられていました。
11時22分、木之本分身地蔵尊
149 木之本分身地蔵尊
地蔵尊から約200m歩くと、近江鉄道高宮駅入口分岐があり、今日の旅の到着地に着きました。
11時25分、高宮駅入口(到着地)
到着地である高宮駅入口に着き、相方のMさんと交互に到着式を行い今日の旅を終えました。
150 高宮駅入口(到着地) 151-2 到着地
この後、急いで高宮駅に移動すれば、11時35分発の電車に乗車できましたが、当初の予定より1時間早く終了することが出来たので、高宮駅には向かわずに次回旅で歩く所を先に見学することにしました。
そして次回旅の史跡順に、
・布惣跡(現=宿駅座楽庵)
・旧庄屋宅
・高宮神社
・馬場提灯店
・松本酒店
を見学し、記録に残しました。
もう少し先まで見学しようかと思ったのですが、「雨が降ってきた」というMさんの声に反応し、松本酒店の所で踵を返し高宮駅に向かいました。
【帰路】
11時41分、近江鉄道高宮駅着
152 高宮駅 152-2 乗車ホーム
近江鉄道は東海道夫婦二人旅の時、Yumiさんと貴生川~水口石橋間で乗車したことがあり、約5年振りの乗車です。
ダイヤは1時間に1本で、次に乗る米原行きの電車は12:35発です。
それまで何もない駅で過ごさなければならず退屈にしていると、高宮と多賀神社を往復する電車が到着し、乗り換え客が乗車ホームに移動して来ると、静かだった駅が急に賑やかになりました。
12時35分、近江鉄道高宮駅発
152-4 高宮駅
2両編成の座席は80%くらいの混み方で、途中のJR接続駅の彦根駅に到着すると、乗客は私達2人と男性1人の3人だけになり、終点の米原駅まで同じでした。
〔出会い〕
さて、高宮駅で電車に乗ると、
H=Eさんではないですか。どうしてここにいるの?
と云われ、云われた方を見るとK山の会のH子さんです。
E=旧中山道の旅で来ており、今日これから帰ります。H子さんは?
H=友人(女性5人)と遊びに来て、多賀神社を見学した帰りよ
とお互いの状況を話し、東京から遠く離れた1時間に1本のローカル線の中での出会いに驚きました。
H子さんとはK山の会で一緒に会報作成を行った仲ですが、最近はK山の会の山行に参加していないので、出会うのは久し振りです。
H子さんは「今日はこれから彦根城を見に行く」ということで、彦根駅で別れました。
13時07分、近江鉄道米原駅着
154 近江鉄道米原駅入口
終点の米原駅でJR線に乗り換え、みどりの窓口で指定席の変更を行い、駅構内の弁当販売で駅弁と缶ビールを買い、新幹線待合室でお腹を膨らませ旅の疲れを癒やしました。
155 JR米原駅改札  156 昼食弁当(湖北のおはなし)
13時57分、JR米原駅発
157 新幹線米原駅ホーム
新幹線に乗ると、旅の疲れが出てきて途中で寝てしまい、気が付いたら小田原を過ぎていました。
16時10分、JR東京駅着
16時25分、JR東京駅発(中央線)
始発電車に乗り、ゆっくりと体を休めながら帰ってきました。

【次回の旅】

次回の第33回「旧中山道二人旅」は、暑い7月と8月の期間を休み、約3ケ月後の9月8日(土)
に再開し、高宮駅入口~五箇荘駅入口 歩程距離=約10.9㎞を旅する予定でいましたが、相方のMさんの奥さんが足の手術(8月15日)を受けることになり、奥さんの養生などを考え再開を1ケ月遅らせて、
・旅日=10月13日(土)
・行程=高宮駅入口~五箇荘山本郵便局
・歩程=12.78㎞
で旅することになりました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  

    

【天候】 曇り一時雨
【宿場】 (57)垂井宿⇒(58)関ヶ原宿⇒(59)今須宿⇒(60)柏原宿⇒(61)醒ヶ井宿
【行程】 歩行距離=19.5㎞ 総距離=466.58㎞
垂井駅入口⇒(1.7㎞)⇒112垂井一里塚跡⇒(2.65㎞)⇒一ツ軒交差点⇒(2.25㎞)⇒松尾交差点⇒(2.1㎞)⇒JR山中踏切⇒(2.1㎞)⇒今須交差点⇒(2.1㎞)⇒柏原駅入口⇒(2.5㎞)⇒歴史街道標石⇒(2.2㎞)⇒116一色一里塚跡⇒(1.9㎞)⇒醒ヶ井・R21合流分岐
【ルート図】
  宿場(桃色=第31回旅・黄色=踏破済み)
000 第31回宿場
  第31回旅のルート
000-1 第31回ルート
【旧中山道二人旅】

《序章》
今日は前日の旅で到着した垂井宿・垂井駅入口から醒ヶ井宿・R21号分岐合流までの約19.5㎞を旅します。
天候は台風と梅雨前線の影響で、12時以降の降水確率が高い予報になっています。
「今日は雨が・・・・・・?」とMさんが話すので、「歩くと決めたのだから天気の話しは止めよう」と云うのですが、天気のことが口から出てくるので「男なら腹を括ってよ」と云いたくなりました。
《準備》
朝、5時30分に依頼したモーニングコールで起き、洗面を済ませ、旅支度を整え、ホテル内の食事会場に行きました。
朝食は7時からと云われていたので5分前に食堂に行くと、団体客など10人くらいが椅子に座って待っていました。
7時に食堂が開き、食堂に入ろうとすると、個人客と団体客の食べる場所が異なっていることが分かり、個人客は私たちの他に数人だけで、後は団体客だったようです。
001 朝食
バイキング形式の朝食で和食の惣菜を盛り合わせ、ご飯とみそ汁でお腹を膨らませ活力を注入しました。
《移動》
07時46分、ホテル(クインテッサホテル大垣)発
002 クインテッサホテル
ホテルを出てコンビニ(ローソン)に立ち寄り、昼食が遅くなった時のために行動食(お握り)を買って大垣駅に向かいました。
大垣駅から垂井駅への移動はジバング切符です。
ジバング切符を購入する時、大垣駅迄の料金と垂井駅迄の料金を確認すると、垂井駅まで同じ料金
 ということが分かり、垂井駅までの切符を購入し片道200円の料金を節約しました。
さて大垣駅のホームに下りて番線表示を見ると、2番線と4番線で3番線がありません。
004 ホームの表示
3番線は何処にあるのだろうと思ってホームの通路を見ると、進行方向の先にあるようなので確認に行ってみたのですが、確認できませんでした。
004-2 ホームの表示
3番線から発車する電車があるので私の確認方法が悪かったようですが、分かりにくいホームでした。
08時10分、JR大垣駅発
005 大垣駅ホーム
08時17分、垂井駅着

垂井駅に着き、駅舎を出て約280m歩き、出発地(昨日の到着地)に立って空を見上げると、今にも雨が降りそうな曇り空です。
垂井駅入口で恒例の出発式を行い、心の中で「天気の回復」を願い今日の旅に出発しました
【=旅=】
08時21分、垂井駅入口(出発地)
007 垂井駅入口(出発地)
出発して最初に立ち寄る史跡は紙屋塚です。
出発地から約60m歩くと左折する路地(右側の衣料百貨梅屋の手前)があるのですが見落としてしまい、出発地から約100mの分岐を左折(※①)し、約50m先の左側に史跡案内看板が立っており、看板に沿って左折(※②)しました。
※①分岐(左折)         ※②分岐(左折)
008 分岐(左折)   009 分岐(左折)
②分岐を左折し、Y字路を左に進むと右側に紙屋塚がありました。
08時26分、紙屋塚(右側)
010 紙屋塚
紙屋塚から※①の分岐に戻り約80m歩くと、枡形道になっていました。
08時28分、枡形道
011 枡形道
枡形道の入口右側に、安永6(1777)年に建てられた旅籠屋で、浪花講・文明講の指定宿になっていた県内の中山道で江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒である旅籠亀丸屋が残っていました。
08時28分、旅籠亀丸屋(右側)
012 旅籠亀丸屋
亀丸屋から約80m歩くと、右側に立派な玄関屋根の丹羽屋(松井家)がありました。
08時30分、丹羽屋(右側)
013 丹羽屋
丹羽屋の真向かい辺りが問屋場跡とのことですが、標板が建っていないため正確にはわかりません。
08時30分、問屋場跡(左側)
014 問屋場跡(現中川時計店)
問屋場は金岩彌一右衛門が代々勤め庄屋を兼ね、相川の人足渡しの手配も行っていたそうです。
丹羽屋から約80m歩くと左側に安田歯科医院があり、先隣りに本陣跡(栗田家)の標板が建っていました。
08時32分、本陣跡(左側)
015 本陣跡
本陣は栗田家が勤め、酒造業も営んでいました。
本陣跡から約40m歩くと十字路があり、左側に南宮大社(南宮山の麓に鎮座している)の大鳥居が建っていました。
※分岐(十字路)左折
016 分岐(左折)
08時33分、南宮大社大鳥居(左側)

017 南宮大社鳥居
十字路分岐を左折し、大鳥居を潜り約120m歩くと、右側に垂井の泉があり立ち寄りました。
08時35分、垂井の泉(右側)
018 垂井の泉 018-3 垂井の泉標識 018-4 垂井の泉
垂井の泉は大ケヤキの根元から湧き出しています。
敷地の中に芭蕉句碑が建っていました。
08時37分、芭蕉句碑
019 芭蕉句碑
垂井の泉から分岐(十字路)の街道に戻り、左折して約30m歩くと、左側にふれあいプラザがあり、ここが金岩家が勤めた脇本陣があった所ですが、標示は何もありません。
08時39分、脇本陣跡(現ふれあいプラザ)=左側
020 脇本陣跡(現ふれあいプラザ)
脇本陣跡から約50m歩くと右側に、垂井宿お休み処であった旧旅籠の長浜屋がありました。
08時40分、旧旅籠長浜屋(右側)
021 旅籠長浜屋
旧旅籠長浜屋から約50歩くと左側に、文化年間末期(1817頃)に建てられた油屋卯吉家跡(小林家住宅主家)がありました。
08時41分、油屋卯吉家跡(小林家住宅主家)
022 小林家住宅主家  022-2 解説
元は油商であったが、明治以降は「旅人宿亀屋」になったそうです。
小林家住宅主家から約10m先の右側に本龍寺があり、入口右脇に明治天皇御小休所跡標石が建っており、脇本陣から移築された門と玄関が残されていました。
そして山門前が高札場跡だったようです。
08時42分、本龍寺(右側)
※明治天皇御小休所跡標石       ※高札場跡(脇本陣の門と玄関が移築)
023 明治天皇小休止跡(本龍寺)  024 高札場跡(脇本陣の門と玄関移築)
※時雨庵(芭蕉木像を安置)   ※塀の彫刻
026 時雨庵(芭蕉本像)?   025-2 塀の彫刻
芭蕉は元禄4(1691)年に本龍寺に冬籠もりしたそうで、時雨庵には芭蕉翁木像が安置されてい
 るそうです。
本龍寺から約45m歩くと長屋氏屋敷跡があるというので、十字路分岐を左折、さらに約65m先の十字路を右折して向かいました。
※分岐(十字路)左折      ※分岐(十字路)右折
027 分岐(左折)   028 分岐(右折)
分岐を右折して約30m歩くと、右側に長屋氏屋敷跡があり、標柱と解説パネルが建っていました。
08時47分、長屋氏屋敷跡(右側)
029 長屋氏屋敷跡
屋敷跡から約30m先を右折、約70m進むと街道に合流し左折します。
※分岐(右折)      ⇒   ※分岐(左折)
030 分岐(右折)   031 分岐(左折)
街道に合流し約60m歩くと左側に垂井宿京(西)口の西見附跡があり、解説標板が建っていました。
08時50分、西見附跡(左側)
032 西見附跡  032-2 解説
西見附跡の直ぐ先の左側に愛宕神社が祀られていました。
08時50分、愛宕神社(左側)
033 愛宕神社
愛宕神社を出て大谷川に架かる前川橋の手前左側に、八尺堂地蔵尊道道標が建っていました。
08時51分、八尺堂地蔵尊道道標(左側)
034 八尺堂地蔵尊道石碑
道標から前川橋を渡るなど約30m進むと、右側に地蔵尊が祀られていました。
08時52分、地蔵尊(右側)
035 地蔵尊
地蔵尊から約120m歩くと左側に、松島稲荷神社が祀られていました。
08時53分、松島稲荷神社(左側)
036 松島稲荷神社
松島稲荷神社から約500m歩くと、JR東海道本線の出屋敷踏切があり渡って進み、さらにR21の日守交差点を横断して進みました。
※出屋敷踏切       ⇒    ※日守交差点(横断)
037 出屋敷踏切    038 分岐(斜め横断)
日守交差点を渡り約220m歩くと右側に、日守の茶屋跡があり、建物の前に解説標板が建っており、同じ敷地内に地蔵堂が祀られていました。
09時03分、日守の茶屋(左側)    ※地蔵堂
039 日守の茶屋   040 地蔵堂
茶屋は休み処であり、句詠の場所でもあったそうです。
日守の茶屋から約10m先の左側に、日本橋から112番目の一里塚があり現存されている南塚の前に標柱と解説標板が立っていました。
09時03分、112垂井一里塚跡(左側)
041 112垂井一里塚跡
今まで数多くの一里塚を見てきましたが、塚の上に登ったことはありません。
何故か頂上に立ってみたいという気持ちが強くなり、塚を登って頂上に立つと、関ヶ原合戦の時、この辺りに布陣し南宮山の毛利秀元などの西軍に備えた浅野幸長の陣跡石碑が立っていました。
※浅野幸長陣所跡碑         ※頂上からの眺め
042 浅野幸長陣所古跡碑   041-4 一里塚からの眺め
一里塚跡から約210m歩くと日守西交差点となり、右折して交差点を横断し、左方向に曲がって進みました。
※分岐(右折して横断)      ※分岐(左方向)
043 分岐(右)    044 分岐(左)
日守西交差点を渡った当たりから雨が少し降り出してきました。
天気は昼頃からと雨模様と予報されていたので、予報より早い降り出しですが、傘は必要ないくらいの降りです。
日守西交差点から約270m歩くと左側に、関ヶ原宿入口碑が建っていました。
09時11分、関ヶ原宿入口碑(左側)
045 関ヶ原宿入口碑
関ヶ原宿入口碑から関ヶ原バイパスを跨ぐなと約500m歩くと右側に、伊富岐神社の鳥居が建っていました。
09時18分、伊富岐神社鳥居(右側)
046 伊富岐神社鳥居
鳥居から約170m歩くと平木川に架かる平木川橋があり、渡って進みました。
09時20分、平木川橋        ※平木川
047 平木川橋  047-2 平木川
平木川橋から約90m歩くと、右側に野上七つ井戸があり、井戸の前に解説標板が建っていました。
09時21分、野上七つ井戸(右側)
048 野上七つ井戸
井戸の左側にしゃもじ塚の案内標識が建っていたので、分岐を右折して路地を進みました。
※分岐を右折          ※踏切渡らずに直進
049 分岐(右折)   049-2 分岐(直進)
路地はクランク形に進むと東海道本線の線路沿いの道となり、踏切を渡らずに真っ直ぐに進むと草道の左側に五輪塔が建っているしゃもじ塚がありました。
09時23分、しゃもじ塚(左側)
050 しゃもじ塚
平忠常の墓で、長元4(1031)年に平忠常の乱で捕えられて京に護送される際、病に倒れ、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えてしまったそうです。
しゃもじ塚から街道に戻り約130m歩くと、左側に岩田家の豪邸が建っていました。
09時27分、岩田家(左側)
051 岩田家  051-2 岩田家
岩田家から約500m歩くと、右側に関ヶ原の合戦で山内一豊が布陣した陣所跡がありました。
09時33分、山内一豊陣所跡(右側)
052 山内一豊陣跡  052-2 解説
山内一豊陣所跡付近も松並木がありましたが、約70m進むと一豊松並木(私の命名)があり左右に松が植生されていました。
※一豊松並木(左・右)
053 野上松並木
山内一豊陣所跡から約140m歩くと、左側に六部地蔵が祀られており、近くに関ヶ原宿碑が建っていました。
09時36分、六部地蔵(左側)
055 六部地蔵
※関ヶ原宿碑(左側)

054 関ヶ原宿碑
六部地蔵から約30m歩くと桃配山松並木(私の命名)があり、右側に解説標板が建っていました。
09時37分、桃配山松並木(両側)
056 桃配山松並木  056-2 解説
松並木の解説標板から約210m歩くと、左側に桃配山があり、徳川家康最初の陣所跡が眺められました。
09時40分、徳川家康初陣所跡(左側)
058 徳川家康初陣跡  057 桃配山
桃配山は壬申の乱の際、大海人皇子がここに布陣し、兵士に桃を配って勝利を得た故事にならって最初の布陣を行ったそうです。
初陣所跡から約210m歩くと、
 ①.R21に突き当たる手前の車止めのある歩道を進む
 ②.左側に一ツ軒交差点を眺めながら横断する
 ③.道を横断し斜め右側の細い道を進む
※①              ※②             ※③
059 分岐(手前を右)  060 分岐(斜め横断)  061 分岐(右)
細い道を出て約50m歩くと、左側に中山道の関ヶ原町非公認無料休憩所がありました。
09時46分、中山道無料休憩所(左側)
062 無料休憩所
無料休憩所から約170m歩くと、左側に関ヶ原松並木(私の命名)がありました。
※関ヶ原松並木(左側)
063 関ヶ原松並木
松並木を過ぎ、R21に合流する手前の右側に道祖神が祀られていました。
09時50分、道祖神(右側)
064 道祖神
道祖神の先でR21に合流し、右方向に進みました。
※分岐(R21合流)右方向
065 分岐(合流)
合流して約140m歩くと関ヶ原東町交差点があり、その付近が関ヶ原宿江戸(東)口だった処のようです。
09時53分、関ヶ原宿江戸(東)口
066 関ヶ原宿江戸口
関ヶ原交差点から約190m歩くと、右側に若宮八幡神社が祀られていました。
09時55分、若宮八幡神社(右側)
067 若宮八幡神社
若宮八幡神社から約110m歩くと、右側に十九女池の竜女伝説に登場する「椀」が保管されている法忍寺があり、街道を右折して立ち寄りました。
※分岐=右折
068 分岐(右折)
09時57分、法忍寺(右側)

069 法忍寺
十九女池に棲む竜女が美女に化け、民家に借りた椀を返しにきたら生臭かったそうです。
法忍寺から街道に戻り約90m歩くと、右側に与市宮跡碑が建っていました。
10時02分、与市宮跡碑(右側)
070 与市宮
与市宮跡碑から約210m歩くと東公門交差点があり、交差点付近に日本橋から113番目の一里塚があったということですが、跡碑などはありませんでした。
10時05分、113関ヶ原一里塚跡(付近)
071 113関ヶ原一里塚跡付近
交差点の左側に明治32(1899)に創業した関ヶ原醸造がありました。
10時05分、関ヶ原醸造(左側)
072 関ヶ原醸造
関ヶ原醸造の「たまり醤油」は宮内庁御用達です。
この当たりになって雨の降り方が強くなってきたので、交差点の左側の関ヶ原醸造の真向かいでザックにカバーを被せたり、傘を出して降雨対策を施しました。
傘を差して約170m歩くと、関ヶ原駅入口があり遠く駅舎の写真を撮って記録に残しました。
10時15分、関ヶ原駅(右側)
073 関ヶ原駅入口
交差点の左角の伊勢街道追分道標跡、交差点手前右側の桝屋旅館(永長元(1096)年創業の老舗旅館)は、見落としてしまいました。
関ヶ原駅前交差点から約110m歩くと、相川家が勤めていた脇本陣跡があり、玄関門が残されていました。
10時18分、脇本陣跡(右側)
075 相川脇本陣跡  075-2 解説
脇本陣から約60m歩くと、本陣跡があったと資料に記されていたのですが、表示物がなかったので確認することができませんでした。
※本陣跡・・・場所不明
十六銀行関ヶ原支店の手前を左折して約60m進むと八幡神社が祀られており、境内に本陣の庭木だったスタジイが植生されているとのことでしたが、神社の鳥居を望遠で撮って先に進みました。
10時20分、八幡神社(右側)
077 八幡神社
さて、昨日の打合せで、雨天の時は寄り道しないとことにしたため、宗徳寺の明治天皇小休所跡、東首塚などは立ち寄りませんでした。
八幡神社入口から約100m歩くと、圓龍寺参道入口があり、境内手前右側に明治天皇御善水碑、左側に勤王志士三上藤川誕生地碑が建っていました。
10時22分、明治天皇御善水碑(右側)
079 明治天皇御善水碑
圓龍寺参道入口の直ぐ先の関ヶ原西町交差点を横断し約150m進むと、左側に大神宮常夜燈が建っており、この辺りが関ヶ原宿の京(西)口だったそうです。
10時27分、大神宮常夜燈 ・ 関ヶ原宿京(西)口
080 大神宮常夜燈
常夜燈から約80m歩くと梨の木川に架かる梨の木川橋があり、橋を渡った右側に関ヶ原合戦の戦死者数千人の首級を葬った西首塚がありました。
10時29分、西首塚(右側)
081 西首塚
塚の大木の裏には胴塚があります。
西首塚から約240m歩くとY字路分岐があり、右方向に進みました。
※分岐(Y字路)右方向
082 分岐(右)
Y字路分岐から約110m歩くと、松尾交差点があり手前右側に地蔵堂、交差点先の右角に関ヶ原合戦の開戦地案内標識(白丸)が建っていました。
10時35分、地蔵堂(交差点手前左側)   ※開戦地案内標識(交差点先の右角)
083 地蔵堂     084 関ヶ原の戦い開戦地標識
街道は松尾交差点を斜め左方向に進みました。
※分岐(松尾交差点)斜め左方向
085 分岐(左)
松尾交差点から約140m歩くと、先のY字路分岐で左方向に進む道路に突き当たり、右角に不破関東城門跡の標板が建っていました。
10時37分、不破関東城門跡(右側)
086 不破関東城門跡
この辺りは雨が止んでいたので、寄り道しながら進むことにし、突き当たった道路を
①斜め左(右側に井上神社の社標=白丸)に横断し、
②約60m先を左折しました。
※①分岐(斜め左に横断)     ※②分岐(左折)
087 分岐(左)   088 分岐(左折)
分岐を左折して約30m進むと、右側に春日神社が祀られており、この場所は南宮山の頂きに出る月見の名所だったそうで、境内の大杉は月見宮大杉と呼ばれ樹齢は約800年だそうです。
10時38分、春日神社(右側)
089 春日神社  090 月見宮の大杉
春日神社の道を挟んだ左側は東軍の武将・福島正則の陣所跡があった処で、跡碑が建っていました。
10時39分、福島正則陣所跡(左側)
091-2 解説  091 福島正則陣跡
陣所跡から街道に戻り約110m進むと、右側に不破関庁舎跡・大海人皇子の兜掛石・沓脱石の案内標識が建っており、
①標識に沿って右折       ②建物の間を進む       ③案内標識の手前を左折
092 分岐(右折)  092-2 分岐(草道)  092-3 分岐(左折)
して道なりに進むと、畑の中に不破関庁舎跡・兜掛石があり、さらに畑道を奥に進むと沓脱石がありました。
10時43分、不破関庁舎跡・兜掛石         
093 兜掛石
※沓掛石
094 沓脱石  094-2 沓脱石
街道に戻り約80m歩くと、左側に不破関跡がありました。
10時46分、不破関跡(左側)
095 不破関跡
不破関跡の先隣りは三輪家で、門前に不破関守跡碑が建っていました。
10時47分、不破関守跡(左側)
096 不破関守址  096-2 不破関守址
街道はこの先でY字路分岐となり、分岐点に道標が建っていました。
※分岐(Y字路)=左側
097 分岐(右側)
10時48分、道標(分岐点)

098 道標
街道は分岐を左方向に進みますが、分岐を右方向に約30m進むと不破関資料館があるので立ち寄りました。
分岐点の道標近くに、芭蕉句碑が建っていました。
10時48分、芭蕉句碑(右側)
099 芭蕉句碑
分岐点を右方向に約30m進むと、資料館に入る分岐があり、坂道を上って資料館に向かいました。
※分岐(右折)
100 分岐(右)
10時50分~11時03分、不破関資料館(右側)

101 不破関資料館
不破関は壬申の乱(672年)以降に設けられた関で、破れ不る関を意味しており、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)の関とともに古代律令制下の三関の一つです。
入場料100円を支払い館内に入って展示物を見学した後、水分補給やトイレを済ませ気持ち新たに分岐点に戻り先に進みました。
分岐点から約90m坂を下ると、左側に不破関西城門跡の標板が建っていました。
11時04分、不破関西城門跡(左側)
102 不破関西城門跡
不破関西城門跡の直ぐ先に戸佐々神社の参道口(白矢印)がありましたが、立ち寄らないで先に進みました。
※戸佐々神社入口(左側)
103 戸佐々神社入口
戸佐々神社入口から約40m歩くと、藤古川に架かる藤下橋がありました。
11時05分、藤下橋         ※藤古川(左方向)
104 藤下橋  105 藤古川(左)
藤古川は、壬申の乱の時、両軍がこの川を挟んで対峙したそうです。
藤下橋を渡り約20m進むと、左側に若宮八幡神社の社標が建っていました。
11時06分、若宮八幡神社社標(左側)
106 若宮八幡神社社標
社標から急坂を上るなど約100m歩くと、Y字路分岐となり右方向に進みました。
※分岐(Y字路)右方向
107 分岐(右側)
分岐点に大谷吉隆の墓道標があり、約20m先の左側に箭先地蔵堂が祀られており、地蔵堂の先隣りに矢尻の池跡がありました。
11時08分、箭先地蔵堂(左側)   
108 地蔵堂 
※矢尻の池跡
109 矢尻の池(井戸跡)
矢尻の池跡は壬申の乱の時、大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったと云われる井戸跡がありました。
約90m歩くと、先のY字路で左方向に進む道に合流し、街道は右方向に進みます。
突き当たった道路を左に横断すると、自害杉三本杉の案内標識が建っていたので、見に行くことにしました。
案内標識には約150mと記されていましたが、歩いて行くと防護柵で行き止まりとなり、黒血川の標識が建っており、三本杉は左側から山に上るようでしたので、そのまま入口まで戻ることにしました。
※分岐(左方向=白矢印)    ※行き止まり        ※解説標板=黒血川
110 分岐(右街道、左三本杉)  111 黒血川 111-2 解説
街道に戻り約40m歩くと、
①高架道路のトンネルを潜り、約60m進む
②R21号に合流し、道路を横断して左方向に約50m歩くと東海自然道歩道橋があり、
③歩道橋の先でY字路を右方向に進みました。
※①トンネルを潜る       ※②R21を横断して左方向  ※③Y字路を右方向
112 トンネル潜る  113 分岐(道路横断)  114 分岐(右側)
Y字路を右方向に約60m歩くと、右前方の山中に大谷吉継の陣跡と思える場所が眺められました。
11時17分、大谷吉継陣所跡
115 大谷吉継陣跡  115-2 大谷吉継陣跡
陣所跡が見える場所から約50m歩くと、右側に立場跡があり解説標板が建っていました。
11時20分、立場跡(右側)
116 立場跡
立場跡から約60m歩くと、若宮八幡神社参道入口があり、脇に社標が建っていました。
11時21分、若宮八幡神社参道入口(右側)
117 八幡神社参道入口
また、参道入口の真向かいに、大谷吉継の墓と陣跡の碑が建っていました。
11時22分、大谷吉継の墓と陣跡碑(右側)
118 大谷吉継陣跡解説
若宮八幡神社入口から約180m歩くと、右側に山中間の宿跡があり、標柱が建っていました。
また、この場所は高札場が設置されていました。
11時24分、山中間の宿跡 ・ 高札場跡(右側)
119 山中間の宿跡(高札場跡)
山中間の宿跡から約60m歩くと、壬申の乱の時、流血で川底の岩石が黒く染まったと云われる黒血川が流れていました。
11時25分、黒血川
※右方向               ※左方向
120 黒血川(右)  120-2 黒血川(左)
黒血川から約90m歩くと、右側に鶯瀧地蔵、黒血川地蔵が安置されている三地蔵が祀られていました。
11時26分、三地蔵(右側)
121 三地蔵
三地蔵の真向かい(進行左側)は年中鶯の鳴く平坦地の滝として知られた鶯の滝がありました。
11時27分、鶯の滝(左側)
122 鶯の滝  122-2 解説
鶯の滝の先で、
①Y字路となり右方向に進み約30m先のガードを潜り、
②ガードを出た約30m先のY字路を左方向に進み、
③左方向に約110m進むと右側に「常磐御前の墓」の標識の手前を右折しました。
※①              ※②             ※③
123 ガードを潜る  125 分岐(左)  126 分岐(右側)
右折して路地を進むと竹塀に囲まれた中に常磐御前が祀られた墓(白丸)がありました。
11時31分、常磐御前の墓(右側)
127 常磐御前の墓  127-3 解説
常磐御前は鞍馬山から東国に向かった牛若丸を案じ、乳母の千草と後を追い、山中の宿で土賊に殺されてしまいました。
また、お墓の後方に、芭蕉句碑と化月坊が建っていました。
11時31分、芭蕉句碑と化月坊(右側)
128 芭蕉句碑と化月坊
街道に戻り約30m歩くと、舗装路に合流し、右方向に進みました。
※分岐(合流)右方向
129 分岐(合流)
合流して右方向に約90m歩くと、左側に道標を兼ねた山中大師石仏が建っていました。
11時34分、山中大師石仏道標(左側)
130 山中大師道標
石仏道標から約70m歩くと、右側に常磐地蔵が祀られていました。
11時35分、常磐地蔵(右側)
131 常磐地蔵
常磐地蔵から約300m緩やかな坂を上るとJR東海道本線の山中踏切がありました。
この踏切は、14年前に旅した先人のHPに左前方に木立でできたメガネがあったと掲載されていたので、同じ所を通る今回はどうなっているだろうと同じ場所から見る景色を楽しみに山中踏切に立ちました。
11時39分、山中踏切(横断)
132 山中踏切
※14年前
先人のブログが削除したようで写真掲載出来なくなりました。
※現在
133 木立の穴?
踏切から同じ方向を眺めると、残念ながら木立のメガネはなくなっていて、見ることはできませんでした。
樹木は剪定をしているわけではないと思いますので、14年の歳月で変化したようです。
山中踏切を横断し、緩やかな上り坂を歩くと次第に傾斜がきつくなり、息を整えながら上っていると東海道本線のトンネルが見えてきました。
上り坂はトンネル入口を過ぎてしばらく歩いた所が頂上付近となり、右側に今須峠碑が建っていました。
※上り坂               ※JR東海道本線のトンネル入口
134 今須峠上り道  135 東海道本線のトンネル口
11時48分、今須峠
         ※今須峠碑
136 今須峠  136-2 峠碑
今須峠の厳冬期は積雪が多く難所だったそうです。
峠を過ぎると下り坂となり、上り坂の時の2倍くらいの速度で下って行くとR21に合流し右方向に進みましたが、合流点の右側に中山道標柱が建っていました。
11時50分、中山道標柱(右側)
138 中山道標柱
※分岐(R21合流)右方向

137 分岐(合流)
分岐から約50m歩くと左側に、日本橋から114番目の一里塚跡があり、復元された今須一里塚跡が建っていました。
11時51分、114今須一里塚跡(左側)
139 114今須一里塚跡  139-3 一里塚碑
現在の一里塚はR21号の敷設で撤去され、本来の位置より東側に復元されました。
街道は一里塚跡から約120m歩くと分岐があり、
 ①.左側の側道に入り、
 ②.松浦組の右側を通って
進みました。
※分岐①                 ※分岐②
140 分岐(直進)  141 分岐(右側)
松浦組から約60m先の雨谷川に架かる門前橋を渡り、さらに約60m歩くと中挟川に架かる今須橋があり、渡って進みました。
11時56分、今須橋         ※中挟川(右方向)
142 今須橋  142-2 中挟川
今須橋を渡ると直ぐの左側に銅板葺木造の常夜燈が建っていました。
11時56分、銅板葺木造常夜燈(左側)
143 常夜燈
常夜燈から約80m歩くと、左側の生活改善センターの前に本陣跡・脇本陣跡の解説標板が建っていました。
11時57分、本陣跡・脇本陣跡(左側)
144 本陣跡・脇本陣跡
関ヶ原合戦に勝利した家康は本陣(伊藤家)で休息したそうです。
本陣跡の斜め向かいは妙応寺参道入口で、R21とJRのガードを潜って行きます。
11時58分、妙応寺参道入口(右側)
145 妙応寺参道入口
妙応寺はこの地を治めた長江氏4代目重景が、母妙応の菩提を弔うために創建し、菩提寺にしました。また、妙応が年貢の取り立てを大枡、米の貸付を小枡と異枡を用いたことが「今須」の地名由来になっているそうです。
妙応寺参道入口から約30m歩くと、左側に小中学校が一緒の今須小中学校があり、小学校と中学校それぞれの校門が建っていました。
11時59分、今須小中学校校門(右=小学校、左=中学校)
146 今須小・今須中・門柱
今須小中学校から約150m歩くと、右側に問屋場跡があり、家屋の前に解説標板が建っていました。
12時02分、問屋場跡(右側)
147 問屋場跡
問屋場は山崎家が勤め、文政3(1820)年築の建物が現存し、偉容を伝えている貴重な建物で、縁起の良い永楽通宝の軒丸瓦があるそうです。
問屋場跡から約50m進んだ左側に、ベンガラ塗りの家があり、この先数多くのベンガラ塗りの家が建っていました。
12時03分、ベンガラ塗りの家(左側)
148 ベンガル塗りの家
ベンガラ色で塗るのは何故なのか理由は分かりませんが、一説には魔除けのためとも云われており、滋賀県で多く見られます。
ベンガラ塗りの家の先隣りに金毘羅大権現永代常夜燈が建っていました。
12時04分、金毘羅大権現永代常夜燈(左側)
149 金毘羅大権現永代常夜燈
常夜燈から約60m歩くと、右側に愛宕神社の参道口があり、参道の途中に山燈籠(白丸)が建てられていました。
12時06分、愛宕神社参道口(右側)   ※山燈籠(右側)
150 愛宕神社参道口     151 山燈籠
山燈籠から約450m歩くと、左側に今須八幡神社の鳥居が建っていました。
12時13分、今須八幡神社(左側)
152 今須八幡神社・鳥居
鳥居から約110m歩くと十字路があり、その手前の左側に山燈籠が建っていました。
12時14分、山燈籠(左側)
153 山燈籠
山燈籠の直ぐ先の十字路に、今ではローカルでないと見ることができなくなった、珍しい一灯式の点滅信号がありました。
12時15分、一灯式点滅信号
154 一灯の信号
十字路から緩やかな上り坂を約160m歩くと、左に入れる草道があり、奥に車返地蔵があるので立ち寄りました。
※分岐(草道)左側
155 分岐(左)
草道を約20m進むと、左側に車返しの坂碑が建っていました。
12時18分、車返しの坂碑(左側)
156 車返しの坂碑
坂碑からさらに坂を上って進むと、正面に車返地蔵が祀られており、地蔵尊までの草道が旧中山道の痕跡です。
12時18分、車返地蔵(左側)
157-2 車返地蔵尊
地蔵尊から街道に戻り、下り坂を約40m進むと、R21の今須交差点となり、斜めに横断して進みました。
※分岐(今須交差点)斜め横断
158 分岐(横断)
交差点を渡って約40m歩くと、JR東海道本線の車返踏切があり、渡って進みました。
12時21分、車返踏切(渡る)
159 車返踏切
踏切から約140m歩くと、右側に寝物語の里を通る時に詠んだ「正月も美濃と近江や閏月」が記された芭蕉句碑が建っていました。
12時23分、芭蕉句碑(右側)
160 芭蕉句碑
芭蕉句碑から約40m歩くとY字路があり左側に進みました。
そしてY字路分岐から約30m歩くと、美濃国と近江国の国境があり、1尺5寸の水路と両側に石碑が建っていました。
12時24分、美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境碑(左側)
161 国境(岐阜・滋賀境)
国境碑から約10m先の右側に、寝物語の里碑が建っていました。
12時25分、寝物語の里碑(右側)
162 寝物語の里碑
寝物語は、美濃側に旅籠両国屋、近江側に旅籠かめやがあり、寝ながら話しが出来たことに由来しているそうです。
寝物語の里碑から約120m歩くと、長久寺集会所の前に寝物語の里碑が建っていました。
12時27分、寝物語の里碑(左側)
163-2 寝物語の里碑
長久寺集会所から約190m歩くと、左側にベンガラ塗りの家があり、記録に残しました。
12時29分、ベンガラ塗りの家(左側)
164 ベンガル塗りの家
ベンガラ塗りの家の先はカエデの木が植生されており、カエデ並木として大切にされています。
※カエデ並木
165 カエデ並木
ベンガラ塗りの家から約300m歩くと、右側の斜面に弘法大師御佗水碑が建っていました。
12時34分、弘法大師御佗水碑(右側)
166 弘法大師御陀水碑
弘法大師御佗水碑の辺りは緩やかな上り坂の野瀬坂です。
※野瀬坂
167 野瀬坂
弘法大師碑から約270m歩くと、右に分岐する道(長比城跡登り口)があり、手前右側に中山道碑と長比城跡登り口(赤矢印)標石が建っていました。
12時37分、中山道碑 ・ 長比城跡登り口標石=右側
168 中山道碑  169 長比城址上り口標石
分岐先の右側に、神明神社の鳥居と参道口、隣に旧東山道の道標が建っていました。
12時38分、神明神社鳥居 ・ 旧東山道道標=右側
170 神明神社・参道口  171 旧東山道道標
長比城跡登り口分岐から約110m歩くと分岐があり、
①分岐を左折してJR東海道本線の野瀬踏切を渡り、
②渡った直ぐに右折し線路に沿って進みました。
※分岐①            ※分岐②
172 野瀬踏切  173 分岐(右)
踏切を渡り約80m歩くと、左側に柏原宿碑が建っていました。
12時42分、柏原宿碑(左側)
174 柏原宿碑
柏原宿碑から約110m歩くと、右側に照手姫笠掛地蔵が祀られていました。
12時43分、照手姫笠掛地蔵(右側)
175 照手姫笠掛地蔵
照手姫笠掛地蔵から約300m歩くと、柏原宿の江戸(東)口の東見附跡があり、右側に解説標板が建っていました。
12時47分、柏原宿東見附跡(右側)
177 柏原宿東見付跡  177-2 解説
東見附跡から約80m歩くと、右側に竜宝院跡があり、標石が建っていました。
12時49分、竜宝院跡(右側)
178 龍宝院跡碑
竜宝院跡から約30m歩くと、右側に芭蕉句碑が建っていました。
12時50分、芭蕉句碑(右側)
179 芭蕉句碑
芭蕉句碑の先隣りに八幡神社が祀られており、鳥居の所から一礼して失礼しました。
12時51分、八幡神社(右側)
180 八幡神社
八幡神社から約180m歩くと、右側に旅籠の看板が立ててありました。
12時53分、旅籠の看板(右側)
181 旅籠跡
旅籠の看板から約30m歩くと、JR東海道本線の柏原駅入口分岐があり、遠くの駅舎(白丸)を記録に残しました。
12時54分、柏原駅入口(右側)
182 柏原駅入口
柏原駅入口から約90m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
12時57分、問屋場跡(左側)
183 問屋場跡
柏原宿には6軒の問屋場があり、東西3軒ずつに分かれ、10日交代で勤めていたようです。
問屋場跡の直ぐ隣に、当日中に処理できない荷を蔵に保管した東の荷蔵跡がありました。
12時57分、東荷蔵跡(左側)
184 問屋場解説・東の荷蔵跡
荷蔵は、藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。
東荷蔵跡の直ぐ先の左側に、旧旅籠の湊屋跡と銭屋跡がありました。
12時58分、旧旅籠・湊屋、銭屋=左側
※旧旅籠・湊屋跡          ※旧旅籠・銭屋跡
185 旧旅籠・湊屋  186 旧旅籠・銭屋
旧旅籠の湊屋、銭屋の道路反対側に南部源右衛門が勤めた脇本陣跡があり、問屋も兼ねていました。
12時59分、脇本陣跡・問屋場跡(右側)
187 脇本陣跡
脇本陣跡から約40m進んだ左側(滋賀銀行の先隣り)に、旧旅籠俵屋跡がありました。
13時00分、旧旅籠・俵屋跡(左側)
188 旅籠跡(俵屋)
旧旅籠・俵屋跡の先の左側に、旧旅籠・京丸屋跡がありました。
13時00分、旧旅籠・京丸屋跡(左側)
189 旅籠跡(京丸屋)
京丸屋の道路向かい側に、往時4軒あった造り酒屋の1つである西川屋跡がありました。
13時00分、造り酒屋・西川屋跡(右側)
190 造り酒屋跡(西川屋)
西川屋の先隣りに、問屋と庄屋を兼ねた吉村家で、映画監督の吉村公三郎の実家がありました。
13時01分、問屋場跡(吉村公三郎の実家)=右側
191 吉村公三郎実家
問屋場跡の門前脇に宿場絵図が建てられており、絵図の先隣りに宿場東の庄屋を勤めた吉村家がありました。
13時02分、東の庄屋跡(吉村家)=右側
193 東の庄屋跡
東の庄屋跡の先の右側に、行燈式の看板が残っている渋谷酒店がありました。
13時03分、行燈形看板(渋谷酒店)=右側
194 行燈形看板  194-2 確認用
渋谷酒店の先に南部辰右衛門が勤めた本陣跡があり、標石と解説標板が建っていました。
13時04分、本陣跡(右側)
195 本陣跡  195-2 解説
本陣の建物は皇女和宮の宿泊に合わせて建て替えられ、和宮の夫の第14代将軍家茂も第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊したそうです。
本陣の先の路地の角に、戎の宮市場寺跡の標板が掲げられていました。
13時04分、戎の宮 市場寺跡(右側)
196 戎の宮(市場寺跡)
市場寺跡から約15m進むと市場橋の手前右角に秋葉山常夜燈が建っており、常夜燈の右脇に高札場跡の解説標板が建っていました。
13時05分、秋葉山常夜燈・高札場跡=右側
197 秋葉常夜燈・高札場跡
常夜燈を通り過ぎると市場川に架かる市場橋(初恋橋)があり、渡って進みました。
13時05分、市場橋(初恋橋)    ※市場川(右方向)
198 市場橋  198-2 市場川
市場橋を渡って約60m歩くと、左側に寛文元(1661)年に創業した伊吹もぐさ店の亀屋がありました。
13時07分、伊吹堂亀屋左京店(左側)
199 伊吹堂亀屋左京店  199-2 伊吹堂
伊吹堂の真向かいに、造り酒屋巌佐九兵衛跡があり、家屋横に解説標板が建っており、醸造樽が残っていました。
13時07分、造り酒屋巌佐九兵衛跡(右側)
200 造り酒屋跡  200-3 酒樽
店には慶長年間に酒造りした記録が残されており、江戸期に醤油醸造に転業しましたが、明治初頭に酒造りに戻ったそうです。
造り酒屋巌佐九兵衛跡の先隣りは造り酒屋山根庄太郎跡があり、家屋の左側に屋号の看板が掲げられていました。
13時08分、造り酒屋山根庄太郎跡(右側)
201 造り酒屋(山根)
造り酒屋山根庄太郎跡の先隣りは旧柏原村役場があった所みたいで、入口脇の石柱に表札が掲げられていました。
13時08分、旧柏原村役場跡(右側)
202 旧柏原村役場跡
村役場跡の先隣りが柏原歴史館で、昼食は併設されている喫茶・柏で食べることにしていたので、立ち寄りました。
《昼食》 13時09分~13時33分、柏原歴史館「喫茶・柏」
昼食は12時前後に食べたいのですが、関ヶ原駅付近だと10時30分頃の通過で時間的に早すぎてしまい、次に食べられる場所は柏原駅付近になってしまい、柏原宿だと13時過ぎになってしまいます。
そのため行動食を持参し、少し遅くなっても大丈夫な状態にして柏原宿歴史館に併設されている喫茶「柏」で食べることにしました。
※柏原宿歴史館            ※喫茶・柏
203-2 入口  204 喫茶柏
日曜日ですが、昼過ぎの時間に到着したので店内は空いており、まず冷たい水でひと息着き、お奨めの「やいとうどん」(600円)を注文しました。
204-2 やいとうどん
やいとうどんは、かけうどんの中にとろろ昆布、紅しょうが、ゆで卵が入っているもので、地域の名物のようです。
名前の由来は、お灸のことを「やいと」っており、それに因んで、うどんの上に載っているのは、もぐさに見立てたとろろ昆布と、火に見立てた紅ショウガ、そしてゆで卵を半分に切ったものを台にして載せています。
とてもユニークなうどんでした。
また、朝買って持参してきたお握りを、お店の許可を得て、うどんが配膳される前に食べさせて頂きました。
柏原歴史館は天候の変化を考え、特に見たいというものがなかったのと、雨が止んでいるうちに先に進みたいとのことで、立ち寄らないで先に進むことにしました。
柏原歴史館を出発して約40m歩くと、左側にレーク伊吹農協柏原支点があり、敷地の左角に柏原小学校跡の解説標板が建っていました。
13時34分、柏原小学校跡(左側)
205 柏原小学校跡地  205-2 解説
柏原小学校跡の斜め向かいは日枝神社の参道入口で、街道からでしたが、一礼して参拝の代わりにさせて頂き先に進みました。
13時35分、日枝神社(右側)
206 日枝神社
日枝神社から約80m歩くと、右側にさわや日用品店があり、家屋の二階が虫籠窓になっていました。
13時37分、虫籠窓の家(右側)
207 虫籠窓の家
虫籠窓(むしこまど)は、京町家特有の低い二階(厨子二階)にある塗り壁の窓のことで、その姿形が「むしかご」のようだからとされるようです。二階の通風や採光のために設けられたもので、古いものほど小さい場合が多いそうですが、姿を消しつつある意匠です。
さわや日用品店から約70m歩くと、左側に柏原福祉交流センター入口の標柱があり、標柱の右側に問屋場でもあった西荷蔵跡があり、解説標板が建っていました。
13時38分、西荷蔵跡(問屋場跡)=左側
208 西の荷蔵跡
西荷蔵跡の直ぐ隣りに白壁の虫籠窓の柏原銀行跡で、建物の脇に解説標板が建っていました。
13時40分、柏原銀行跡(左側)
209 柏原銀行跡・虫籠窓
柏原銀行跡の建物も虫籠窓の建物で、さらに先隣りも白壁の虫籠窓の建物になっていました。
※虫籠窓
210 虫籠窓の家
虫籠窓の建物から約20m歩くと、左側に薬師道道標が建っていました。
13時41分、薬師道道標(左側)
211 薬師道道標
道標から約30m歩くと、右側に問屋役(山根家)跡があり、板塀に標板が掲げられていました。
13時42分、問屋役跡(右側)
212 問屋役跡(山根)
問屋役跡から約30m歩くと十字路があり、十字路を右折して約10m進んだ左側にお茶屋御殿跡があり、標石と解説標板が建っていました。
13時43分、お茶屋御殿跡(右側)
213 お茶屋御殿跡
お茶屋御殿跡から十字路に戻り街道を横切って(街道の進行方向の左側)約10m進むと、左側に釣り鐘モニュメントが建っていました。
13時45分、釣り鐘モニュメント(左側)
214 釣り鐘モニュメント
街道の十字路に戻り約30m進むと、左側の消火栓の手前に、武士や公用の庄屋等の休泊所であった郷宿跡があり、木製の解説標板が建っていました。
13時46分、郷宿跡(左側)
215 郷宿跡
郷宿跡から中井川橋を渡るなど約140m歩くと、右側に金毘羅山常夜燈が建っていました。
13時48分、金毘羅山常夜燈(右側)
216 金毘羅山常夜燈
常夜燈から約25m歩くと中井川に架かる丸山橋があり、渡って進みました。
13時49分、丸山橋         ※中井川(右方向)
217 丸山橋  217-2 中井川
丸山橋を渡り約20m歩くと左折できる分岐があり、左折(白矢印)する角に一里塚標石が建っており、橋を渡った右側に、日本橋から115番目の一里塚跡があり、復元された柏原一里塚がありました。
※分岐(左折)
218 分岐(左折)
13時50分、115柏原一里塚跡(左側)

219 115柏原一里塚跡  219-2 解説
一里塚跡から街道に戻り、街道を進むと直ぐ右側に、愛宕神社参道の石段がありました。
13時52分、愛宕神社参道入口(右側)
220 愛宕神社参道
愛宕神社参道入口から約160m歩くと、左側に柏原宿西の入口だった西見附跡があり、左側に解説標板が建っていました。
13時54分、西見附跡(左側)
221 西見付跡  221-2 解説
西見附跡から約30m歩くと、右側の段上に六地蔵が祀られていました。
13時55分、六地蔵(右側)
223 六地蔵
六地蔵から約20m歩くと、左側に東山道と九里半街道の解説標板が建っていました。
13時56分、東山道と九里半街道碑(左側)
224 東山道と九里半街道碑  224-2 絵図
九里半街道とは、中山道関ヶ原宿から番場宿の間の街道で、九里半街道と呼ばれていたそうです。
東山道と九里半街道碑から約40m歩くとY字路があり、右方向に進みました。
Y字路から約170m歩くと、右側に鶯が原の解説標板が建っていました。
13時59分、鶯が原(右側
225 鶯が原
鶯が原標板から約300m歩くと、区間を定めて整備清掃する掃除丁場と並び松の解説標板が建っていました。
14時03分、掃除丁場 ・ 並び松(右側)
226 掃除丁場と並び松
並び松は解説標板から右側に若い松が植生されていました。
掃除丁場標板から奥手川に架かる橋を渡るなど約160m歩くと、右折分岐の手前左角に道標(白丸)が建っていました。
14時06分、薬師道道標(左側)
227 薬師道道標
道標の直ぐ先の右側に、白山神社の参道があり、鳥居が建っていました。
14時06分、白山神社・鳥居(右側)
228 白山神社
白山神社参道入口から右側の長沢集会所を通り過ぎるなど約200m歩くと、Y字路分岐があり、右方向の土道に進みました。
Y字路分岐の分岐点に、小川関跡の標石が建っており、後部に菖蒲ケ池跡の標石が建っていました。
※分岐(Y字路)=右方向
229 分岐(右)
14時09分、小川関跡 ・ 菖蒲ケ池跡=分岐点

230 小川関跡  231 菖蒲ケ池跡
Y分岐から約80m歩くと獣害防止金網フェンスが設置されており、鍵を開けて中に入り、扉を閉めて鍵を掛けてから進みました。
14時10分、獣害防止金網フェンス
232 鳥獣防止フェンス
金網フェンスの中に入ると、右側のフェンス沿いに十善寺跡標石が建っていました。
14時12分、十善寺跡標石(右側)
233 十善寺跡
十善寺跡標石から約10m先の右側に、小黒谷遺跡跡標石が建っていました。
14時13分、小黒谷遺跡標石(右側)
234 小黒谷遺跡跡
今日は雨が少し降ったりしましたが、ほとんどの時間は止んでいたので、グチャグチャ道にならず助かりました。
※土道①          ※土道②
235 街道 236 街道
金網ネットから約400m、小枝が落ちている土道を歩くと、T字路に突き当たり、左折して約15m進むとまたT字路をとなり、右折して進みました。
14時19分、分岐(T字路)左折⇒右折
237 分岐(左折⇒右折)
分岐T字路を左折して約15m進み、次のT字路の手前左側に歴史街道の標石が建っていました。
14時19分、歴史街道標石(左側)
238 歴史街道標石
標石先のT字路を街道は右折して進むのですが、逆方向の左側に約20m進むと右側に番の面遺跡の解説標板が建っていました。
14時20分、番の面遺跡(右側)
239 番の面遺跡碑
番の面遺跡から街道に戻り約70m歩くと、右側に沢山の地蔵尊が並んだ地蔵堂が祀られていました。
14時23分、地蔵堂(右側)
240 地蔵堂
地蔵堂から約40m歩くと、左側に墓跡黒谷遺跡標石と中山道自然石道標が建っていました。
14時24分、墓跡黒谷遺跡標石と中山道自然石道標(左側)
242 墓跡黒谷遺跡
墓跡黒谷遺跡標石から約10m歩くと右折できる分岐があり、分岐の手前右角に中山道碑が建っていました。
14時24分、中山道碑(右側)
241 中山道碑中山道碑から約40m歩くと、R21に合流する分岐があり、街道はそのまま真っ直ぐに進みました。
※分岐(R21)直進
243 分岐(直進)
分岐をR21に左折しないで直進し、200m歩くと梓川に架かる梓橋があり、渡って進みました。
14時28分、梓川(右方向)
244 梓川
梓橋を渡り、約600m歩くと右折できる分岐があり、分岐の右角に横川の駅家(よかわのうまや)跡の解説標板が建っていました。
14時35分、横川の駅家跡(右側)
245 横川の駅家跡
横川の駅家跡標板の先の左側はモーテルで、真向かいの右側には醒ヶ井松並木(私の命名)が立ち並んでいました。
※醒ヶ井松並木(右側)
246 柏原松並木
横川の駅家跡標板から約260m歩くと、街道は左に曲がり約40mでR21に突き当たり、右角のモーテルのホテルリスボン沿って右方向に進みます。
※分岐(R21に合流)右方向
247 分岐(右)
R21の進行右側を約110m歩くと右側に信光陸運の辺りで、道路を横断し進行左側に移動しました。
※R21を横断(進行方向・右から左)
248 街道
R21の一番左側を歩くと右側に中山道碑(R21沿いだと左側)が建っており、約350m歩くと
 ①.中山道碑を右側に見て歩くと、直進
  249 分岐
 ②.中山道碑を左側に見て歩くと、Y字路分岐があり、左方向
  250 分岐(左)
に進みました。
R21の分岐から約300m歩くと、右側に八幡神社が祀られており、鳥居から本殿に向かって礼拝し先に進みました。
14時49分、八幡神社(右側)
251 八幡神社
八幡神社から約160m歩くと、左側に日本橋から116番目の一色一里塚跡があり、跡地に標石が建てられていました。
14時52分、116一色一里塚跡(左側)
252 116一色一里塚跡  252-2 一里塚碑
一里塚跡から約290m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
14時55分、地蔵堂(左側)
253 地蔵堂
地蔵堂から約50m進むと、右側に建屋に囲まれた佛心水(井戸)がありました。
14時56分、佛心水(右側)
254 佛心水(井戸)
佛心水は旅人の喉を潤し、御仏の慈悲のもとで道中の安全を祈願した井戸だそうです。
佛心寺から約140m歩くと、うぐいすケ端跡の標板が左側のフェンスに掲げられていました。
14時58分、うぐいすケ端跡(左側)
255 鶯ケ端
うぐいすケ端跡標板から約30m歩くと、右に曲がる枡形道で、ここが東の江戸口に当たる東見附跡で、左側のフェンスに標板が掲げられていました。
14時59分、東枡形道・東見附跡(左側)
256 東枡形道・東見付跡  256-2 解説
右に曲がった枡形道は約25mで十字路となり、左折するのですが、その手前の左側に醒ヶ井宿碑が建っていました。
14時59分、醒ヶ井宿碑(左側)
258 醒ヶ井宿碑  258-2 絵図
醒ヶ井宿碑の先の十字路を左折して進みました。
※分岐(枡形道十字路)左折
257 分岐(左折)
十字路分岐を左折して約20m歩くと、右側にベンガラ塗りの家が建っていました。
15時00分、ベンガラ塗りの家(右側)
259 ベンガラ塗りの家
ベンガラ塗りの家から約25m歩くと、左側に茅葺き屋根をトタンで覆った家がありました。
茅葺きを交換することを考えるとトタンで覆った方が経費節減になるのでしょうが、決断するまで悩まれたのではないかと推察します。
また、茅葺き屋根をトタンで覆った家は初めて見ました。
15時01分、茅葺き屋根をトタンで覆った家(左側)
260 トタンで覆った茅葺き屋根  260-2
トタンで覆った家から約200m歩くと、左側に加茂神社の参道があり、鳥居が建てられていました。
15時05分、加茂神社・鳥居(左側)
261 加茂神社
加茂神社参道階段の先隣りに石燈籠が建っており、この辺りが醒ヶ井宿三名水の一つである居醒の清水でがあり、清水の脇にヤマトタケル像が建っていました。
15時06分、石灯籠(左側)    ※ヤマトタケル像
262 燈籠     265 日本尊の像
日本武尊は伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復したと伝えられています。
15時07分、居醒の清水(左側)
264 居醒の清水  264-2 解説
15時08分、腰掛石 ・ 鞍掛石=左側(清水の中)

264-3 左=腰掛石 右=鞍掛石
居醒の清水の中にある腰掛石・鞍掛石から約20m歩くと、左側に延命地蔵堂があり、堂の右脇に石地蔵菩薩が祀られていました。
15時11分、延命地蔵堂(左側)   ※石地蔵菩薩(堂の右脇)
267 延命地蔵堂  268 石地蔵菩薩
地蔵堂から地蔵川を渡った向かい側に、お茶つぼ本陣跡があり、民家の入口脇に解説標板が建っていました。
15時12分、お茶つぼ本陣跡(右側)
269 お茶壺本陣跡
街道の左側に居醒の清水が源の地蔵川が流れており、梅花藻が繁茂しハリヨが生息しているそうです。
※地蔵川(街道の左側)
270 地蔵川  270-2 解説
お茶つぼ本陣跡から約80m歩くと、左側に江龍家が勤めた本陣跡があり、現在は割烹本陣樋口山を営んでいました。
15時14分、本陣跡(左側)
271 本陣跡
本陣跡から約20m歩くと、左側に三階建ての民家(大林家)があり、記録に残しました。
15時15分、三階建ての家(大林家)=左側
272 三階建ての家
三階建ての民家の先の左側に、瓦葺屋根の木製消火器具箱が建てられていました。
15時16分、瓦葺屋根の木製消火器具箱(左側)
273 屋根付き木製の消火器具箱
木製消化器箱から約20m歩くと、左側に問屋場跡があり、地蔵川を渡って遺構を見に行きました。
15時16分、問屋場跡(左側)
274 醒ヶ井宿資料館  274-2 館内
問屋場は川口家が勤め、現在は遺構が米原市醒ヶ井宿資料館になっていました。
問屋場跡から約25m歩くと、右側に明治39(1906)年に創業したヤマキ醤油店がありました。
15時19分、ヤマキ醤油店(右側)
275 ヤマキ醤油店  275-2 店内
ヤマキ醤油店から約60m歩くと、右側に旧旅籠の多々美屋があり、現在は料理旅館を営んでいました。
15時21分、旧旅籠多々美屋跡(右側)
276 旧旅籠多々美屋
旧旅籠多々美屋跡から約30m進むと、右側に問屋や庄屋を勤めた江龍家の門があり、門脇に明治天皇駐輦所碑が建っていました。
15時21分、明治天皇駐輦所碑(右側)
277 明治天皇駐賛碑
明治天皇碑から山門が彦根城の城門から移築されたという法善寺があり、街道を離れて見学に行きました。
15時23分、法善寺・山門(右側)
278 法善寺・山門
法善寺から街道に戻り約90m歩くと、右側に了徳寺参道入口があり、境内に国の天然記念物で葉の上に実を付ける御葉附銀杏が生育されており、了徳寺参道入口に標石が建っていました。
15時26分、御葉附銀杏(右側)
279 御葉附銀杏  279-2 標石
了徳寺参道入口から約40m歩くとY字路となり、左側の醒ヶ井大橋を渡って進みました。
醒ヶ井大橋の手前左側に、醒ヶ井三名水の一つである十王水があり、地蔵川に石燈籠、川沿いに解説標板が建っていました。
15時27分、十王水(左側)
280 十王水
※分岐Y字路(醒ヶ井大橋)=左方向

281 醒井大橋・分岐(左)
醒ヶ井大橋を渡り約70m歩くと、右側に赤い消火ホース入れがあり、その脇に子供狂言上演場跡があり、解説標板が建っていました。
15時28分、子供狂言上演場所跡(左側)
282 子供狂言上演場
子供狂言上演場所跡から約60m歩くと、左側に西行水、泡子塚がありました。
15時29分、西行水・泡子塚(左側)
283 西行水・泡子像
西行水から約130m歩くと、右側に醒ヶ井宿標石が建っており、ここが醒ヶ井宿の京(西)口だった西見附跡です。
15時31分、醒ヶ井宿標石・西見附跡(右側)
284 醒ヶ井宿標石(京口)  284-2 宿標石
宿標石から約140m歩くと十字路があり、左角に松尾寺への道標が建っていました。
15時32分、松尾寺道標(左側)
286 松尾寺道標
十字路を右折して約210m歩くとJR醒ヶ井駅ですが、次の旅のことを考え右折しないで真っ直ぐ横断して進みました。
※分岐(十字路)=直進
285 分岐(直進)
分岐十字路から約140m歩くと、右側に亨保9(1724)年に大和郡山藩領の境に建てられた茶屋跡に標柱が建っていました。
15時34分、六軒茶屋跡(右側)
287 六軒茶屋跡
六軒茶屋跡から約100m歩くと、R21号と合流分岐となり、今日の到着地に着きました。
15時36分、醒ヶ井・R21合流分岐(到着地)
288 R21合流分岐(到着地)  288-3 到着地
到着地を記した看板を掲げ、Mさんと交互に到着式を行い、今日の旅を終えました。
【宿泊】
《移動》
到着式を行いR21号分岐合流から歩道のない国道をヒヤヒヤしながら歩き、約350m離れた醒ヶ井駅前交差点に着き、左折して駅舎に向かいました。
※分岐(醒ヶ井駅前交差点)=左折
289 醒ヶ井駅入口
15時42分、JR東海道本線・醒ヶ井駅着

290 醒ヶ井駅
駅舎に入り駅員にパスモの利用有無を確認すると、「利用できない」と回答され切符を購入しようかと思っていると、駅員が「これを改札で出してパスモで精算して下さい」と乗車証明書を交付して下さり、下車駅の米原駅で精算することになりました。
JR東海道本線でパスモが使えない駅があることと、気の利いた対応ができる駅員がいることを知りました。
〔Yumiさんの思い出〕
※醒ヶ井駅のホーム
290-2 醒ヶ井駅ホーム
醒ヶ井駅の改札を通りホームに入ると、Yumiさんと旅した『東海道夫婦二人旅(H24.11.10 第8回旅)』の時に乗降した東田子の浦駅のホームと同じ形に見え、Yumiさんがホームの跨線橋を渡ってゴミを捨てに行った時のことを思い出しました。
16時03分、醒ヶ井駅発
290-3 醒ヶ井駅
16時09分、米原駅着

291 米原駅西口
終点の米原駅で降りると、大津方面への電車に走って乗り換えるばかりで、乗り換え客の多さにビックリました。
改札を出て、駅西口ロータリー横にある東横インに向かいました。
16時14分、東横イン着
292 東横イン
フロントでチェックインし、指定された部屋に入り、翌日の行程打合せ(詳細は翌日の第32回旅を参照)を行い、6時30分から朝食が食べられるので、予定していた8時03分発の電車を7時27分発に早めることにしました。
《天候》
今日は予報より早く関ヶ原駅入口手前で雨が降り出し、ザックカバーを掛け、傘を差しての旅になりましたが、雨は長く降ることなく、ほとんど傘を開かないで済みました。
今日は長い距離の旅に伴う地図(A4版22枚)の入れ替えや、街道沿いにある沢山の史跡を記録に残し(写真を撮る)たりしましたが、天気予報が外れて頂いたお陰で助かりました。
良い巡り合わせに感謝して一日の旅を終えました。

【次回の予告】
次回の第32回「旧中山道二人旅」は、
旅 日= 6月11日(月)
行 程=醒ヶ井・R21合流分岐~高宮駅入口分岐
歩程距離=約13.95㎞
で、到着地から約280m離れた高宮駅まで歩き、電車で米原駅に移動し、東海道新幹線で東京駅を経由し、自宅に帰ります。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  

    

【天候】 晴れ・風強し
【宿場】 (55)美江寺宿 ⇒ (56)赤坂宿 ⇒ (57)垂井宿
【行程】 歩行距離=12.88㎞ 総距離=447.08㎞
鷺田橋東詰⇒(2.2㎞)⇒柳瀬橋⇒(2.53㎞)⇒西浦橋⇒(1.55㎞)⇒110池尻一里塚跡⇒(2.13㎞)⇒昼飯大塚古墳⇒(2.41㎞)⇒111青野ケ原一里塚跡⇒(2.06㎞)⇒垂井駅入口
【ルート図】
  ↓宿場(桃色=第30回旅・黄色=踏破済み)
000 第30回宿場
  ↓第30回旅のルート

000-2 第30回ルート
【旧中山道二人旅】

《序章》
今日は前回の旅で到着した美江寺宿・鷺田橋東詰から垂井宿・垂井駅入口までの約12.88㎞の旅をします。
出発地となる鷺田橋東詰の最寄り駅は、樽見鉄道十九条駅で約1.5㎞離れています。
旅は最寄り駅から約500m以内の所を発着地点として考えているのですが、今回は相方の意向もあり遠く離れた場所が発着点になりました。
一人旅ではないので、致し方ありません。
また、旅の天候ですが、
 9日(大垣付近)=曇り一時晴れ
10日(関ヶ原付近)=曇り一時雨
11日(米原付近)=曇り一時雨
と予報されていたため、直前の7日に「雨天予報なので、一週間順延しますか?」と確認すると、相方が「予報される雨の程度なら大丈夫なので行きましょう」と決行の意思表示があり、変更しないで実施することになりました。
ザックはカバーを掛けてもしみ込んでくるので、ビニール袋を二重にするなどして濡れないように保護したり、ウォーキングシューズは防水スプレーを2度掛けするなどして旅の支度を整えました。
《移動》
出発の朝、4時40分にセットした目覚ましの音楽でベットを出て洗面を済ませ、旅の身支度を整え、街道旅と山行の時の我が家の定番朝食となっている焼き餅にきなこを付けた自己流安倍川餅を食べ、家を出発しました。
山手線の移動途中の駅で「倒れた人がいるので対応しています」と云って電車の出発が見合わされました。
救助処置が終わり「これから動きます」と車内放送の後、今度は「床に寝ている人がいるため確認作業を行っています」とアナウンスがあり、両方の対応で約3分遅れて出発しました。
品川駅での新幹線乗り換え時間を13分見込んでいたため、5~6分程度の遅れが出ても大丈夫と思っていましたが、早く動いてくれと祈る気持ちで待っていました。
幸いにも3分程度の遅れで動いてくれたので、助かりました。
07時40分、東海道新幹線品川駅発
ひかり503号に乗車すると社内はガラ空き状態でしたが、新横浜駅で少しの乗車があり、小田原駅でドサッと乗り込みがあり、満席状態になりました。
日本の列車は正確で寸分の狂いなく定刻で東海道新幹線は走り、到着アナウンスを聞いてから席を立ち下車口に移動しました。
09時17分、東海道新幹線名古屋駅着
名古屋駅の乗り換え時間は14分あるので、急ぐことなく東海道本線のホームに移動しました。
名古屋駅から東海道本線で大垣駅に行き樽見鉄道に乗り換えるのですが、乗り換え時間が2分しかありません。
東海道本線が到着する2番線から跨線橋を渡り樽見鉄道が発車する6番線に移動しなければなりません。
そのため走って移動する必要があり、駅員に大垣駅の最寄り階段口を教えてもらい、走る覚悟を決めて乗車しました。
09時31分、JR東海道本線名古屋駅発
001 名古屋駅東海道本線ホーム
入線して来た特別快速米原行きに乗り、定刻に名古屋駅を出発し大垣駅に向かったのですが、大垣駅に着くと2分遅れて到着しました。
10時03分、大垣駅着
「待ってて」と心の中で叫びながら扉を開くのを待って飛び出し階段を登り、走って跨線橋を渡り樽見鉄道が発着する6番線ホームに下りると、無情にも電車は発車してしまいました。
最善を尽くして対応した結果なので、致し方ありません。
次の発車は35分後のため、十九条までの切符を買い、ホームのベンチで待つなどして次の電車に乗り、下車駅に向かいました。
10時40分、樽見線大垣駅発
※樽見鉄道切符売場           ※乗車切符
002 樽見鉄道切符売場・大垣駅    003 乗車券
1両編成の電車の車内はほぼ満席状態で、多くの人はアユ料理を食べに行く人のようで、私達が下車する十九条駅は乗車ゼロ、下車3人でした。
10時50分、十九条駅着
005 十九条駅
マンマンカーの運転手さんに切符を渡して下車し、約1,500m離れた前回到着地の鷺田橋東詰に向かいました。
【=旅=】
十九条駅に着くと青空一杯の良い天気でしたが、台風の影響なのか10m/s前後の強風が吹き荒れており、バインダーの地図を差し替えるのが大変でした。
出発地の鷺田橋東詰まで移動し、旅日と出発地を記した看板を掲げて写真を撮る出発式を行い、今日の旅に出発しました。
11時08分、鷺田橋東詰(出発地)
008-1 出発地
出発して直ぐに鷺田橋となり、川を吹き抜ける強風に煽られながら歩いて渡りました。
※鷺田橋                      ※揖斐川(左方向)
009 鷺田橋   010 揖斐川(左)
出発地から鷺田橋を渡るなど約500m歩くと左側に呂久歩道橋があり、左折して歩道橋を渡ります。
11時15分、呂久歩道橋入口(左側)
011 分岐(呂久歩道橋)左折
呂久歩道橋を渡り、約120m歩くと舗装路と合流し、さらに約60m前進するとY字路分岐となり、右方向に進みます。
※分岐(Y字路)=右方向
013 分岐(右)
Y字路分岐を右方向に進もうとすると、右側に良縁寺があり、呂久の渡しで舟年寄りを勤めた馬渕善左衛門の墓標があるそうですが、立ち寄ることなく名前が良いので記録に残しました。
11時17分、良縁寺(右側)
014 良縁寺
良縁寺から約40m歩くと、白鳥神社の鳥居が建っており、約120m先に本殿が祀られていました。
11時18分、白鳥神社・鳥居(右側)
015 白鳥神社参道入口
参道入口の鳥居から約50m歩くと、敷地を石積みで補強している家が続いていました。
11時19分、石積みの家並み(両側)
016 石積み
白鳥神社参道入口の鳥居から約100m歩くと、左角にカーブミラーが設置された十字路となり、右折して進みました。
※分岐(十字路)=右折
017 分岐(右折)
十字路を右折して約20m進むと左側に即心院があり、参道口に地蔵堂が祀られていました。
11時20分、地蔵堂(左側)
018 地蔵堂
地蔵堂から90m歩くと、右側に呂久の渡しの舟年寄りを勤めた馬渕家の長屋門があり、門の脇に明治天皇御小休所跡標石(白丸)が建っていました。
11時22分、馬渕家長屋門(左側)      ※明治天皇御小休所跡標石
019 馬渕家長屋門   020 明治天皇小休止跡碑
馬渕家長屋門の前が街道の分岐で、右折して枡形状の呂久旧道を進みました。
※分岐(右折)
021 分岐(左折)
呂久旧道は分岐を右折して約60m進むと右折します。
※分岐(右折)
022 分岐(右折)
約60m歩くと左側に皇女和宮の遺徳を偲ぶ歌碑や呂久渡船場跡がある小簾(おず)紅園があり、右に曲がりながら約20m進むと、左側に観音堂が祀られていました。
11時24分、観音堂(左側)
023 観音堂
観音堂から約10m先を、小簾紅園に沿って左折しました。
※分岐(左折)
024 分岐(左折)
小簾紅園は左折してから入れるのですが、私達は分岐から約20m戻った所で中に入り見学しました。
11時25分~11時29分、小簾紅園(左側)
※小簾紅園                    ※皇女和宮歌碑         ※庭園
025 小ず紅園  025-3 和宮歌碑  025-5 庭園
※呂久渡し場跡
                  ※解説
026 呂久渡し場跡   026-2 解説
小簾紅園内の呂久渡し場跡から街道に合流して約20m歩くと、豊後川が流れていました。
この豊後川は旧揖斐川で、現在の揖斐川は大正14(1925)年の河川改修によって変更されたそうで、豊後川の写真を撮る予定にしていたのですが、撮り忘れて通り過ぎてしまいました。
豊後川から約350m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
11時34分、地蔵堂(左側)
027 地蔵堂
地蔵堂から約20m先の平野井川に架かる新橋を渡ります。
※新橋(平野井川)
028 新橋
新橋を渡ると約20mでT字路分岐となり、右折して進みます。
※分岐(T字路)=右折
029 分岐(右折)
T字路分岐を右折して土手上道に向けて約260m坂道を上ると、上り切る手前の左側に墨俣追分道標が建っていました。
11時38分、墨俣追分道標(左側)
030 墨俣追分道標
道標から約30m進むと土手上道に合流しそのまま真っ直ぐに進み(※①)、さらに街道はそのまま真っ直ぐに進むようですが、平野井川の対岸にある柳原一里塚跡に立ち寄るため、右側の道に進み(※②)ました。
※①分岐(直進)                ※②分岐(右側)
031 分岐(右)   032 分岐(右)
※②の分岐を約110m坂を下ると、右側に平野井川に架かる柳瀬橋があり、分岐を右折して柳瀬橋を渡り、渡った処を川に沿って右折します。
※分岐(右折)            ※柳瀬橋             ※分岐(右折)
033 分岐(右折)  034 柳瀬橋  035 分岐(右折)
柳瀬橋の処を右折して約60m歩くと、左側に日本橋から109番目の一里塚跡があり、跡地に解説パネルが建っていましたが、標柱は撤去されたのか建っていませんでした。
11時42分、109柳原一里塚跡(左側)
036 柳原一里塚跡   036-2 解説
柳原一里塚跡の先隣りに、神明宮が祀られていました。
11時43分、神明宮(左側)
037 神明宮
神明宮から柳瀬橋を渡った先のT字路分岐に戻り、右折して進みました。
※分岐(T字路)=右折
038 分岐(右)
T字路分岐から約80m歩くと土手上道と合流し、街道はここで約10m先のY字路分岐を左方向(黄矢印)に坂を下るのが正解でしたが、右方向(白矢印)に進んでしまいました。
※分岐(Y字路)=右方向
039 分岐(右)
右方向に約200m土手道を歩くとY字路(右方向は進入禁止)があり、左方向に坂を下り、約170m先の県道高架下を潜り、潜った先を右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向     ※高架下を潜る         ※分岐(右方向)
040 分岐(左)  041 高架下潜る  042 分岐(右)
潜った先を右方向に約180m歩くと左折できる分岐があり左折します。
※分岐(左折)
043 分岐(左折)
分岐する手前の右角に、京に向かって三つの曲がりと僅かな曲がりが一つあることを知らせる「中山道三回り半道標」(白丸)が建っていました。
11時54分、中山道三回り半道標(右側)
044 三廻り半道標
左折して約180m歩くと、2つ目の曲がりとなり、左角に祇園信仰の神社である素盛鳴(すさのう)社が祀られていました。
11時56分、素盛鳴社(左側)
045 素盛鳴社
素盛鳴社から約80m歩くと3つ目の曲がりがあり、さらに約70m進むと、曽根排水路があり境橋が架かっていました。
境橋の右側は排水路の水門があり、左側は桜並木になっていました。
11時59分、境橋(左側=桜並木 ・ 右側=排水路水門)
046-2 曽根排水路(桜並木)   046 曽根排水路水門
境橋から約130m歩くと三回り半の最後の僅かな曲がりがあり、さらに約200m歩くと東の川があり東の川橋が架かっていました。
12時03分、東の川橋(右側の桜並木)
047 東の川橋
東の川橋から220m歩くと三津屋町3交差点があり、右折して約40m先に弘法大師が爪で彫った薬師如来が安置されている薬師堂が左側にあるので、街道を離れて見学に立ち寄りました。
12時07分、弘法大師爪彫薬師堂(左側)
048 弘法大師爪彫薬師
薬師堂から三津屋町3交差点に戻り街道を約50m歩くと、左側に秋葉神社が祀られていました。
12時08分、秋葉神社(左側)
049 秋葉神社
《昼食=1》

秋葉神社から約100m歩くと右側に長徳寺があり、12時を過ぎているので昼食を食べることになり、候補の店に電話して開店の有無を確認しました。
過去の旅でネット情報だけで食べに寄ったら廃業したり、休みだったりして食べられなかったことがあり、電話で確認することにしました。
調べてきた番号で電話すると、店の人が出て開店していることが分かり、「20分くらいしたら行きます」と話し、電話を切りました。
長徳寺前から約210m歩くと十字路分岐があり、右角に聖観世音菩薩が祀られており、像には「右せんこうじ道、左谷汲山ごうど いび近道」と刻まれていました。
そして、十字路を右折した道(赤矢印)は、西国三十三ケ所札止めの谷汲山華厳寺に通じる谷汲山道です。
12時15分、聖観世音菩薩(右側)
050 聖観世音菩薩
聖観世音菩薩から約270m歩くと、左側に京に向かって七つの曲がりと僅かな曲がりが一つあることを知らせる「七回り半道標」(白丸)が建っていました。
12時18分、七回り半道標(左側)
051 七廻半道標   051-2 七廻り半道標
道標から曲がりながら建設中の高架道路の下を潜るなど約120m歩くと、加納排水路があり西浦橋が架かっていました。
12時19分、加納排水路(桜並木)
052 加納排水路
西浦橋から約110m歩くと十字路があり、道路を横断し(※①)、渡った先約10mで右折(※②)し、約100m歩くと中沢交差点横のT字路(県道230号)に突き当たり左折(※③)します。
※①=十字路を横断          ※②=右折              ※③=T字路を左折  
053 分岐(直進)  054 分岐(右折)  055 分岐(左折)
T分岐で左折合流した県道230号を約200m歩くと、左側にカワイ線材があり、その先の十字路を右折しました。
※分岐(十字路)=右折
056 分岐(右折)
右折して約90m歩くと、街道は左折するのですが、左折する右角に加納地蔵堂が祀られていました。
12時26分、加納地蔵堂(右側)
057 加納地蔵堂
※分岐(左折)

058 分岐(左折)
分岐を左折して約260m歩くと、養老線の北大垣第9踏切があり、右側の約60m先に東赤坂駅がありました。
12時29分、養老線北大垣第9踏切        ※東赤坂駅
059 北大垣第9号踏切     060 養老線・東赤坂駅
踏切を渡り約50m歩くと菅野1交差点があり、街道は真っ直ぐに横断して進むのですが、朝食で立ち寄る連絡したお店が交差点を左折した所にあるので、交差点を左折して向かいました。
※分岐(菅野1交差点)=黄矢印:街道 ・ 白矢印:昼食
061 分岐(菅野1交差点)
《昼食=2》

12時30分~12時59分、昼食(一貫楼分店)
062 昼食(一貫楼分店)
菅野1交差点を左折すると直ぐの左側に昼食を食べる「一貫楼分店」があり、暖簾を潜り店内に入りました。
「先程、電話した者です」と電話して来たことを伝え、冷たい水を給水してもらいひと息つき、海老入り炒飯を二人で注文しました。
062-2 海老入り炒飯
ところが配膳された炒飯は、熱量が弱いのかベタベタで、パリッとしていません。
そのため御世辞にも美味しいとは云えない炒飯で、相方も同じことを云っていました。
エネルギー補給を終え、店舗を出ると出発時から続いている強風は止むことなく続いています。
昼食の注文をした後、店内に2組の先客がいたので、店主に「隣りの菅野神社を見学してきます」と断って見学に出掛けました。
菅野神社は店舗から約60m離れた所に本殿があり、参道口はさらに約60m先にあります。
参道口まで行っていると時間を要するため、本殿を過ぎた約20mくらいのところから境内に入り、本殿に拝礼して写真を撮り、入った所からまた外に出て中華店に戻りました。
12時35分、菅野神社(左側)
063 菅野神社
《午後の旅》

街道の菅野1交差点に戻り、交差点を横断すると、直ぐに菅野川に架かる菅野橋があり、渡って進みました。
13時00分、菅野川(左側)
064 菅野川
菅野橋を渡り約210m歩くと、Y字路分岐があり、左方向に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
065 分岐(左)
Y字路分岐を左方向に約350m歩くと南方排水路に架かる白山橋があり、渡った先の左側に白山神社が祀られていました。
13時06分、白山神社(左側)
066 白山神社
白山神社から約130m歩くと、左側に日本橋から110番目の一里塚跡があり、跡地に標石が建っていました。
13時08分、110池尻一里塚跡(左側)
067 110池尻一里塚跡
一里塚跡から約100m歩くと、左斜めに道路を横断して進む分岐があり、左斜めに横断し、突き当りを右方向に進みました。
※分岐(左斜めに道路横断)
068 分岐(斜め横断)
突き当りを右方向に約200m歩くと、左側に福祉会館があり、敷地内(?)に多賀神社が祀られていました。
13時12分、多賀神社(左側)
069 多賀神社
多賀神社から約100m歩くと、合流する分岐点(左側)に美濃路追分道標燈籠が建っていました。
13時14分、美濃路追分道標燈籠(左側)
070 美濃路追分
美濃路追分道標燈籠を左側に見ながら約40m歩くと、杭瀬川に架かる赤坂大橋があり渡りました。
※分岐(右方向)
071 分岐(橋渡る)
13時15分、赤坂大橋
              ※杭瀬川(右側)
072 赤坂大橋   072-2 杭瀬川
杭瀬川は我が国最大のゲンジボタル(大垣市天然記念物)が生息しているそうです
橋を渡ると赤坂大橋西交差点となり、交差点を横断して約200m歩くと赤坂宿の江戸(東)口があった処で、左側に参勤交代の大名や公家が通る時、宿役人や名主が送迎した御使者場跡があり標石が建っていました。
13時18分、赤坂宿江戸(東)口 ・ 御使者場跡(左側)
073 御使者場跡碑
御使者場跡から約30m歩くと、左側に大灯台モニュメントが建っていました。
13時18分、大灯台モニュメント(左側)
074 大灯台モニュメント
大灯台モニュメントの真向かい辺り(進行右側)に赤坂湊跡があり公園になっていて、同じ敷地内に常夜燈や洋館造りの赤坂湊会館が建っていました。
13時19分、赤坂湊跡(右側)
075-2 赤坂湊跡
※常夜燈
                       ※赤坂湊会館
075-3 赤坂湊跡   076 赤坂湊会館
赤坂湊から約180m歩くと、廃線になった赤坂本町駅跡があり、駅跡に標石が建ち、往時の踏切番や線路跡が残されていました。
13時25分、赤坂本町駅跡(左側)
077 赤坂本町駅跡
※踏切跡
                   ※線路跡
077-2 踏切跡   077-3 線路(右側)
赤坂本町駅跡の踏切から約50歩くと、左側に本陣跡があり、敷地内に赤坂出身の幕末医学志士の所郁太郎像が建っていました。
13時26分、本陣跡(左側)           ※所郁太郎像
078 本陣跡   080 所郁太郎像
本陣は寛永以降は馬淵太郎左衛門、天明・寛政の頃は谷小兵衛に変わり、以後は矢橋広助が明治維新まで勤めました。
本陣跡から約30m歩くと、右側に旧清水家住宅が保存されていました。
13時28分、旧清水家住宅(右側)
081 旧清水家住宅
旧清水家住宅から約40m歩くと十字路分岐があり、分岐の右角に谷汲道道標が建っていました。
13時31分、谷汲道道標(右側)        ※谷汲道(赤矢印)
082 谷汲道道標   082-2 谷汲道
道標先の十字路分岐を過ぎた左側に、天保4(1833)年に建築され大型町屋で国文化財になっている矢橋家住宅が建っていました。
13時32分、矢橋家住宅(左側)
083 矢橋家住宅
矢橋家住宅から約50m歩くと、左側に現在は榎屋旅館になっている脇本陣跡がありました。
13時33分、脇本陣跡(現榎屋旅館)=左側
084 脇本陣跡(現榎屋旅館)   084-2 脇本陣碑
脇本陣は飯沼家が勤め、問屋、年寄役を兼ねていたそうです。
脇本陣跡から路地を挟んだ先(約20m)の左側に、宿場の駅五七処がありました。
13時33分、宿場の駅五七処(左側)
085 宿場駅五七処
屋号の五七は日本橋から数えて赤坂宿は57番目に由来しているそうです。
宿場の駅五七の先隣りはお嫁入り普請探訪館(旧増田家住宅)がありました。
13時34分、お嫁入り普請探訪(旧増田家住宅)=左側
086 増田家住宅   086-2 内部
お嫁入り普請探訪館の建物は、皇女和宮が来られた時、見栄えを良くするために表側だけを二階建てにしたそうで、それが今日も残されています。
お嫁入り普請探訪館の道路挟んだ反対側(進行右側)に妙法寺があり、門前に所郁太郎墓(左側)と戸田三弥墓(右側)と刻まれた石碑が建っていました。
13時40分、妙法寺(右側)
087 妙法寺
妙法寺から約90m歩くと右側に、所郁太郎生誕地碑が建っていました。
13時42分、所郁太郎生誕地碑(右側)
088 所郁太郎生誕地
所郁太郎は天保9(1838)年に赤坂宿の酒造家の矢橋亦一の四男として生まれました。
生誕地碑から約350m歩くと、赤坂宿御使者場跡(白丸は兜塚の解説パネル)、野一色頼母の兜塚がありました。
13時46分、赤坂宿御使者場跡(左側)     ※野一色頼母の兜塚
090 御使者場跡     091 野一色頼母の鎧兜塚
兜塚と旧踏切の間あたりが、赤坂宿の京(西)口です。
13時48分、赤坂宿京(西)口         ※赤坂宿宿場図(左側)
093赤坂宿京口   092 赤坂宿図
赤坂宿京(西)口の先に旧踏切があった所で、左側に踏切番小屋が残されていました。
13時48分、踏切番小屋(左側)
094-2 番小屋付近
踏切跡から約70m歩くと、大塚1号墳、大塚2号墳の二ツ塚古墳と昼飯大塚古墳を見学できる分岐があり、街道を離れて見学に向かいました。
分岐を左折(※①)して約140m歩くと右折できる分岐(※②)があり、右折して進みます。
※①=分岐(左折)            ※②=分岐(右折)
095 分岐(左折)   096 分岐(右折)
※②の分岐を右折して約180m歩くと、左側に昼飯第2公園の中に一辺が20m以上の5世紀中頃から後半に作られた方墳の大塚1号墳がありました。
13時54分、大塚1号墳(左側)
097 大塚1号墳   097-2 解説
大塚1号墳から約130m歩くと、右側に昼飯大塚古墳があり、見学に立ち寄りました。
13時58分~14時03分、昼飯大塚古墳(右側)
※昼飯大塚古墳全景             ※解説                ※頂部からの眺め
098 昼飯大塚古墳  098-2 解説  098-4 古墳からの眺め
昼飯大塚古墳は今から約1,600年前(4世紀)に築かれた岐阜県最大の前方後円墳で、墳丘の長さが150m、構造が三段築成が特徴の古墳です。
古墳の上に登って見たいと思い、階段を登って古墳の頂部に立ちました。
平地に居ても強風なので、古墳の頂部に立てばなお強く吹かれましたが、良い思い出を作ることが出来ました。
昼飯大塚古墳を出て、分岐を右折(※①)して約170m歩くと、街道に合流し左折(※②)して進みました。
※①=分岐(右折)            ※②=分岐(左折)
099 分岐(右折)   100 分岐(左折)
分岐を左折して約70m歩くと、右側に旧早野邸の岐阜大学セミナーハウスがありました。
14時06分、旧早野邸岐阜大学セミナーハウス(右側)
101 旧早野邸セミナーハウス
セミナーハウスから約280m歩くと、昼飯交差点があり、交差点を横断すると東海道本線のガードがあり潜って進みました。
14時09分、昼飯交差点(直進)
102 東海道本線ガード
東海道本線のガードを潜り約80m歩くと、史跡の里青墓町標柱が建っていました。
14時10分、史跡の里青墓町標柱(左側)
103 史跡の里標柱
史跡標柱から約30m歩くと、右側に粉糖山古墳があるので、分岐を右折して立ち寄りました。
※分岐(右折)
104 分岐(右折)
分岐を右折して約60m歩くと左側に古墳の中に入って行く道がありましたが、中を見ると墓石が立ち並ぶ墓地で、見に行ってもしょうがないと判断し、古墳全体を撮り記録に残しましたが、古墳の上に墓地?と思いました。
14時13分、粉糖山古墳(左側)
105 粉糖山古墳
同じ道を戻り右折して街道に合流しました。
粉糖山古墳入口分岐から約270m歩くと、山門が青野城表門を移築したという延長寺があり立ち寄りました。
14時18分、延長寺(右側)
106 延長寺
往時の表門が見れると期待していたのですが、新しく建替られていました。
ここでMさんから休憩の要請があり、本堂の階段を使って休憩することになりました。
14時19分~14時27分、休憩
水分補給してひと息つき、気分も新たに再出発しました。
延長寺から約50m歩くと、右側の奥に白鬚神社(白丸)があり、参道口左側に旧圓願寺寺標が建っていました。
14時28分、白鬚神社(白丸) ・ 圓願寺寺標=右側
107 白髭神社
白鬚神社参道口から約260m歩くと、左に入れる路地(西町集会所の手前)があり、分岐左側に照手姫水汲井戸道標(白丸)が建っていました。
14時31分、照手姫水汲井戸道標(左側)
108 分岐(左折)
分岐を左折して約60m歩くと、十字路を過ぎた先の右側に照手姫水汲井戸がありました。
14時33分、照手姫水汲井戸(右側)
109 照手姫水汲み井戸   109-2 井戸
遊女の照手姫は売られた青墓長者に客取りを拒否したため、籠で井戸水を汲めといういじめにあったそうです。
井戸跡から街道に戻り約60m歩くと、右側に旧圓願寺跡・芦竹庵の標石が建っており、標石の奥に芦竹庵跡と小篠竹の塚があり、照手姫の墓(白丸の五輪塔)がありました。
14時35分、圓願寺跡・芦竹庵跡(右側)
※圓願寺跡                    ※芦竹庵跡             ※小篠竹の塚
110 圓願寺跡・芦竹庵  110-2 芦竹庵・小篠竹の塚  110-4 小篠竹の塚
芦竹庵は奥州に向かう義経が源氏再興を祈願し、杖代わりの芦を地面に突き刺すと芦竹になったそうです。
旧圓願寺跡から約約80m歩くと、右側に青墓宿碑が建てられていました。
14時37分、青墓宿碑
111 青墓宿碑
青墓宿は鎌倉時代東山道の宿駅として栄え、遊女の里として知られたそうです。
青墓宿碑から大谷川を渡るなど約60m歩くと、
①県道216号に突き当たり右折
②県道216号を約50m進み、横断歩道(県道216号)を横断
③コンビニ・ミニストップの敷地内を通って突き当たった県道228号を右折
して街道を進みます。
※分岐①                 ※分岐②               ※分岐③
112 分岐(右)  113 分岐(横断)  114 分岐(右折)
県道228号を約550m歩くと、右側に国分寺道道標(白丸)が建っていました。
14時46分、国分寺道道標(右側)
115 分岐(右折)
道標を右折して約300m(県道216号を渡った先)歩くと美濃国国分寺跡があり、時間的にも大丈夫なので右折して向かいました。
右折して約40m歩くと左側に教覚寺があり、鐘楼の石垣にフズリナの化石が露出しているとのことで立ち寄りました。
14時47分、教覚寺・鐘楼(左側)
116 教覚寺・鐘楼   116-2 解説
教覚寺入口から約10m先の左側に、稲葉石見守正休公碑が建っていました。
14時49分、稲葉石見守正休公碑(左側)
117 稲葉石見守正休公碑
石碑から約170m歩くと県道216号に突き当たり、県道を横切って渡り、約30m先の突き当りを左折して約50m歩くと右側に国指定史跡の美濃国分寺跡がありました。
14時53分、美濃国国分寺跡(右側)
※国分寺跡歴史公園            ※国分寺跡碑           ※解説
118 国分寺跡 118-2 解説 118-3 国分寺跡
※築地跡
                 ※南門跡               ※中門跡
118-4 国分寺跡・築地跡  118-5 南門跡  118-6 中門跡
※塔跡
                   ※金堂跡               ※金堂解説
118-7 塔跡  118-8 金堂跡  118-9 金堂跡
国分寺の見学を終え、往路を引き返して街道に戻り、県道228号を約210m歩くと右側に地蔵堂が祀られていました。
15時06分、地蔵堂(右側)
119 地蔵道
地蔵堂から約20m歩くと、右側に日本橋から111番目の一里塚跡があり、跡地に標石、標石の後ろに大正5(1916)年に建立された大神宮常夜燈が建っていました。
15時06分、111青野ケ原一里塚跡 ・ 大神宮常夜燈=右側
120 111青野ケ原一里塚跡
一里塚跡から約550m歩くと、右側に駒引稲荷神社が祀られており、参道口左側に地蔵堂がありました。
15時13分、駒引稲荷神社(右側)
121 駒引稲荷神社
駒引稲荷神社から約120m歩くと駒引交差点があり、交差点の手前右側に「この道は中山道」と記された道標が建っていました。
15時14分、中山道道標(駒引交差点)=右側
122 駒引信号
交差点を横断し約90m歩くと、右側に平尾御坊道道標が建っていました。
15時16分、平尾御坊道道標(右側)
123 平尾御坊道道標
道標から約600m歩くと、追分(昼飯町)交差点があり、真っ直ぐに渡り進みました。
15時24分、追分(昼飯町)交差点=直進
124 分岐(追分交差点)直進
交差点を渡り約300m歩くと、喜久一九稲荷神社が祀られていました。
15時28分、喜久一九稲荷神社(右側)
125 喜久一九稲荷神社
稲荷神社から約30m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
15時29分、地蔵堂(右側)
126 地蔵堂
地蔵堂から約90m歩くと、T字路に突き当たり右折して進みますが、T字路の左角に美濃路追分道標が建っていました。
15時30分、美濃路追分道標(左側)
128 美濃路追分道標
※分岐(T字路)=右折

127 分岐(右折)
T字路左側の道標の先隣りに追分庵という建物が建っていました。
※追分庵(左側)
129 追分庵
T字路を右折すると直ぐに梅谷川に架かる追分橋となり、橋を渡って約50m進むと相川橋北交差点があり、左折して横断歩道を横断し、相川橋を渡りました。
15時32分、相川橋北交差点(左折)       ※相川(右方向)
130 分岐(相川橋)渡る     131 相川

相川橋を渡った橋のたもとの左側に、人足渡し跡標板が建っていました。
15時33分、人足渡し跡(左側)
132 人足渡し跡
人足渡し跡から道路を渡った左側に、垂井宿江戸(東)口の東見附跡がありました。
15時33分、東見附跡(左側)
133 東見付跡   133-2 解説
東見附跡から約70m歩くと到着地の垂井駅入口に着き、恒例の到着式をMさんと交互に行い今日の旅を終えました。
15時35分、垂井・駅入口分岐(到着地)
135 垂井駅入口(到着地)
赤矢印=到着、黄矢印=明日のコース、白矢印=垂井駅方向
【宿泊】
《移動》
到着式を終え、約280m離れた東海道本線垂井駅に向かい、宿泊するホテルのある大垣駅に移動しました。
15時57分、JR東海道本線垂井駅発
136 垂井駅
16時05分、大垣駅着

137 大垣駅
大垣駅南口から約450m歩き、宿泊予約しているホテル(クインテッサホテル大垣)に到着しました。
16時11分、クインテッサホテル大垣着
138 クインテッサホテル大垣
ホテルのフロントでチェックインし、指定された部屋に入りザックなどの荷物を整理した後、Mさんの部屋で明日の旅行程の打合せを行いました。
フロントでチェックインし、指定された部屋に入りザックなどの荷物を整理した後、明日の旅行程の打合せを行いました。
打合せは、
・旅のコースを双方の地図で確認
・街道を離れて立ち寄る史跡は雨天でない限り見に行く
・昼食は13時頃になるが柏原宿歴史館で食べる(行動食におにぎりを買っておく)
・出発地への移動の確認
 朝食=7時、ホテル発=7時45分、大垣発=8時10分
で、17時45分に合流して夕食を食べに行くことになりました。
《夕食》
ホテルを出て大垣駅前に向かって歩いていると、正面に和食の店が見え入店しました。
139 夕食(にしき)   139-2 夕食
店には生ビールがないと云うので瓶ビールとお茶で乾杯し、天ぷら定食を食べながら旅の思い出話しに花が咲き、癒やしの時間を過ごしました。
旅の良さはいろいろなことを経験することで、今日の強風は中山道二人旅では初めての経験で、私はYumiさんと歩いた東海道夫婦二人旅の三ケ野橋(H25.2.11)、浜名湖(H25.3.10)の時の強風を思い出しました。
Mさんと約1時間40分、ビールで喉を潤しながら楽しい時間を過ごし一日を終えました。

【次回の予告】
次回の第31回「旧中山道二人旅」は、
旅 日= 6月10日(日)
行 程=垂井・駅入口分岐~醒ヶ井・R21合流分岐
歩程距離=約19.5㎞
で、到着地から約350m離れた醒ヶ井駅まで歩き、電車で米原駅に移動し、駅西口から徒歩1分のホテル(東横イン米原駅新幹線西口)に宿泊します。

【街道旅のご案内】

※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  

    

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