【宿場】 (61)醒ヶ井宿⇒(62)番場宿⇒(63)鳥居本宿⇒(64)高宮宿
【行程】 歩行距離=13.95㎞ 総距離=480.53㎞
R21分岐合流⇒(2.2㎞)⇒117久礼一里塚跡⇒(2.15㎞)⇒中山道番場碑⇒(1.8㎞)118摺針一里塚跡⇒(2.0㎞)⇒鳥居本駅入口⇒(2.25㎞)⇒新幹線ガード⇒(2.15㎞)⇒大堀町交差点⇒(1.4㎞)⇒高宮駅入口
【ルート図】
↓宿場(桃色=第32回旅・黄色=踏破済み)
↓第32回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は前日の旅で到着した醒ヶ井宿・R21号分岐合流から高宮宿・高宮駅入口までの約13.95㎞を歩き、近江鉄道・高宮駅から米原駅に移動し、米原駅から東海道新幹線ひかり号で自宅に帰ります。
〔前日の打合せ〕
前日の行程打合せで、
①行程
天気は曇り一時雨で、時間の経過とともに降水確率が高くなっているため、街道から外れた史跡の見学は傘なしの時だけ行い、雨天の時は街道沿いのみにする
②出発
ホテルの朝食が6:30から食べられるとのことで、当初予定していた8:03発の電車を1本前の7:27に変更し、ホテルを7:15に出発する
③帰路
到着地に着く時間により(雨天の場合は時間を要するため)高宮駅13:35発を1本前の12:35発にし、新幹線も米原駅で14:57を13:57に指定席変更する
ことにしました。
《準備》
朝、5時15分にセットしたモーニングコールでベットを出て、洗面を済ませ、旅支度を整え朝食に向かいました。
朝食開始の6:30の5分前に1階の食事会場に行くと、まだ準備が終わるのを待ってホテル提供の朝食を食べエネルギーを補給しました。
朝食はバイキング形式で、並べられた和食に沿った食材を取って食べ、短い時間ですが食後のコーヒーを飲んで憩いのひと時を過ごし、部屋に戻り、ザックの荷物を点検し、チェックアウトしました。
《移動》
07時10分、ホテル発
今日の降雨確率は50%と高かったのですが、ホテルを出ると薄り曇で雨は降っておらず、「このまま旅の終わりまで降らないで」と心の中で祈りながら米原駅に向かいました。
下車駅の醒ヶ井駅はパスモが利用できないため、切符を買って入場し、定刻に入線した電車に乗車し1駅先の醒ヶ井駅に向かいました。
07時27分、JR米原駅発
07時32分、醒ヶ井駅着
醒ヶ井駅から駅前交差点に出て、歩道のないR21の道路沿いを約350m歩き、今日の出発地である醒ヶ井・R21合流分岐まで移動し、出発地でMさんと交互に出発式を行い旅に出発しました。
【=旅=】
07時38分、醒ヶ井・R21合流分岐(出発地)
出発地を出て直ぐに道路を横切って進行右側に移動し約50m歩くと、右側に一類狐魂等衆碑と地蔵尊が祀られていました。
07時39分、一類狐魂等衆碑と地蔵尊(右側)
一類狐魂等衆碑から約50m歩くと、進行左側に新しい地蔵堂が祀られていました。
07時40分、地蔵堂(左側)
地蔵堂の直ぐ先に丹生川に架かる丹生川橋があり、橋の手前右側の川沿いに、壬申の乱横河の古戦場跡があり、解説標板が建っていました。
07時41分、壬申の乱横河の古戦場跡(右側)
丹生川橋を渡り、右側のます料理・おたべを見ながら約240m歩くと、Y字路があり、分岐点に中山道河南標識が建っていました。
07時45分、中山道河南標識(分岐点)
街道はY字路を右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
Y字路分岐から約300m歩くと、右側の澤家の脇に地蔵堂が祀られていました。
07時48分、地蔵堂(右側)
澤家脇の地蔵堂から約100m歩くと、右側に屋根付き建屋の中に地蔵堂が祀られていました。
07時49分、地蔵堂(右側)
屋根付き地蔵堂から約400m歩くと、左側に瓦葺屋根の地蔵堂が祀られていました。
07時55分、地蔵堂(左側)
地蔵堂から約210m歩くと、R21樋口交差点があり、横断して進みましたが、地蔵堂が続いています。
地域によっては道祖神が多く祀られていたりするなど、地域によって違いを感じます。
※分岐(樋口交差点)=横断
樋口交差点から約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
08時01分、地蔵堂(左側)
地蔵堂から約180m歩くと、和佐川に架かる和佐川橋があり、渡って進みました。
08時03分、和佐川(右方向)
和佐川橋を渡り約50m進むと、右側の吉田八十郎商店の真向かいに、白壁の長屋門の旧家があり記録に残しました。
08時04分、長屋門の旧家(左側)
長屋門から約250m歩くと、
※①T字路分岐に突き当たり左折、
※②約30m歩くとY字路分岐となり、右方向に進み北陸自動車道の高架下を潜り
※③高架先のY字路分岐を右方向
に進みます。
そして※③Y字路分岐の分岐点に、日本橋から117番目の一里塚跡があり、跡地に解説標板と中山道碑が建っていました。
08時08分、117久礼一里塚跡(分岐点)
一里塚跡から約150m歩くと、右に曲がる所に右に上っていく草道があり、旧道と間違えて入らないようにして下さい。
街道は左側の中山道道標、カーブミラー、柳の木に沿って、舗装路を右に曲がって進みます。
※分岐(右カーブ)
中山道道標(白丸)から約450m歩くと、右側に問屋場跡があり、標石が建っていました。
08時17分、問屋場跡標石(右側)
※米原湊を控えた番場宿は物資輸送の要となり、最盛期には問屋場が6軒あったそうです。
問屋場跡標石から約70m歩くと、右側の石塀の前に問屋場跡(土川家)の標石が建っていました。
08時18分、問屋場跡標石(右側)
問屋場跡から約60m歩くと、県道240号と交差する十字路となり、右角に番場宿碑が建っていました。
08時18分、番場宿碑(右側)
十字路を交差する県道240号の右方向は、琵琶湖の米原湊に通じている米原道で、街道は横断して進みます。
※分岐(十字路)=横断
十字路を横断すると右側に、手差しが刻み込まれた道標が建っていました。
08時19分、手差し道標(右側)
十字路から約10m歩くと、高尾家が勤めた脇本陣跡があり、敷地の角に標石が建っていました。
08時20分、脇本陣跡(高尾家)・問屋場跡=右側
※高尾家は問屋場も兼ねていました。
脇本陣跡の先隣りに、問屋場跡の標石が建っていました。
08時20分、問屋場跡(右側)
問屋場跡の先隣りに北村家が勤めた本陣跡があり、跡地に標石が建っていました。
08時21分、本陣跡(北村家)=右側
本陣標石が建っている先隣りは北村家で、玄関脇に明治天皇小休所跡と問屋場跡の標石が建っていました。
08時21分、明治天皇小休所跡 ・ 問屋場跡(右側)
明治天皇碑の建っている北村家から約60m先の右側に、問屋場跡標石が建っていました。
08時22分、問屋場跡(右側)
問屋場跡から約80m歩くと、番場忠太郎碑が建っている蓮華寺に通じる分岐があり、雨天ではなかったので右折して蓮華寺に向かいました。
※分岐(左折)
分岐を左折して約150m歩くと名神高速道路があり、高架下を潜って進むと正面に蓮華寺がありました。
蓮華寺に入る右側に「北条仲時墓所」の解説標板が建っており、境内に入ると本堂右側に土肥三郎元頼墓所があり、本堂裏手に番場忠太郎地蔵尊が祀られていました。
また、忠太郎地蔵尊の右側に樹齢700年の一向杉が生育されていました。
※蓮華寺 ※北条仲時公の墓解説標板
※土肥三郎元頼墓所 ※一向杉
※番場忠太郎地蔵尊
※番場忠太郎は長谷川伸(しん)の戯曲「瞼の母」の主人公で、近江(滋賀県)の番場生まれのやくざです。
5歳の時に生き別れた母を探しに旅に出て、江戸柳橋の料理屋水熊の女将おはまが母とわかるが、おはまは母と名のらず、忠太郎は母への思いを胸にふたたび旅立つ物語で、昭和6年の初演以来,舞台,映画,テレビなどで数多く上演されています。
蓮華寺の境内見学は有料のようでしたが、朝の早い時間だったので誰もおらず、見学を終えて帰る時、寺社の人が出てきましたがそのまま失礼させて頂きました。
蓮華寺から街道に戻り約200m進むと、左側に地蔵堂が建っていました。
08時37分、地蔵堂(左側)
地蔵堂の斜め前に大日如来堂が祀られていました。
08時38分、大日如来堂(右側=写真後方の建物)
大日如来堂から約170m歩くと菜種川が流れており、この川が東番場と西番場の境です。
08時39分、菜種川(右方向)
菜種川はここから街道に沿って左側を流れているのですが、街道の下を潜った所から約20m歩くと、左側に鎌刃城案内標識が建っていました。
08時40分、鎌刃城案内標識(左側)
※鎌刃城は土肥三郎元頼が築城した山城ですが、織田信長の前に廃城となりました。
案内標識から緩やかな坂を約170m上りながら歩くと、右側に北野神社が祀られていました。
08時42分、北野神社(右側)
※寛平6(894)年に創建され、菅原道真を勧請し祀っています。
北野神社から約20m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
08時42分、地蔵堂(右側)
地蔵堂から約40m歩くと、左側に鎌刃城と中山道の宿・番場の建物がありました。
08時44分、鎌刃城と中山道の宿・番場(左側)
建物から右側の称揚寺、本授寺を通り過ぎなど約600m歩くと、左側に中山道番場碑が建っていました。
08時51分、中山道番場碑(左側)
街道の直ぐ左側は名神高速道路が走っており、車の行き交う音が聞こえてきました。
街道は小摺針峠に向けて緩やかな上り坂になっていました。
※街道(緩やかな上り坂)
左側の段上の名神高速道路に沿って緩やかな坂を上って名神高速道路と同じくらいの高さになると勾配がきつくなりました。
勾配がきつくなる辺りで、Mさんから「休息しよう」と声がかかり、立ち休憩で水分補給しました。
08時56分~08時58分、休憩
ひと息ついて急坂を「ヨイショ、コラショ」と声を出しながら歩くと、頂上と思われるあたりの舗装の色が変わっているので、ここを小摺針峠としました。
09時03分、小摺針峠
※名神高速道路米原トンネルの上が峠の頂上で、米原市と彦根市の市境になっているそうです。
舗装の色が変わっているところから下り坂となり、峠から約120m歩くと、右側に泰平水と地蔵堂が並んでいました。
09時05分、泰平水・地蔵堂 (右側)
泰平水水・地蔵堂から約500m歩くと、三差路分岐となり、左側に中山道道標が建っていました。
09時10分、中山道道標(左側)
道標(白丸)の建っている三差路分岐を右方向に進みました。
※分岐(三差路)=右方向
三差路から約300m歩くと、右側に日本橋から118番目の摺針一里塚跡があり、跡地に標石が建っていました。
09時14分、118摺針一里塚跡(右側)
摺針一里塚跡から約100m歩くと傾斜のきつい上り坂となり、称名寺入口を過て約70m先で左側の細い道に入ります。
※分岐(左側の細い道)
分岐から約40m細い道を上ると左側に神明宮の鳥居が建っており、ここが摺針峠だそうです。
09時17分、神明宮・鳥居(左側)・・・摺針峠
鳥居前を道なりに右方向に進みました。
※分岐(右方向)
分岐を右方向に進む直ぐ先の左側に、往時峠の茶屋だった望湖堂跡があり明治天皇摺針峠御小休所碑(白丸)が建っていました。
09時18分、望湖堂・明治天皇摺針峠御小休所碑(左側)
明治天皇碑から約10m先の左側に、望湖堂跡の解説標板が建っていました。
09時18分、望湖堂解説標板(左側)
ここから景色のひろがる西の方を眺めると、琵琶湖を見ることができました。
※琵琶湖の眺め
お江戸日本橋を出発してから32日目(約475㎞)に、琵琶湖を眺めることができるところまで来たかと、我が足に感謝しました。
望湖堂から坂を約30m下って下道に合流し、下道を約50m歩くと、左に下る分岐があり、左折して階段を下りました。
※分岐(下道に合流) ※分岐(左折して階段を降る)
山道は岐阜県で終わりかと思っていたのですが、まだ残っていました。
分岐して
※①草道の階段を下り(約90m)
※②舗装路を左方向に約20m進み
※③土道に入りました。
※④丸太橋を渡り
※⑤樹林帯の中を歩き
※⑥土道から舗装路に入る
〔④~⑥=450m〕
※①~※⑥の道は雨が降ったらとても歩けない状態だったので、歩きながらMさんと、「雨天だったら歩けなかったね」と云いながら歩くとともに、中山道で歩く山道はこれが最後だと思うと、薄曇りの街道歩き日和に歩くことができ、良い思い出を作ることができました。
※分岐(黄矢印=右折、下矢倉旧道=青矢印)
〔街道を間違える〕
※⑥から約30m歩くと変則四差路の分岐となり、右折して進みましたが、真っ直ぐ横断(青矢印)して下矢倉旧道に入るのが正しいのかも知れません。
※下矢倉旧道=分岐が約80m先のT字路を右折し、矢倉橋の手前でR8に突き当たる
私達は変則四差路を右折し、約30m歩くとR8号に突き当たる手前の左側に、摺針峠・望湖堂石碑が建っていました。
09時29分、摺針峠・望湖堂石碑(左側)
突き当たったR8号を左折して進むのですが、右方向は北国街道です。
※分岐(R8号)左折 ※北国街道(赤矢印)
R8号を約40m歩くと一級河川の矢倉川に架かる矢倉橋があり渡って進みますが、橋の手前で下矢倉旧道からの道(青矢印)が合流します。
09時30分、矢倉橋 ※矢倉川(左方向)
矢倉橋を渡り約70m歩くと、R8号から分岐して左方向に進みました。
※分岐(R8号)=左方向
R8号から分岐して約20m進むと、左側に中山道道標が建っていました。
09時32分、中山道道標(左側)
道標から約20m歩くと、左側に彦根市のモニュメントが建っていました。
09時33分、彦根市モニュメント(左側)
※モニュメントには三本の石柱の上に、近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っていました。
モニュメントから約80m歩くと、右側に中山道標石が建っていました。
09時35分、中山道標石(右側)
中山道標石から約40m歩くと、右側に1本だけ松の若木が植樹されており、この辺りが松並木跡のようです。
09時35分、松並木跡(右側)
松並木から約190m歩くと、左側に卯建と虫籠窓の旧家が建っていました。
09時37分、卯建と虫籠窓A=左側 ※鳥居本宿標板(左側)
卯建と虫籠窓Aの旧家から約50m歩くと、右側に虫籠窓の家が建っていました。
09時39分、虫籠窓Bの家(右側)
虫籠窓Bの家から約30m歩くと、左側に茅葺き屋根の旧家がありました。
09時39分、茅葺き屋根の家(左側)
茅葺き屋根の家から約40m進むと、赤玉神教丸の有川家があり、旧門前に明治天皇が小休所標石が建っていました。
09時40分、明治天皇小休所跡(右側)
有川家の真向かいの進行左側に、虫籠窓Cの家が建っていました。
09時41分、虫籠窓Cの家(左側)
虫籠窓の家の先は枡形道になっており、左折して街道は進みます。
※分岐(枡形)左折
分岐を左折する右角に、赤玉神教丸の有川家があり、建物は虫籠窓の構造になっていました。
09時42分、赤玉神教丸・有川家(右側) ※建物=虫籠窓構造
※有川家は万治元(1658)年に創業で、多賀大社延命長寿の神の教えによる神教丸は、下痢、食あたり、腹痛の妙薬です。
枡形を左折して約30m進むと、左側に虫籠窓Dの家がありました。
09時43分、虫籠窓Dの家(左側)
虫籠窓の構造の家が立ち並び、籠枠の違うものがあるのですが、ゆっくりと検証して記録に残したいのですが、帰路の時間を考えるとゆっくりしていることが出来ず、多くの情報を残すことにしました。
虫籠窓Dの家から約30m歩くと、虫籠窓Eの家がありました。
09時44分、虫籠窓Eの家(右側)
虫籠窓Eの家から約70m歩くと、右側に旧旅籠米屋があり、現在は旧鳥集会所になっていました。
09時46分、旧旅籠米屋(現旧鳥集会所)=右側
※旅籠の主人である岩根治右衛門は井伊直弼から号「自然斎」を賜った絵付師で、湖東焼きの絵付けを行っていました。
旧旅籠米屋から約80m進むと、左側にデイサービス鈴の音があり、建物の二階が虫籠窓になっていました。
09時47分、虫籠窓Fの家(デイサービス鈴の音)=右側
虫籠窓Fの家の先隣りの門に岩根家住宅の解説標板が掲げられていました。
09時48分、岩根家住宅(右側)
岩根家住宅解説標板の先隣りに、合羽所木綿屋跡があり、軒先に吊り看板が吊るされていました。
09時49分、合羽所木綿屋跡(右側)
※合羽所木綿屋跡 ※吊り看板
※虫籠窓
※創業は天保3(1832)年で、看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げています。
文化文政年間(1804~1829)は15軒の合羽所が軒を連ねていた。合羽は亨保5(1720)年に馬場弥五郎が創業したことに始まり、製法は楮(こうぞ)を原料とした和紙に渋柿を塗り込めて防水性を高めていたので、雨の多い木曽路に向かう旅人には必需品になっていました。
合羽所木綿屋跡の斜め向かいに本陣跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
09時50分、本陣跡(左側)
本陣は寺村家が勤め、本陣門が倉庫の扉になっているとのことでしたが、見ないで先に進んでしまいました。
本陣跡から約20m歩くと、右折出来る分岐があり、右方向の奥に近江鉄道の鳥居本駅がありました。
09時51分、近江鉄道鳥居本駅(右側)
鳥居本駅入口の分岐から約10m歩くと、左側に高橋家が勤めた脇本陣があり、問屋場も兼ねていたそうです。
09時51分、脇本陣跡・問屋場跡=左側
脇本陣の向かい側で鳥居本駅入口の右角に高札場があったようですが、標板など何も表示されていませんでした。
09時52分、高札場跡(右側)
高札場跡から約30m進むと、虫籠窓の家が幾つかあり、記録に残しました。
※虫籠窓の家
※G ※H ※I
高札場跡から約90m歩くと、文政8(1825)年に創業した合羽所松屋跡があり、軒先に行燈看板が掲げられていました。
09時54分、合羽所松屋(右側) ※行燈看板
合羽所松屋から約60m歩くと、十字路分岐があり、分岐の右角に礎石の上に唐破風の桧皮葺き屋根の常夜燈が建っていました。
09時55分、桧皮葺き屋根の常夜燈(右側)
常夜燈から約50m歩くと、右側に虫籠窓Jの家がありました。
09時56分、虫籠窓Jの家(右側)
虫籠窓Jの家から約100m進むと、左側の駐在所の向かい側に長池地蔵尊があり、建屋の中に祀られていました。
09時58分、長池地蔵尊(右側)
長池地蔵尊から約70m歩くと、街道の両側に虫籠窓の家がありました。
09時59分、虫籠窓の家
※K(右側) ※L(左側)
虫籠窓の家から約40m歩くと、右側に専宗寺があり、境内に聖徳太子廊があるというので立ち寄りました。
10時00分、専宗寺(聖徳太子廊)=右側
※聖徳太子廊 ※専宗寺(山門) ※鬼瓦
専宗寺から約220m歩くと、右折できる分岐があり、分岐の右角に彦根道追分道標が建っており、右折した道が彦根に通じる彦根道です。
10時04分、彦根道追分道標(右側)
道標から約230m歩くと、左側に鳥居本宿標柱が建っていました。
10時06分、鳥居本宿標柱(左側)
標柱から小野川(約230m先)を渡るなど約580m歩くと、左側に小野こまち会館が建っていました。
小野村は小野小町の出生地と云われています。
10時13分、小野こまち会館(左側)
小野こまち会館から約10m歩くと、右側に安立寺の参道入口があり、参道奥に鐘楼門が建っていましたが、雨戸が閉められていて鐘楼を見ることはできませんでした。
10時14分、安立寺・鐘楼門(右側)
安立寺を出て街道を進むと、左側に流れている川の上に、数軒おきにトイレと思われる建屋が建てられていました。
※撮ったトイレ小屋は朽ち果てる寸前になっていますが、もっとしっかりとした建屋もありました。
私もYumiさんの親戚の家(長野県佐久市)に泊めてもらった時、トイレが庭にあり、ここの建屋と同じように板敷きの床だったので、抜け落ちないかビクビクしながら使ったこと、夜間は真っ暗な庭に出なくてはいけなかったことなどを思い出しました。
泊めて頂いた親戚のトイレは汲み取り式でしたが、ここは川に流されて汲み取りの必要はなかったようです。
※トイレ小屋
安立寺からトイレ小屋などを見ながら約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
10時16分、地蔵堂(左側)
地蔵堂から約140m歩くと、鐘突堂跡があり、跡地に標識が建っていました。
10時19分、鐘突堂跡(右側)
鐘突堂跡から約60m歩くと、右側に八幡神社参道入口の社標と常夜燈が建っていました。
10時20分、八幡神社参道入口(右側)
参道入口から約240m歩くと、左側の建屋の中に六地蔵が祀られていました。
10時22分、六地蔵(左側)
六地蔵から約30m歩くと、小町地蔵堂が祀られていました。
10時23分、小町地蔵堂(左側)
小町地蔵堂から約50m歩くと、左側に小町前茶屋跡があり標識が建っていました。
また、標識の手前に中山道標柱がありました。
※出羽郡司小野美実(好美)は奥州に下る時、小野宿に泊まり、ここで生後間もない女児を養女に貰い受け、出羽国へ連れ帰りました。この女児が小野小町と云われています。
10時24分、小町前茶屋跡(左側)
※
小野前茶屋は明治の中期まで茶屋があり、お多賀さん参りの人で賑わったそうです。
小町前茶屋跡から約75m歩くと、東海道新幹線の高架橋があり、ガードを潜って進みました。
10時25分、東海道新幹線高架橋(直進)
高架橋を潜り約350m歩くと、左側に原八幡神社地蔵尊入口の標柱が建っており、新幹線下を潜った先に地蔵尊(白丸)が祀られていました。
10時29分、原八幡神社地蔵尊(左側)
原八幡神社地蔵尊入口から約170m歩くと、左側に原・東山霊園入口の大きな看板が建てられており、看板の下に森川許六遺路道標(白丸)が建っていました。
10時31分、森川許六遺路道標(左側)
※森川許六は彦根藩士で芭蕉の高弟でした。庵跡には井戸と句碑が建てられています。
森川許六庵跡に立ち寄るか、この先の原八幡神社に立ち寄るかとなり、原八幡神社に立ち寄ることにし、分岐を通過しました。
森川許六遺路道標から約40m歩くと、右側に聖徳太子を祀る原八幡神社の鳥居が建っており、右折して神社に立ち寄りました。
10時32分、原八幡神社・鳥居 ※本殿
鳥居を潜り、神社の境内に入ると、白髪塚、芭蕉ひるね塚があり、解説標板が建っていました。
※白髪塚 ※芭蕉ひるね塚
境内で休憩し、水分補給して出発しました。
街道に戻り、約80m歩くと右側に、天保15(1844)年に建立された道標が建っていました。
10時39分、道標(右側)
道標の先は名神高速道路彦根ICの高架道路が2つ続いており、下を潜って進みました。
※名神高速道路彦根ICの高架道路下
2本目の高架道路を潜った所から約150m歩くと、正法寺前交差点の手前左側に多賀神社常夜燈が建っていました。
10時42分、多賀神社常夜燈(左側)
多賀神社常夜燈の先の正法寺前交差点を横断し、約350m歩くと右側に春日神社の社標が建つ参道入口がありました。
10時47分、春日神社・社標(右側)
春日神社社標から約400m歩くと、右側に矢除地蔵堂が祀られていました。
10時52分、矢除地蔵堂(右側)
※聖徳太子は仏教渡来に反対する物部守屋に狙われ、この地において矢を射掛けられると、地蔵菩薩が現れ身代わりとなったそうです。
矢除地蔵堂から約110m歩くと、交差点の手前左側に金毘羅大権現道標が建っていました。
10時54分、金毘羅大権現道標(左側)
道標から交差点を横断するなど約350m歩くと、斜め左に下る分岐があり、分岐を斜め左方向に入りました。
※分岐(斜め左方向)
分岐から街道(黄矢印)を離れて下り坂(白矢印)を約40m進むと、左側に万葉歌碑が建っていました。
10時58分、万葉歌碑(左側)
街道に戻り約30m歩くと、芹川に架かる大堀橋があり、橋の右側の歩道を渡りました。
10時59分、大堀橋
※芹川(右方向) ※大堀山(左方向)
大堀橋を渡ると大堀町交差点があり、右側に床の山碑が建っていました。
11時00分、床の山碑(右側)
※標柱に「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」と刻まれているそうですが、確認を忘れました。
交差点の右角に旭森公園があり、公園の奥に地蔵尊堂が祀られていました。
11時01分、地蔵尊堂(右側)
旭森公園にトイレがあったので、トイレ休憩を行いひと息入れました。
旭森公園を出て約45m歩くと、左側に多賀道道標が建っていました。
11時03分、多賀道道標(左側)
道標先の道路を横断した先の左側に、お休み処だったかどや跡にお休み井戸が残されており、解説標板が建っていました。
11時04分、かどや跡(お休み井戸)=左側
かどや跡の真向かい辺りに、石清水神社の参道入口の石段がありました。
11時04分、石清水神社・参道入口(右側)
石清水神社参道入口から約210m歩くと、右側に大堀家地蔵堂が祀られていました。
11時07分、大堀家地蔵堂(右側)
※建久元(1190)年、源頼朝はここで体調を崩し、地蔵菩薩に平癒を祈願したそうです。
大堀家地蔵堂から約90m歩くと、右側に彦根道道標が建っていました。
11時09分、彦根道道標(右側)
※道標 ※彦根道(赤矢印)
道標から約240歩くと右側の虫籠窓の家の先隣りに、地蔵堂が祀られていました。
11時12分、地蔵堂(右側)
地蔵堂から約350m歩くと、右側に高宮宿碑が建てられていました。
11時18分、高宮宿碑(右側)
高宮宿碑から約40m歩くと、右側に多賀大社常夜燈が建っており、ここが高宮宿の見附跡で江戸(東)口だったところです。
11時19分、多賀大社常夜燈(右側) ※高宮宿見附跡
常夜燈の直ぐ先に近江鉄道の踏切があり、横断して進みました。
11時19分、近江鉄道・踏切
踏切を渡り約180m歩くと、県道224号の高宮町大北交差点があり、交差点を横断した右側の建屋に木之本分身地蔵尊が祀られており、建屋の前に解説標板が建てられていました。
11時22分、木之本分身地蔵尊
地蔵尊から約200m歩くと、近江鉄道高宮駅入口分岐があり、今日の旅の到着地に着きました。
11時25分、高宮駅入口(到着地)
到着地である高宮駅入口に着き、相方のMさんと交互に到着式を行い今日の旅を終えました。
この後、急いで高宮駅に移動すれば、11時35分発の電車に乗車できましたが、当初の予定より1時間早く終了することが出来たので、高宮駅には向かわずに次回旅で歩く所を先に見学することにしました。
そして次回旅の史跡順に、
・布惣跡(現=宿駅座楽庵)
・旧庄屋宅
・高宮神社
・馬場提灯店
・松本酒店
を見学し、記録に残しました。
もう少し先まで見学しようかと思ったのですが、「雨が降ってきた」というMさんの声に反応し、松本酒店の所で踵を返し高宮駅に向かいました。
【帰路】
11時41分、近江鉄道高宮駅着
近江鉄道は東海道夫婦二人旅の時、Yumiさんと貴生川~水口石橋間で乗車したことがあり、約5年振りの乗車です。
ダイヤは1時間に1本で、次に乗る米原行きの電車は12:35発です。
それまで何もない駅で過ごさなければならず退屈にしていると、高宮と多賀神社を往復する電車が到着し、乗り換え客が乗車ホームに移動して来ると、静かだった駅が急に賑やかになりました。
12時35分、近江鉄道高宮駅発
2両編成の座席は80%くらいの混み方で、途中のJR接続駅の彦根駅に到着すると、乗客は私達2人と男性1人の3人だけになり、終点の米原駅まで同じでした。
〔出会い〕
さて、高宮駅で電車に乗ると、
H=Eさんではないですか。どうしてここにいるの?
と云われ、云われた方を見るとK山の会のH子さんです。
E=旧中山道の旅で来ており、今日これから帰ります。H子さんは?
H=友人(女性5人)と遊びに来て、多賀神社を見学した帰りよ
とお互いの状況を話し、東京から遠く離れた1時間に1本のローカル線の中での出会いに驚きました。
H子さんとはK山の会で一緒に会報作成を行った仲ですが、最近はK山の会の山行に参加していないので、出会うのは久し振りです。
H子さんは「今日はこれから彦根城を見に行く」ということで、彦根駅で別れました。
13時07分、近江鉄道米原駅着
終点の米原駅でJR線に乗り換え、みどりの窓口で指定席の変更を行い、駅構内の弁当販売で駅弁と缶ビールを買い、新幹線待合室でお腹を膨らませ旅の疲れを癒やしました。
13時57分、JR米原駅発
新幹線に乗ると、旅の疲れが出てきて途中で寝てしまい、気が付いたら小田原を過ぎていました。
16時10分、JR東京駅着
16時25分、JR東京駅発(中央線)
始発電車に乗り、ゆっくりと体を休めながら帰ってきました。
【次回の旅】
次回の第33回「旧中山道二人旅」は、暑い7月と8月の期間を休み、約3ケ月後の9月8日(土)
に再開し、高宮駅入口~五箇荘駅入口 歩程距離=約10.9㎞を旅する予定でいましたが、相方のMさんの奥さんが足の手術(8月15日)を受けることになり、奥さんの養生などを考え再開を1ケ月遅らせて、
・旅日=10月13日(土)
・行程=高宮駅入口~五箇荘山本郵便局
・歩程=12.78㎞
で旅することになりました。
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
https://michinoku-trail.blog.jp/