【天候】 晴れのち曇り 
【宿場】 (48)細久手宿 ⇒ (49)御嶽宿 ⇒ (50)伏見宿
【行程】 歩行距離=13.7㎞ 総距離=385.10㎞
細久手宿・大黒屋旅館前⇒(2.7㎞)⇒093鴨之巣一里塚跡⇒(1.9㎞)⇒県道65号変則五差路⇒(2.1㎞)⇒謡坂石畳⇒(2.3㎞)⇒国道21号合流⇒(2.05㎞)⇒本陣跡(野呂家)⇒(1.15㎞)⇒中交差点⇒(1.5㎞)⇒顔戸・顔戸交差点
【ルート図】
 ↓
宿場(桃色=第26回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
000 第26回宿場
 ↓第26回旅のルート
000-1 第26回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は宿泊した細久手宿・大黒屋旅館前を出発し、名鉄広見線顔戸駅入口の顔戸交差点までの約13.7㎞を歩き自宅に帰ります。
旅館の前で店主ご夫妻の見送りを受け、旅館前で出発式を行い出発しました。
出発する時、同宿した男性の動向を確認すると、先に出発したとのことで、「ご縁があったら途中でお会いするでしょう」と話し、お世話になったお礼を云って出発しました。
【=旅=】
07時50分、細久手宿・大黒屋旅館前(出発地)
002 大黒屋旅館前(出発地)
大黒屋旅館前を出発し約70m歩くと、右側に代々小栗八郎右衛門が勤めた本陣跡があり、跡地に標石が建っていました。
07時51分、本陣跡(右側)
003 本陣跡
本陣跡から約20歩くと、左側に仲町バス停があり、バス停奥の空き地が小栗八左衛門が勤めた脇本陣跡がありましたが、標識が何もなかったので、資料どおりに写真を撮って記録に残しました。
07時52分、脇本陣跡(左側)
004 脇本陣跡?
脇本陣跡から約170m歩くと、右側に南蔵院跡があり、斜面の上部に解説パネルが建っていました。
07時56分、南蔵院跡(右側)
005 南蔵院跡
南蔵院跡から約10m歩くと、右折できる分岐があり日吉・愛宕神社への参道になっていました。
※日吉・愛宕神社参道(右側)
006 日吉・愛宕神社参道
参道入口を過ぎると、右側に大塚由来があり、斜面に解説パネルが建っていました。
07時57分、大塚由来(右側)
007 大塚由来
大塚由来は皇女和宮の用便を埋葬し「おくそ塚」として敬拝した等を地名由来としたものです。
大塚由来から約160m歩くと、右側の斜面上の石窟内に寛政13(1801)年建立の馬頭観音が安置されている細久手坂の穴観音があり、手前に標柱と解説パネルが建っていました。
08時00分、細久手坂の穴観音(右側)
008-1 穴観音
観音の日にお参りすると、九万九千回お参りしたことになると云われているそうです。
穴観音から約110m歩くと、右側に津島神社が祀られており、赤い社と解説パネルが建っていました。
08時02分、津島神社(右側)
009-1 津島神社
津島神社から約150m歩くと、Y字路分岐があり、右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
010 分岐(右方向)
分岐(Y字路)から約150m歩くと、左側にカーブミラーが建っており、ミラーの先の右側にくじ場跡があり、跡地に標石が建っていました。
08時06分、くじ場跡(右側)
011 くじ場跡
この場所には茶屋があり、人足達が荷物の扱い順をくじで決めたことが名前の由来になっている。
くじ場跡から約140m歩くと、左側にカーブミラーが建っており、ミラーの斜め向かい側の斜面に馬頭観音が祀られていました。
08時08分、馬頭観音(右側)
012 馬頭観音
馬頭観音から約160m歩くと、右側に明治9(1876)年に建立された馬頭観音が祀られているという馬水池がありましたが、馬頭観音は確認出来ませんでした。
08時11分、馬水池(右側)
013 馬水池
馬水池から約190m歩くと、分岐(合流)があり、突き当りを右方向に進みました。
※分岐(合流)=右方向
014 分岐(合流)
分岐(合流)から約20m進むと、右側に鯉のぼりが飾られていました。
※鯉のぼり(右側)
015 鯉のぼり
さらに約20m歩くと、平岩橋があり、街道は渡って直進しますが、右折した先にある八幡神社に地名(平岩)の由来になった岩があるというので、右折して見学に立ち寄ることにしました。
※分岐(右折)
016 平岩橋分岐(右折)
なお、この分岐が平岩辻で、平岩橋を渡った右角に標石が建っていました。
08時14分、平岩辻碑(右側)
018 平岩辻
この辺りで昨晩同宿した男性と合流し、平岩辻から約100m入った八幡神社に一緒に立ち寄りました。
08時16分、八幡神社(左側)
017 八幡神社   017-1 参道
八幡神社の何処にあるのかと思いながら階段を上り境内に入りましたが、地名由来の平岩を見ることはできませんでした。
神社を出て平岩辻の分岐に戻り、右折して街道を進みました。
《同行者》
同宿した男性とはそれぞれのペースで歩き始めましたが、だんだんと気持ちが通い合うようになり、立ち寄るところも同じになり、昼食を一緒に食べ、御嵩駅までご一緒しました。
ほぼ一日、街道を一緒に旅したことはこれが初めてです。
平岩辻から約160m上り坂を歩くと、Y字路分岐があり、左方向の土道に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
019 Y字路分岐(左方向)
分岐点には西坂碑、少し先の左側に中山道碑が建っていました。
08時23分、西坂碑(右側)
020 西の坂碑
※中山道碑(左側)

021 中山道碑
分岐点から約80mさらに坂を上ると、右側の石垣の上に秋葉坂の三尊石窟があり、手前に標石が建っていました。
08時25分、秋葉坂三尊石窟(右側)
022 秋葉坂の三尊石窟   022-2 石柱
三尊は、
・明和5(1768)年建立の馬頭観音
・明和7(1770)年建立の千手観音
・石仏
で、個別の石窟に安置されていました。
三尊石窟から約100m歩くと、左側の斜面に馬頭観音が祀られていました。
08時28分、馬頭観音(左側)
024-1 標柱   024 馬頭観音
馬頭観音から約450m歩くと十字に交差する道があり、左側に道祖神と「右旧鎌倉街道迄約1里余」と刻まれた道標が建っていました。
08時35分、道祖神(左側)       ※道標(標柱後方の石柱)
025 道祖神   025-1 標柱
道祖神から約300m歩くと、右側に牛追いが盗賊に切られた切られケ洞があり、跡地に標石が建っていました。
08時39分、切られケ洞(右側)
026 切られケ洞碑
切られケ洞から約220m歩くと、日本橋から93番目の一里塚跡があり、両塚が残され、標石と解説パネルが建てられていました。
08時43分、093鴨之巣一里塚跡(両側)
※左塚                   ※右塚
027 93鴨之巣一里塚(左側)  027-1 93鴨之巣一里塚(右塚)
一里塚跡から約110m歩くと、瑞浪市日吉町と可児郡御嵩町の町境でしたが、見落としてしまい記録に残せませんでした。
さらに約30m(一里塚跡から約140m先)歩くと、右側に東海道標が建っているY字路分岐となり、右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
028 Y字路分岐(右方向)
分岐(Y字路)の先から「くじあげ坂」となりました。
※くじ上げ坂
029 くじあげ坂の下り
分岐(Y字路)から約850m歩くと、右側に石垣に囲まれた石窟内に馬頭観音が安置されていました。
08時58分、馬頭観音(石窟内)=右側
030 石積祠の馬頭観音
馬頭観音から約210m歩くと、右側に酒造業を営んでいた山内嘉助屋敷跡があり、残されている石垣の脇に標石が建っていました。
09時03分、山内嘉助屋敷跡(右側)
031-1 山内嘉助屋敷跡石垣
山内嘉助屋敷跡から約30m歩くと、左側に中山道道標が建っており、真っ直ぐに進みました。
09時04分、中山道道標(左側)
032 中山道石柱
中山道道標から約230m歩くと、右側に天満宮常夜燈が建っていました。
09時07分、天満宮常夜燈(右側)
033 天満宮常夜燈
天満宮常夜燈から約40m歩くと、左折する小路があり、津橋薬師堂があると思い街道を離れて見にいきましたが、場所を間違えてしまい街道に戻りました。
街道に戻り、水路に沿って約50m進むと、①左側手前に中山道道標の建つ十字路となり、横断してさらに約60m進むと、②右側手前に中山道道標の建つ県道65号に突き当たり、左折しました。
※①分岐(十字路)=直進        ※②分岐(合流)=左方向
034 分岐(横断し直進)  035 分岐(左折)
②の分岐合流から約240m歩くと、変則五差路となり、斜め右方向に進みました。
※分岐(変則五差路)=斜め右方向
036 分岐(斜め右の上り坂)
分岐の手前右側に、中山道碑、藤屋碑、明治6年4月創立の津橋村開道義校(学校)跡地碑が建っていました。
09時15分、中山道碑など(右側)
037 中山道道標・開道義校跡
また、斜め右方向の道の右側に、中山道道標が建っていました。
09時16分、中山道道標(右側)
038 中山道道標
分岐口から急勾配の道となり、約180m上ると、右側に観音堂の参道階段があり、階段脇に名号碑が建っていました。
09時18分、観音堂参道入口(右側)   ※名号碑
040 観音堂参道          040-1 名号碑
 観音堂の参道入口は鳥獣駆除の電線が張られていて、進入出来ないようになっていました。
観音堂参道入口から約50m歩くと、南無供養碑が建っていました。
09時19分、南無供養碑(右側)
041 南無供養碑
南無供養碑から約50m歩くと、左側に満開の八重桜が植生されており、記録に残しました。
※八重桜(左側)
042 八重桜
急勾配の坂は諸の木坂で、息を整えながら歩きましたが、先の二人との距離は離れるばかりでした。
※諸の木坂(先頭が同行者、後ろが相方のMさん)
043 急勾配の諸の木坂
元気で健脚のMさんは、この先で先行している同行者の方を追い抜いてしまい、私は息切れしながら峠に着きました。
地図で距離が測定出来ませんが、八重桜付近から約700m歩くと、馬の水飲み場跡があり、解説パネルが建っていました。
また、この場所が物見峠(諸之木峠)で、往時は5軒飲む茶屋があったそうです。
09時32分、馬の水飲み場跡(右側)
044 馬の水呑み場
馬の水飲み場跡から約70m歩くと、右側に皇女和宮が通行した際、休息のため御殿が作られた御殿場跡があり、御殿場入口に標石が建っていました。
09時33分、御殿場跡(右側)      ※解説パネル
045 御殿場跡  045-2 解説
標石の脇の階段を上ると、御殿場展望台となっており、東に恵那山、北に御嶽山、中央に笠置山が眺められるそうですが、中央の笠置山の頂上部(白丸)が少し見えただけでした。
※展望台(東屋)              ※笠置山の眺め
046 東屋  046-1 眺め(中央笠置山)
御殿場跡でひと休みしてから再出発しました。
左側にラ・プロヴァンスというレストランを過ぎると、舗装路に突き当たりました。
街道は舗装路を斜めに横切り謡坂に進みました。
※分岐(斜め横断)
047 分岐(舗装路を横断)
謡坂に入ると、右側=竹、左側=桧と、左右違う樹木の間の道となりました。
※左右違う樹木の道
048 右=竹 左=ヒノキ
そして約200m歩くと、左側に岐阜県名水50選に選ばれている唄清水があり、標石と解説パネルが建っていました。
09時46分、唄清水(左側)
049 唄清水  049-1 唄清水
唄清水の斜め前に、大正2(1913)年に建立された禁裡御所巡拝記念碑が建っていました。
09時46分、禁裡御所巡拝記念碑(右側)
050 禁裡御所巡拝記念碑
禁裡御所巡拝記念碑から謡坂を下りながら約370m歩くと、右側に竹炭工房がありました。
※謡坂
051 謡坂
09時50分、竹炭工房(右側)

052 竹炭工房
竹炭工房の先で分岐(合流)し、左方向に進みました。
分岐から約30m歩くと左側に、和宮が野立に使い、岐阜県名水50選に選ばれている一呑の清水があり、標石と解説パネルが建っていました。
09時52分、一呑の清水(左側)
054 一呑の清水  054-1 一呑の清水碑
一呑の清水の先で道はY字路に分岐し、右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右側
053 分岐(右側の道)
Y字路分岐から約50m歩くと、左側に石に囲まれた馬頭観音が安置されていました。
09時53分、馬頭観音(左側)
055 馬頭観音
馬頭観音から約80m歩くと、右側に十本木立場跡があり、跡地に標石と解説パネルが建っていました。
09時55分、十本木立場跡(右側)
056 十本木立場跡
十本木立場は参勤交代の時、警護の武士が駐屯したそうです。
立場跡から約30m歩くと、左折できる分岐があり、斜め左方向に進みました。
(分岐点に中山道道標が建っていました)
※分岐(斜め左方向)
057 分岐(左折)
分岐から約110m歩くと、左側に井戸脇に地蔵が安置されている地蔵の清水がありました。
09時58分、地蔵の清水(左側)
058 地蔵の清水
地蔵の清水から約50m歩くと、日本橋から94番目の一里塚跡があり、右側に塚が復元され解説パネルが建っていました。
09時59分、094謡坂十本木一里塚跡(右側)
059 94謡坂十本木一里塚跡  059-1 解説
謡坂十本木一里塚跡から約40m歩くと、右側に立場の共同洗い場があった十本木洗場跡があり、標板が建っていました。
10時01分、十本木洗場跡(右側)
060 十本木洗い場跡
十本木洗場跡から約20m歩くと、右側に広重画の題材になっている広重浮世絵御嶽モデル地の解説パネルが建っていました。
10時01分、広重浮世絵御嶽モデル地(右側)
061 広重浮世絵御嶽モデル地
モデル地から約10m先の左側に、十本木茶屋跡があり、解説パネルが建っていました。
10時02分、十本木茶屋跡(左側)
062 十本木立場跡
十本木茶屋跡から約60m歩くと、分岐(Y字路)があり、左方向の石畳の下り坂を進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
063 Y字路分岐(左の石畳)
分岐から約20m石畳を進むと、右側に謡坂石畳標石が建っており、傍にベンチが設けられていました。
10時05分、謡坂石畳標石(右側)
064 謡坂石畳碑  065 謡坂石畳
謡坂石畳標石から約60m歩くと、右側の木々に覆われた段上の石積みに囲まれた中に馬頭観音が安置されていました。
10時07分、馬頭観音(右側)
066 馬頭観音  066-1 馬頭観音

馬頭観音から約70m歩くと、右側に謡坂石畳解説パネルが建っており、その先に右折できる道があり、マリア像、七御前碑を見に街道を外れました。
※石畳分岐(右折)
067 七御前分岐(右折)
〔道案内〕

①右折して約50mで左折、②約30mで右折、③約40m進むとT字路となり右折しました。
※T字路を右折
068 分岐(右折)
④右折して約80m歩くと、右側に正岡子規の歌碑が建っていました。
10時12分、正岡子規歌碑(右側)
069 正岡子規歌碑
歌碑の先の右側に、七御前碑が建っていました。
10時12分、七御前碑(右側)
070 七御前碑
七御前碑の先の右側に、マリア像が建っていました。
10時13分、マリア像(右側)
071 マリア像
マリア像の斜め向かいにトイレがあり、用足を済ませて次に向けて出発しました。
戻りは来た道を④のところまで戻り、左折しないでそのまま直進し、約210m歩いて謡坂からの道に合流しました。
10時21分、分岐(合流) 黄矢印=街道 白矢印=私達が歩いた道
072 分岐(七御前からは右折)
黄矢印の街道と合流し、とどめき橋を渡るなど約50m進むと、分岐合流があり、左方向に進みました。
※分岐(合流)=左方向
073 分岐(左方向)
分岐から約260m歩くと、右側に耳の病にご利益があり、平癒したら錐(キリ)を奉納する耳神社があり入口に標石と解説パネルが建っていました。
なお、神社は急階段を上るため、門前で失礼させて頂きました。
10時26分、耳神社(右側)
074 耳神社入口  074-1 耳神社
神社から約70m歩くと、右側に馬頭観音が祀られていました。
10時27分、馬頭観音(右側)
075 馬頭観音
馬頭観音から約60m歩くとY字路分岐があり、右側の石柱道標(白丸)を見ながら右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向        ※石柱道標
076 分岐(右方向)  077 道標
分岐を右方向に約150m歩くと、再びY字路分岐となり、右側の上り坂を進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
078 Y字路分岐(右側)
分岐から約10m先の左側に、百八十八ケ所順拝納経塚碑が建っていました。
10時30分、百八十八ケ所順拝納経塚碑(左側)
079 百八十八ケ所巡拝納経塚
納経塚から約60m進むと舗装路から土道になり西洞坂です。
※西洞坂
080 西洞坂
土道に入って約140m歩くと、石積みの祠の中に寒念仏供養塔が安置されていました。
10時34分、寒念仏供養塔(右側)
081 寒念仏供養搭
寒念仏供養塔のある辺りから先は急勾配の下り坂で、牛の鼻が擦れて欠けてしまうと云われるほどの急な下り坂で、牛の鼻欠け坂と云われています。
※牛の鼻欠け坂
082 牛の鼻欠け坂
坂を下ると左側に進めるY字路分岐があり、街道はほぼ真っ直ぐに右方向に進みます。
※分岐(Y字路)=右方向
083 分岐(右方向)
約90m先で右折して進み、さらに約40m歩くとT字路分岐になり、左折して進みました。
※分岐(T字路)=左折
084 分岐(左折)
T字路分岐から約60m歩くと、文化13(1806)年に建立された馬頭観音が祀られていました。
10時39分、馬頭観音(右側)
085 馬頭観音
馬頭観音から約240m歩くと、階段上に石仏石塔があり、摩利支天王や南無阿弥陀佛の名号碑がありました。
10時42分、石仏石塔(右側)
086 石仏石塔群
石仏石塔から約210m歩くと、分岐合流し、左方向にすすみました。
※分岐(合流)=左方向(右側に道標あり)
087 分岐(左方向)
分岐合流から約40m先の左側に道標があり、その前の分岐を右折しました。
※分岐(右折)
088 分岐(右折)
右折した処に以下の道標が建っていたら正解です。
※道標
088-1 道標
右折した分岐から約400m歩くと、T字路分岐に突き当たり、右折して進みました。
10時51分、分岐(T字路)=右折
089 T字路分岐(右折)
分岐(T字路)を右折し、約140m歩くと十字路があり、左折しました。
※分岐(十字路)=左折
090 十字路分岐(左折)
左折して約80m歩くと、R21に突き当たり、右折しましした。
※分岐(T字路)=右折
091 T字路分岐(右折)
突き当たったR21を右折して直ぐの右側に和泉式部廟所案内があり、右折して見に立ち寄りました。
※分岐(右折)
092 和泉式部分岐(右折)
分岐して約20m進むと、右側に和泉式部の廟所がありました。
10時55分、和泉式部廟所(右側)
093 和泉式部廟所
和泉式部廟所から街道に戻り数m進むと、右側に中街道道標が建っていました。
10時56分、中街道道標(右側)
094 中街道道標
中街道道標から約70m進むと、右側の段上に郷社八幡神社社標が建っていました。
10時57分、郷社八幡神社社標(右側)
095 八幡神社社標
郷社八幡神社社標から約240m歩くと、R21の反対側に丸山稲荷神社が祀られていました。
11時00分、丸山稲荷神社(左側)
096 稲荷神社
丸山稲荷神社から約75m歩くと、R21と分岐して、右方向に進みました。
R21と分岐する付近は、日本橋から65番目の栢森一里塚があったと云われており、推定で付近の写真を記録に残しました。
11時01分、095栢森一里塚跡(?)
097 95栢森一里塚跡付近
一里塚跡付近の先は、R21の井尻交差点横の信号で、真っ直ぐに進みました。
※分岐(直進)
098 分岐(井尻交差点)=直進
井尻交差点横の信号から約700m歩くと、左側に御嵩電気があり、左角の宿場石柱道標(白丸)に沿って左折し県道341号に入りました。
11時12分、分岐(宿場石柱道標)=左折
099 分岐(左折)  99-1 石柱道標
分岐から約270m歩くと、右側に弘法堂があり、記録に残しました。
11時16分、弘法堂(右側)
100 弘法堂
弘法堂から約20m歩くと、T字路となり、右方向に曲がりました。
※分岐(T字路)=右方向
101 T字路分岐(右方向)
T字路分岐から約130m歩くと、左側に水神を祀ってある用心井戸がありました。
11時19分、用心井戸(左側)
102 用心井戸
用心井戸から約290m歩くと、御嵩郵便局先の十字路右の先角に高札場跡がありましたが、跡地に標識は建っていませんでした。
11時22分、高札場跡(右側)
103 高札場跡
高札場跡から約50m歩くと、十字路の右角に旧信濃屋(現みたけ薬局)がありました。
11時24分、旧信濃屋(現みたけ薬局)=右側
104 旧脇本陣跡
当初、現みたけ薬局は旧旅籠の吉野屋と思っていましたが、本陣脇に記されていた御嶽宿の家並み図で旧信濃屋と分かりました。
旧信濃屋跡から約80m歩くと、本陣の分家で主屋が明治10(1877)年建築の竹屋跡があり、資料館として保存されていました。
11時26分、商家竹屋跡(現資料館)=右側
105 竹屋資料館  105-1 竹屋資料館
商家竹屋跡から約20m進むと、代々野呂家が勤めた本陣跡があり、往時の本陣門が保存されていました。
11時27分、本陣跡(右側)
107 本陣跡  107-1 本陣表札
本陣跡の隣りは旧脇本陣で、現中山道みたけ館になっています。
11時28分、脇本陣跡(現中山道みたけ館)=右側   ※御嶽宿碑
108 旧脇本陣跡(現みたけ館)             109 御嶽宿
館内に宿場時代の資料等が展示されていましたが、休館日で見学することができませんでした。
中山道みたけ館から約50m歩くと、唐沢川に架かる唐沢橋があり、渡って進みました。
※唐沢橋
110 唐沢橋
唐沢橋を渡り、約30m進むと、左側に御嶽宿わいわい館があり、昼食を兼ねて立ち寄りました。
《昼食》
11時32分~12時18分、御嶽宿わいわい館(左側)

111 御嶽わいわい館
御嵩駅近くまで来ましたが、飲食店がありません。
「どうしようか」と思って立ち止まった御嵩宿わいわい館の幟りを見ると、蕎麦が食べられると記されているので、Mさんに「蕎麦でいい?」と聞くと「それが一番です」と即OKの返事があり、御嵩宿わいわい館に入りました。
※五月人形             ※鯉のぼり
111-1 館内展示(五月人形)  111-2 鯉のぼり
館内はテーブルと椅子がセットされており、五月人形や庭には鯉のぼりが飾ってありました。
私とMさんはざる蕎麦(大盛り)といなり(2個)を注文し、同行の同宿男性も蕎麦を注文していました。
配膳された蕎麦といなりでお腹を満たし、ザックを背負って出発しようと外に出ると、大黒屋旅館に一緒に泊まった女性2人が到着したところで、食べる所を探しているところでした。
「蕎麦で良かったら食べられますよ」と情報を提供し、男性3人の写真を撮って頂いて別れました。
同宿の男性は滋賀県に住んでいるとのことで、この先出会うことがあるかどうか分かりませんが、ひと時を一諸に過ごしお互いに思い出を作ることができたのは、ご縁としか云いようがありませんので、お会いする機会があったらと思います。
昼食を終え、同宿の男性(御嶽駅から電車で坂祝駅に移動し、未踏破区間を旅するそうです)
と分かれ、斜め向かい側の願興寺に立ち寄りました。
12時20分、願興寺(右側)
※本堂                   ※山門             ※からくり人形舞台
112 願興寺・本堂 112-1 山門 112-3 からくり舞台
願興寺から約50m歩くと、正面に名鉄広見線御嵩駅があり、駅前を右折しました。
12時22分、名鉄広見線御嵩駅
114 御嵩駅
※分岐(御嵩駅前)=右折
113 御嵩駅前分岐(右折)
駅前交差点を右折し、約30m進むと左側に神明神社がありました。
12時23分、神明神社(左側)
115 神明神社
神社から約150m歩くと、右側の先角に原写真館がある十字路があり、分岐を左折しました。
※分岐(原写真館前十字路)=左折
116 十字路分岐(左折)
左折して約250m歩くと、左側に卯建のある、格子戸のある旧大東酒店がありました。
12時28分、旧大東酒店(卯建のある家)=左側
117-1
旧大東酒店から約250m歩くと、十字路があり、左向かい角に文政4(1821)年に建立された常夜燈が建っていました。
12時32分、常夜燈(左側)
119 常夜燈
道は十字路を右折して進みました。
※分岐(右折)
118 十字路分岐(右折)
なお、分岐を直進して御嵩中郵便局を通り過ぎるなど約170m歩くと、名鉄広見線御嵩口駅があります。
常夜燈のある十字路を右折して約240m歩くと、右側の民家の間に秋葉山常夜燈が建っていました。
12時34分、秋葉山常夜燈(右側)
120 秋葉山常夜燈
秋葉山常夜燈から約30m歩くと、R21の中交差点となり、横断して進行右側を歩きます。
※分岐(中交差点)=左折
121 中交差点分岐(左折)
中交差点から約110m歩くと、右側に自然石道標がありました。
12時37分、自然石道標(右側)
122 自然石道標
自然石道標から約60m歩くと、右側に鬼の首塚がありました。
12時38分、鬼の首塚(右側)
123 鬼の首塚  123-2 全景
鬼の首塚は、鬼の太郎と呼ばれ悪漢が里人を困らせていたので、地頭が蟹薬師に祈願したところ、祭礼の日に女装して現れるとのお告げがあり、これを捕えて首を刎ねてここに葬ったそうです。
鬼の首塚の直ぐ横に正岡子規の歌碑が建っていました。
12時39分、正岡子規歌碑(右側)
124 正岡子規歌碑
歌碑から約270m歩くと、左側の農地に鶴が1羽おり、餌を探していました。
※鶴(左側)
125 鶴
鶴を眺めながら歩を進めると、大庭交差点の手前右側に御嵩神社が祀られていました。
12時45分、御嵩神社(右側)
126 御嵩神社
神社直ぐ先の大庭交差点を真っ直ぐ渡りました。
※大庭交差点(直進)
127 大庭交差点(直進)
大庭交差点から約150m歩くと、分岐があり、R21から分かれて右方向に進みました。
※分岐(右方向)
128 分岐(右側)
分岐から約300m先のマルイ食料品店などを通り過ぎ、約500m歩くと再びR21に合流しました。
12時54分、分岐(合流)=右方向
129 分岐(合流)
分岐合流から約100m歩くと、右側に八幡神社社標が建っていました。
12時55分、八幡神社社標(右側)
130 八幡神社社標
八幡神社社標から約90m歩くと、今日の到着地の顔戸交差点に到着しました。
《顔戸城址》
今日の到着地である顔戸交差点に着いたのですが、到着式の前に顔戸城址を見学することにし、進行右折して約50m歩くと、左側に顔戸城址のパネルが建っていました。
※城址パネル
132 顔戸城址
パネルの後部は堀跡のようになっており、館跡は堀跡のさらに後部のようで、別のところからでないと見れません。
掘割跡                   
133 掘割跡
解説パネルに記されていた道を辿って館跡を見に行きましたが、雑草が生い茂って跡形もない状況でした。
※館跡

134 城址案内(右折) 134-1 案内(右折) 134-2 城址
城址見学を終え到着地の顔戸交差点に戻り、恒例の到着式を行い、今日の旅を終えました。
13時11分、顔戸駅・顔戸交差点(到着地)
135 顔戸交差点(到着地)
【帰路】

到着式を終え、可児川に架かる顔戸橋を渡るなど約350m歩くと、名鉄広見線の顔戸踏切があり、踏切の手前の路地を入ると顔戸駅で、予定より30分早く到着しました。
※顔戸橋                        
136 顔戸橋    
※右側の眺め 
137 右側
※左側の眺め
138 左側
※顔戸駅             

 141 顔戸駅
名古屋駅で待つことになりますが、早く移動した方が良いと考え、予定を繰り上げて乗車しました。
13時33分、顔戸駅発
143 広見線
【次回旅の予告】
次回の第27回「旧中山道二人旅」は、
旅 日= 5月13日(日)
行 程=顔戸駅・顔戸交差点 ~ 坂祝駅・取組交差点
歩程距離=約13.90㎞
です。
前回の往路まで中央本線を利用していましたが、前回の帰路から東海道新幹線を利用するようになり、今回からは往復利用になり終着地(大阪・高麗橋)が近づいて来た感じがします。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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https://michinoku-trail.blog.jp/