【宿場】 (45)中津川宿 ⇒ (46)大井宿
【行程】 歩行距離=12.01㎞ 総距離=352.12㎞
中津川・新町交差点⇒(2.12㎞)⇒085上宿一里塚跡⇒(2.05㎞)⇒六地蔵橋⇒(2.25㎞)⇒086三ツ家一里塚跡⇒(1.3㎞)⇒篠原茶屋本陣前⇒(2.7㎞)⇒087関戸一里塚跡⇒(1.59㎞)⇒恵那・中央通1交差点
【ルート図】
↓宿場(桃色=第24回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第24回旅のルート
【旧中山道二人旅】
今回の出発地である中津川・新町交差点から作成しましたが、ブログ容量の関係から分割して作成することになりました。
ご迷惑をお掛けしますが、お許し下さい。
【=旅=】
14時12分、086三ツ家一里塚跡(右側)
一里塚跡の先は千旦林地下歩道になっており、資料では地下歩道を通って新道を潜る(黄矢印)ようになっていましたが、交通量も少なかったので、新道を横断(白矢印)して進みました。
※千旦林地下歩道(入口) ※千旦林地下歩道(出口)
新道を横断して約110m歩くと、右側に石に囲まれた三面六臂の馬頭観音が祀られていました。
14時14分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から約40m歩くとY字路分岐があり、左方向に進みます。
※Y字路分岐(左方向)
なお、右方向に約600m進むと、JR美濃坂本駅に着きます。
Y字路分岐から約200m歩くと十字路となり、十字路の手前左側に馬の水呑み池跡がありました。
14時17分、馬の水呑み池跡(左側)
馬の水呑み池跡の先の十字路を横断すると、右側に坂本立場跡があり、標石が建っていました。
※分岐(直進横断)
14時18分、坂本立場(右側)
立場跡は千旦林村と茄子川村の村境で、古くは東山道の宿駅だったそうです。
坂本立場跡から約80m歩くと、左側に約10基並んだ石仏石塔群がありました。
14時20分、石仏石塔群(左側)
石仏石塔群の先の県道420号線の下を潜り約30m歩くとT字路分岐となり、左折して進むと約20mで右折出来る分岐があり、分岐を右折して坂本川に架かる坂本橋を渡って進みます。
※T字路分岐(左折) ※分岐(坂本橋)=右折
坂本橋から約70m歩くと右側に、延享2(1745)年に建立された馬頭観音が祀られている坂本観音堂があるとのことでしたが、坂本観音由来碑が建っていました。
14時22分、坂本観音由来碑(右側)
坂本観音由来碑から約140m歩くと茄子川に架かる小橋があり、橋を渡るとY字路分岐となり右方向に進むのですが、分岐左側に高札場跡があり、標石が建っていました。
※Y字路分岐(右方向)
14時24分、高札場跡(左側)
また、高札場跡は茄子川村の東口だったそうです。
高札場跡から約140m歩くと右側に、木曽産出の材木を厳しく監視した尾州白木改番所跡あり、標石と解説パネルが建っていました。
14時26分、尾州白木改番所跡(右側)
尾州白木改番所跡から約180m歩くと左側に、長連寺薬師堂(確認できなかった)があり解説パネルが建っていました。
14時29分、長連寺薬師堂(左側)
長連寺は天正10(1582)年に岩村城主となった森蘭丸が建立したが、兵火で焼失してしまった。
長連寺薬師堂から約180m歩くと篠原茶屋本陣跡があり、解説パネルと明治天皇小休息した標石が建っていました。
14時32分、篠原茶屋本陣跡・明治天皇小休息碑(左側)
篠原家は茄子川村の村方役人と尾張領の庄屋を兼ね、皇女和宮や明治天皇もここで休息したそうです。
本陣を過ぎると遠州秋葉道があり、分岐する道の両側に秋葉山常夜燈が建っていました。
※遠州秋葉道(赤線)=分岐左折
茶屋本陣側(左側)の常夜燈は享和3(1803)年の建立で、右側の常夜燈は安永5(1776)年に建立されており、「是よりあきはみち」と刻まれています。
※秋葉山常夜燈(左側) ※秋葉山常夜燈(右側)
遠州秋葉道の分岐から約70m歩くと左側に、高札場跡があり、案内図パネルが建っていました。
14時36分、高札場跡(左側)
高札場跡から約80m歩くと左側に、茄子川村についての解説が記された標板が建てられていました。
14時37分、茄子川解説(左側)
茄子川解説から中山道道標(右側)が建っている十字路、急勾配の上り坂、広久手集会所前など、約550m歩くと右側の民家の敷地角に地蔵が祀られていました。
14時44分、地蔵(右側)
地蔵から約240m歩くと左側に、中山道道標と茄子川焼解説パネルが建っていました。
14時46分、中山道道標・茄子川焼解説パネル(左側)
標板には「茄子川焼は天正10(1578)年頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのが始まりで、木曽飯田方面からの帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博した」と記されていました。
解説パネルから約70m歩くと、中津川市から恵那市に入る市境標識が建っていました。
14時49分、市境標識(中津川市から恵那市)=右側
市境標識から約70m歩くと、右側に馬頭観音が祀られていました。
14時51分、馬頭観音(右側)
馬頭観音から約30m坂を上ると、右側に広久手坂の標石が建っていました。
14時51分、広久手坂標石(右側)
坂は標石から約30mで頂上となり下りの岡瀬坂になり、下り始めてから約70mの右側の斜面に岡瀬
坂の標石が建っていました。
※岡瀬坂
14時54分、岡瀬坂標石(右側)
岡瀬坂標石から約300m歩くと、左側に岡瀬沢社宮司の解説パネルが建っていました。
岡瀬沢社宮司解説パネルから約50m歩くと、岡瀬沢交差点があり、真っ直ぐに横断して進みました。
※分岐(岡瀬沢交差点)=直進
交差点を横断すると左側の植木の後ろに、岡瀬沢永代燈とあきば道標が建っていました。
15時02分、岡瀬澤永代燈とあきば道標(左側)
永代燈から約50m歩くと、濁川に架かる筋違橋があり、橋を渡った左側に岡瀬澤と濁川解説の標板が建っていました。
※筋違橋(濁川) ※岡瀬沢と濁川解説標板(左側)
筋違橋を渡った処から約50m歩くと、岡瀬沢観音堂参道口がありましたが、時間の関係から立ち寄らずに先に進みました。
15時04分、岡瀬沢観音堂参道口(左側)
参道口から約240m歩くと、左側に庚申塔が建っていました。
15時09分、庚申塔(左側)
庚申塔から岡瀬沢口バス停を通るなど約180m歩くと、側溝沿いの民家駐車場脇に庚申塔が建っていました。
15時11分、庚申塔(左側)
庚申塔から約80m歩くと右側に甚平坂公園があり、県道410号から分岐して真っ直ぐ公園に進みました。
公園に入ると、左側に甚平坂解説標板が建てられていました。
※分岐(公園内に入る) ※甚平坂解説標板(左側)
解説標板を左に見ながら公園内の階段を上り、再び県道410号に合流し右折して進みました。
※分岐(合流)=右折
分岐合流の右側には東屋があり、眺望が楽しめる展望台になっていました。
また、分岐合流を左折して約30m甚平坂を戻ると、左側に馬塚・犬塚解説パネルと根津甚平の供をした犬を埋葬した犬塚標石が建っていました。
15時17分、馬塚・犬塚解説パネル・犬塚標石(左側)
馬塚・犬塚解説パネルから街道分岐に戻り甚平坂を約80m上ると、左側に根津神社入口がありました。
15時19分、根津神社参道入口(左側)
参道入口から約20m進むと、右側の擁壁の上に蛇塚、馬頭観音などの甚平坂石仏群がありました。
15時20分、甚平坂石仏群(右側)
石仏群から約250m歩くと、左側に日本橋から87番目の関戸一里塚跡があり、跡地に標石が建っていました。
15時24分、087関戸一里塚跡(左側)
一里塚から約170m歩くと、街道は県道410号から分岐してガードレールの間を斜め左方向(黄矢印)に進みます。
※分岐(斜め左方向)
しかし、直進する県道410号沿いに明治天皇行在所跡の標石が建っていたので、そのまま県道410号を進み(白矢印)T字路分岐手前左側の段上に建っていた標石を記録に残しました。
15時27分、明治天皇行在所跡標石(右側)
行在所跡標石の先のT字路を左折し、約30m先で街道と合流し蓮華坂を下ります。
合流した処から約40m進むと、左側に蓮華坂の標石が建っていました。
15時29分、蓮華坂標石(左側) ※蓮華坂
蓮華坂標石から約40m先の左側に、長石塔を含めた石仏石塔群がありました。
15時30分、石仏石塔群(長石塔)=左側
石仏石塔群から約40m歩くと中央高速道路に架かる恵那峡橋があり、跨いで渡りました。
※恵那峡橋
恵那峡橋を渡ると直ぐの右側に菅原神社があり、境内入口脇に大井村内図が建てられていました。
15時31分、菅原神社(右側)
※大井村内図(右側)
街道は県道410号から分岐し、右側の階段を下ります。
※分岐(右側の階段を下る)
階段を下りた右側に馬頭観音が祀られていました。
15時33分、馬頭観音(右側)
馬頭観音の真向かいに大井宿案内絵図が建てられていました。
※大井宿案内絵図(左側)
大井宿案内絵図から約40m歩くと、右側に寺坂標石と上宿石仏石塔群が並んで建っていました。
15時34分、寺坂標石と上宿石仏石塔群(右側)
石仏石塔群から約10m進むと、安永元年(1772)に灌漑用水を引いた山本用水があり、右側の用水脇に解説パネルが建っていました。
15時35分、山本用水解説パネル(右側)
山本用水から約30m歩くと、明知鉄道線の中津架道橋があり、ガードを潜って進みました。
※明知鉄道線・中津架道橋
架道橋を潜った直ぐの左側に、題目碑が建っていました。
15時39分、題目碑(左側)
題目碑から約140m歩くと、右側に高札場跡標板と五妙坂標石が建っていました。
15時41分、高札場跡標板・五妙坂標石(右側)
五妙坂標石から約20m進むと、右側に復元した高札場が建っていました。
※復元高札場(右側)
復元高札場から約30m歩くと、横町川に架かる木製欄干の上横橋があり渡って進みました。
※上横橋(木製欄干)
上横橋を渡って約20m進むと、左折する第一枡形になりました。
※第一枡形(左折)
枡形の右角に延寿院横薬師がありました。
15時43分、延寿院横薬師(右側)
参道前を右折して約70m歩くと、左側に林本陣跡があり、本陣門が残されていました。
15時45分、林本陣(左側)
本陣跡の処が第二枡形で、右折します。
※第二枡形(右折)
右折すると左側に大きな旧家があり、記録に残しました。
旧家の2軒先の左側に、大井村庄屋を勤めた古山家(現ひしや資料館)がありましたが、広重美術館に行くため、立ち寄らないで記録だけ残しました。
15時46分、大井村庄屋・古山家(現ひしや資料館)=左側
現ひしや資料館から約50m歩くと、左側に宿の上問屋を勤め、大旅籠でもあった宿役人の家があり、家の前に解説パネルが建てられていました。
15時51分、宿役人の家(右側)
宿役人の家から約45m進んだ左側に高木善右衛門が勤めた脇本陣跡があり、ブロック塀の前に下問屋の解説パネルが建っていました。
15時52分、脇本陣跡(高木家)・下問屋跡=左側
脇本陣の向かい側は明治天皇が休息された行在所跡があり、標石が建っていました。
15時53分、明治天皇行在所跡(旧伊藤家・現岩井家)=右側
行在所跡から約20m歩くと、左側に空き地があり、仕切りフェンスに町医者跡と記された標板が掲げられていました。
15時53分、町医者跡(左側)
町医者跡から約80m歩くと、右角に旅館いち川があり、手前が第三枡形で右折しました。
※第三枡形(右折)
右折する角は旧旅籠屋角屋跡で、旅籠屋と木賃宿と記した標識が掲げられていました。
15時55分、旧旅籠角屋跡(左側)
第三枡形から約40m歩くと、左側に大井村の庄屋を勤めていた古屋家があり、屋敷の前に解説パネルが建てられていました。
15時56分、大井村庄屋古屋家跡(左側)
古屋家から約70m歩くと、市神神社に突き当たるT字路となり、ここが第四枡形で、左折しました。
※第四枡形(左折)
市神神社前の第四枡形を左折し、約70m歩くと右側に中央マンションがあり、マンション手前角に尾張藩白木番所跡があり、解説パネルが掲げられていました。
15時58分、尾張藩白木番所跡(右側)
番所跡から約50m歩くと、T字路分岐となり、ここが第5枡形で左折して進みました。
※第5枡形(左折)
左折して約70m歩くと、T字路となり、ここが第6枡形で右折して進みました。
※第6枡形(右折)
第6枡形を右折すると直ぐ阿木川に架かる大井橋がありました。
大井橋の欄干には中山道の浮世絵レリーフが飾られ、中山道の雰囲気を醸し出していました。
16時00分、大井橋の浮世絵レリーフ(左側)
大井橋を渡り真っ直ぐ約120m歩くと、到着地の恵那・中央通1交差点に到着し、到着の看板を掲げる恒例の到着式を行い、今日の旅を終えました。
※阿木川の眺め ※到着地手前の街道
16時03分、中央通1交差点(到着地)
この後、到着地の交差点を左折して、広重美術館に向かいました。
【広重美術館】
宿泊するホテルの先隣に浮世絵の広重美術館があり、見学に立ち寄りました。
16時10分~16時35分、広重美術館
受付で入場料(820円)を支払い、見学の注意を受け、展示されている浮世絵を見て歩きました。
館内には日本各地の浮世絵が展示されていましたが、展示がバラバラ(いろいろなものが入り乱れている)のように感じました。
また、館内に居るのは外国人ばかりで、浮世絵作成も外国人が場所を占拠していて行うことができず、高い入場料を取られた感じが残りました(Mさんも同じように感じていました)。
浮世絵作成が出来ていればもう少し高い評価になったかもしれませんが、浮世絵だけの見学なら二度見る必要はないように思いました。
今日宿泊するホテル(シティホテル・ミチ)は広重美術館の隣りにあり、見学を終え、ホテルに向かいました。
【宿泊】※シティホテル・ミチ
宿泊料=6,000円(一泊朝食付き・税込み)
夕食=事前予約すると定食(800円~1,000円程度)あり
※昼食ランチのレベルなので、あまりお勧めできない
朝食=レベルは中の下レベル
居室=シングルの部屋としては広く、快適に過ごせる
トイレ=ウォシュレットなし・・・ビジネスホテルで装備されていなかったのでビックリしました
【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
https://michinoku-trail.blog.jp/
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