【宿場】 (50)伏見宿 ⇒ (51)太田宿
【行程】 歩行距離=13.8㎞ 総距離=398.9㎞
顔戸・顔戸交差点⇒(2.25㎞)⇒伏見交差点⇒(2.2㎞)⇒中恵土交差点⇒(1.95㎞)⇒住吉交差点⇒(2.05㎞)⇒098古井一里塚跡⇒(2.45㎞)⇒日本ライン漁協前⇒(1.9㎞)
⇒099取組一里塚跡⇒(1.0㎞)⇒取組交差点
【ルート図】
↓宿場(桃色=第27回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
↓第27回旅のルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は自宅を出発し、新幹線と名鉄広見線を乗り継いで顔戸駅に移動し、顔戸駅から約350m離れた顔戸交差点を出発し、木曽川に架かる太田橋を渡り、JR高山本線坂祝駅入口の取組交差点まで歩きます。
朝、家を出発した時は曇りでしたが、移動の途中から雨が降り出し、出発地の顔戸駅から傘を差して出発地に向かいました。
【=旅=】
10時28分、顔戸・顔戸交差点(出発地)
相方のMさんと交替で出発式を行い、旅に出発しました。
顔戸交差点を出発し約400m歩くと左側に横浜飯店があり、横浜飯店の約50m先がY字路分岐で、右方向に進みました。
※Y字路分岐(右方向)
Y字路分岐に入る右側に、日本橋から96番目の一里塚があり、跡地に標柱が立っていました。
10時34分、096比衣一里塚跡(右側)
一里塚跡から約100m歩くと、Mさんが衣服調整したいということで、民家の屋根付き駐車場に入り、衣服調整と地図の入れ替えを行いました。
※地図の入れ替えは私が約1㎞、Mさんが約1.5㎞ごとに行うのですが、晴天の時は歩きながらできるのですが、雨天の時は民家の庇や屋根付き駐車場をお借りします。
作業が終わり出発して約15m歩くと、左側に町の銘木になっている柿の木が植生されていました。
10時38分、御嵩町銘木・柿の木(左側)
柿の木から約150m歩くと、高架の東海環状自動車道が架設されており、下を潜って進みました。
10時39分、東海環状自動車道ガード
ガードを潜ると左側が竹林、右側が樹木帯の道となり、左右違う樹木が植樹されている景色を眺めながら進みました。
ガードを潜ってから約400m歩くと、変則四差路となり、街道は左折(カラー舗装の道)して進むのですが、左折する右前方に中山道の道標(写真の白丸)が立っていました。
※分岐(変則四差路)=左折 ※中山道道標
左折して歩き始めると、角から二軒目の左側の民家のご主人が出て来られ、
主人=この十字路は左折しないで真っ直ぐに行く人が多い
E=道標の立っている場所が悪いのかも知れません
などと話しに応じると、長々と講釈が始まりそうだったので、「スイマセン」と云って先に進みました。
変則四差路から約170m歩くと、R21号に合流する手前の右側斜面に中山道道標が立っており、右方向に進みました。
※分岐(合流) ※中山道道標
合流したR21号を右方向に約400m歩くと、右側に伏見駐在所があり、駐在所に沿って斜め右方向に進みました。
10時54分、分岐(駐在所前)=斜め右方向
駐在所の前を斜め右方向に進むと、約60mで左折しました。
※分岐(左折)
分岐する右側(駐在所の裏)は4世紀後半に築造された前方後円墳の高倉山古墳ですが、記録だけ残し先に進みました。
※高倉山古墳(右側)
分岐を左折して約80m歩くと、十字路があり、街道は直進(黄色矢印)するのですが、十字路を右折(白色矢印)すると大柳跡がありますが、雨天のため望遠で記録だけ残しました。
※大柳跡(右側)
大柳は櫛を供えると苦死から逃れ、早く親元に帰れると云われたそうです。
十字路から約70m歩くと、再びR21号に合流し、右折して進みました。
※T字路分岐(右折)
分岐から約150m歩くと、左側に伏見公民館があり、その前に伏見宿の本陣跡があり、標石が立っていました。
また、尾張藩の領界石が建っていました。
11時00分、本陣跡碑・尾張藩領界石(左側)
本陣跡碑から約140m歩くと伏見交差点があり、交差点手前の右側にトイレが備えられた一本松公園があり、街道に面した処に兼山道道標(白丸)が建っていました。
11時03分、兼山道道標(一本松公園)=右側
※一本松公園 ※兼山道道標
一本松公園から約110m歩くと、左側に生薬「感応丸」を商っていた旧旅籠三吉屋跡がありました。
11時05分、旧旅籠三吉屋跡(左側)
※旧旅籠三吉屋跡(左側) ※伏見郵便局
旧旅籠三吉屋跡から約60m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
11時07分、道祖神・燈籠(右側)
道祖神から約170m歩くと、右側に「南無阿彌陀佛」槍ヶ岳を開山した浄土宗の播隆上人が建立した名号碑が建っていました。
11時09分、名号碑(右側)
名号碑から約60m歩くと、左側に正岡子規の句碑が建っており、「すげ笠の生国名のれほととぎす」と記されていました。
11時10分、正岡子規句碑(左側)
正岡子規は伏見宿に宿泊し、新村湊から川舟で木曽川を下ったそうです。
句碑から約170m歩くと、上恵土交差点があり、交差点左角に大正4(1915)年に建立された犬山道道標が建っていました。
11時14分、犬山道道標(左側)
道標には「右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」「左多治見及犬山ニ至ル約4里」と刻まれていました。
犬山道道標から約400m歩くと右側に弘法堂が祀られており、境内に四国西国巡礼碑や新四国第八十六番札所碑が建っていました。
11時19分、弘法堂(右側)
弘法堂から約60m歩くと、寛文6(1666)年に再建された上恵土神社が祀られており、神明神社、白山神社を合祀されていました。
11時20分、上恵土神社(右側)
上恵土神社から約200m歩くと、分岐が2つ続いており、
①右方向に行かないでそのままR21号を直進
②約60m先でR21号は左にカーブして上恵土本郷西交差点に向かいますが、街道はそのまま直進して進みます
②の分岐から約250m歩くと、右側の市原産業のところで再びR21号に突き当り、右折して進みました。
※分岐(合流)=右折
分岐から約650m歩くと中恵土交差点があり、交差点の手前右側の交差点を潜る地下道出入り口脇に、日本橋から97番目の中恵土一里塚があり、塚跡に標石が建っていました。
11時34分、097中恵土一里塚跡(右側)
中恵土一里塚跡から約550m歩くと、可茂公設市場交差点があり、交差点を廻り込む感じで斜め右方向に進み、そのままR21号に合流しないで側道を進みました。
※分岐(斜め右方向) ※分岐(右側の側道を進む)
右側の側道を約300m歩くと、JR大多線の中山道踏切があり、踏切の約30m手前の右側に辞世塚があり碑が数基建っていると資料に記されていましたが、塚と思われる場所は更地になっているだけで碑はありませんでした。
11時48分、辞世塚?(右側)
辞世塚跡の先にある中山道踏切に着くと、警報機が鳴り列車が走り抜けていきました。
※JR大多線・中山道踏切
踏切を渡り約250m歩くと、左側に可児人形光峰作があり、見学させて頂きました。
11時52分、可児人形・光峰作(左側)
可児人形から約30m先の段上に、北斗七星、または北極星を神格化した開運北辰妙見大菩薩碑が建っていました。
11時55分、開運北辰妙見大菩薩碑(右側)
碑から約300m歩くと、左側に東住吉自治会館があり、会館の前に秋葉神社が祀られていました。
11時59分、秋葉神社(左側)
秋葉神社から約350m歩くと住吉交差点があり、昼時ということで、交差点を渡った処を左折し、約60m歩いた右側のとんかつ海老かつ幸せや今渡店に向かいました。
※住吉交差点(黄色=街道・白色=食事)
12時06分~12時51分、とんかつ「幸せや」
昼食は事前にMさんが幾つか候補の中から出発地から約6~7㎞付近のとんかつ店にしようと考えていたので、異論なくその店を目指しました。
普通ですと2時間くらい要するのですが、途中に史跡がほとんどないため、どんどん進むことができ、2時間しないで店舗に着きました。
店舗に入ると数組の待ち状態で、注文して案内を待ちました。
少しすると食べ終わった人が出てきて、靴を脱いで座敷に上がるか、そのままテーブル席になるのかが微妙な状態になりました。
実は、私の靴は防水機能が切れていたため、水が入り靴下がビショビショ状態だったので、座席となると靴下を脱がなくてはならない状態でした。
そのため、何とかテーブルと思っていると、実にタイミング良くテーブル席が空き、案内する人にテーブル席をお願いし靴下を脱がないで済みました。
注文したランチのロースとんかつ(1,080円)はご飯、味噌汁、キャベツはお替り自由で、注文したとんかつはランチとは云え美味しくて、Mさんと「美味しいね」と云いながらニコニコ顔で配膳されたものを全て完食しました。
店外に出ると雨は降り続いており、傘を差して今日の到着地を目指して出発しました。
住吉交差点に戻り、約550m歩くと、境内に龍の枕石があるというので立ち寄りました。
13時00分、龍の枕石(龍洞寺)=右側
※龍洞寺 ※龍の枕石
龍洞寺から約60m先に進むと、右側に富士浅間神社がありましたが、参道入口で一礼して失礼しました。
13時04分、富士浅間神社(右側)
神社の前に分岐があり、資料では右カーブして太田橋を渡るのですが、私達は今渡の渡し場があった当時の道を進むことにしました。
※分岐(直進)
分岐から約170m歩くと、正面右側に別格今渡弘法大師石柱が建っており、右折しました。
13時07分、別格今渡弘法大師石柱(左側)
※分岐(右折) ※別格今渡弘法大師石柱(左側)
分岐を右折して約60m歩くと、左側に庚申塔が祀られていました。
13時09分、庚申塔(左側)
街道は庚申塔の先がY字路分岐となり、弘法堂を見学するため、左側の下り坂を進みました。
※分岐(Y字路)=左側
13時10分、弘法堂(左側)
※弘法堂 ※さざれ石
弘法堂から約100m進むと木曽川に架かる太田橋のたもとに出るので、左折して太田橋を渡りました。
13時14分、太田橋
※太田橋 ※木曽川(進行右側)
太田橋を渡ると、可児市から美濃加茂市に入る市境標識が建っていました。
13時22分、市境標識(可児市から美濃加茂市)
市境標識を過ぎ約190m歩くと化石林公園に入る道があり、ガードレールの合間(鎖)から道路を横切り、公園側に移動しました。
※分岐(左折横断)
道路を横断し公園側に約70m歩くと、左側が公園内に向かう下り坂、直進が土手の上道、右側が土手の下道の分岐となり、真ん中の道を直進しました。
※三差路分岐(直進)
化石林公園は太田の渡し場跡があるのですが、かなり強い降雨状態だったので、公園には行かないで望遠で解説標石を記録に残しました。
※化石林公園(左側) ※解説標石 ※化石林碑
三差路分岐から約400m歩くと、右側にアメンボーク碑があり、土手下に彫刻が設置されていました。
13時33分、アメンボーク(右側)
アメンボーク碑から約130m歩くと、文化会館に下る階段があり、階段を下って約50m進むと土手下に日本橋から98番目の一里塚跡があり、跡地に標柱が建っていました。
13時35分、098古井一里塚跡(右側)
一里塚跡から土手上の道に戻り約170m歩くと、右側に岡本太郎の父親で漫画家の岡本一平終焉の地碑が建っていました。
13時39分、岡本一平終焉の地碑(右側)
岡本一平碑から約80m歩くとY字路分岐となり、右側の道に進み、約80m先の柏木ポンプ場前(東の枡形跡)を右折し、さらに約70m歩先の神明堂交差点を小島屋側(一番左側)に左折しました。
※分岐(右側) ※分岐(右折) ※分岐(左折)
神明堂交差点の右側に、飛騨高山道と善光寺道の追分道標が建っていました。
13時43分、追分道標(交差点右側)
神明堂交差点から約50m歩くと、左側の民家の敷地内に太田宿碑が建っていました。
13時45分、太田宿碑(左側)
宿碑から約60m歩くと左側に休憩所やトイレがある神明水神公園がありました。
13時47分、神明水神公園(左側)
公園から約90m歩くと、右側に太田宿碑が建っていました。
13時48分、太田宿碑(右側)
宿碑から約10m先の左側に、髭題目碑が建っていました。
13時48分、髭題目(左側)
髭題目から約130m歩くと、新町木戸門跡があり、左側に標柱が建っていました。
13時50分、新町木戸門跡(左側)
木戸門跡から約120m歩くと、左側に卯建の家・坂口屋がありました。
13時53分、卯建の家・坂口屋(左側)
坂口屋から約80m歩くと、美濃太田駅入口の分岐(右折=白矢印)があり、左側に案内標柱が建っていました。
※分岐(美濃太田駅入口)
美濃太田駅入口から約40m歩くと、左側に太田稲荷神社があり、稲荷神社独特の赤い鳥居が参道に並んで建っていました。
13時56分、太田稲荷神社(左側)
太田稲荷神社から約50m歩くと、上町枡形跡で、当時の痕跡を残していました。
※上町枡形跡
枡形跡から約20m歩くと左側に祐泉寺があり、境内に芭蕉句碑、坪内逍遥、北原白秋の歌碑があるので立ち寄りました。
13時58分、祐泉寺(左側)
※芭蕉句碑 ※坪内逍遥歌碑 ※北原白秋歌碑
祐泉寺を出て約15m進むと、右側に明治40(1907)年に建築された十七銀行旧太田支店跡がありました。
14時00分、十七銀行旧太田支店跡(右側)
支店跡の斜め前に、江戸時代末期の町屋建築を残している旧旅籠小松屋がありました。
14時01分、旧旅籠小松屋(左側)
小松屋から約30m歩くと、右側に永楽屋がありました。
14時05分、永楽屋(右側)
永楽屋の隣りに辰巳屋がありました。
14時05分、辰巳屋(右側)
辰巳屋から約130m歩くと、右側に明治26(1893)年に創業された御代桜酒造がありました。
14時09分、御代桜酒造(右側)
酒造から約30m歩くと、太田村庄屋、尾張藩勘定所を兼ね、播隆上人が亡くなった林脇本陣があり、家の前に解説標板が建っていました。
14時10分、林脇本陣跡(左側)
林本陣の真向かいは駐車場で、駐車場の脇に宿場絵図が建っていました。
14時13分、太田宿絵図(右側)
脇本陣から約30m歩くと、左側に太田宿中山道会館がありましたが、雨天ということで立ち寄りませんでした。
14時14分、太田宿中山道会館(左側)
中山道会館から約10m先の右側に、庄屋を兼ねた福田本陣跡があり、皇女和宮が降嫁で立ち寄る際に新築された本陣門(薬医門)が残されていました。
14時14分~14時40分、福田本陣跡(右側)
本陣門の写真を撮って次に向かおうとしている時、私のことをジロジロ眺めるお年寄りがいたので、
E=何かありますか?
福=街道歩きしているのか
E=はい
福=私は本陣の22代目で、和宮様が使われた食器などが家に残されている。本物を目の前で見ることなど他ではないので見て行くか?
と聞かれ、直ぐに「見せて下さい」と二つ返事で了承し、先に進んでいた相方のMさんを呼び返し、旧本陣跡取り宅(22代目当主=福田幸周・フクダユキチカ)で見せて頂くことになりました。
〔見学〕
家に入れて頂くのは有り難いのですが、防水切れ状態の私の靴下はびしょ濡れです。
そのため、玄関で靴下を脱いで上がらせて頂き、和室に展示してある和宮様(3飯3汁7菜)とお付きの人(2飯2汁7菜)の食器を見せて頂くと、素晴らしい絵柄でした。
※和宮使用の食器(手前) ※下賜された品 ※江戸期の兜
街道旅で沢山の本陣を訪れているので皇女和宮のことは解説などで知っていましたが、実際に使用した容器を見ることは初めてで、良い機会に恵まれました。
福田本陣から約110m歩くと、右側に亀屋酒店があり、記録に残しました。
14時41分、亀屋酒店(右側)
亀屋酒店から約70m歩くと、十字路分岐の手前角に高札場跡があり、解説パネルが建っていました。
14時42分、高札場跡(右側)
高札場跡の処は西枡形跡で、街道は左折して進みますが、左折する右角(二共燃料店の角)に郡上街道追分道標が建っていました。
※分岐(左折)
14時42分、郡上街道追分道標(右側)
追分道標から約80m歩くと、右側に庚申堂がありました。
14時43分、庚申堂(右側)
庚申堂から約50m歩くと街道は右に曲がる枡形道になり、分岐から約60m歩くとR41号の高架があり、高架下を潜った先を左折し、右側の虚空蔵堂の見ながら進みました。
※分岐(右折) ※分岐(左折)
14時47分、虚空蔵堂(右側)
虚空蔵堂の裏手を過ぎた処の右側に、坪内逍遥ゆかりのムクノキが生育されていました。
14時49分、坪内逍遥ゆかりのムクノキ(右側)
ムクノキを過ぎると木曽川沿いの土手道に合流し、土手の上道を歩きました。
※分岐(土手道に合流) ※分岐(土手上道)
今まで降雨の中の街道歩きを何回も経験してきましたが、風は吹いていませんでした。
ところが今日は強い向かい風が吹き、傘を前に向けないと雨に濡れてしまうため、史跡見学は街道筋だけになりました。
土手道に合流してから約650m歩くと、右側に深田スポット公園があり、公園の手前右側に兼松しょう風句碑(承応三年・1654に深田村で生まれ、美濃を代表する俳人であった)が建っていました。
15時00分、兼松しょう風句碑(深田スポット公園)=右側
深田スポット公園から約600m歩くと、一色大橋に通じる十字路があり、右折して進みました。
※一色大橋の眺め
分岐(十字路)を右折し、右側に目印となるホテルチョコレを確認ながら約110m歩くと、R21号に突き当たり左折しました。
※分岐(十字路)=右折 ※ホテルチョコレ ※分岐(T字路)=左折
分岐(T字路)から雨中のR21号を約1.1㎞歩くと、右側の日本プレス工業の敷地が終わる処に四谷川が流れており、四谷川を渡った左側に日本橋から99番目の一里塚跡があり、跡地に標柱が建っていました。
15時22分、099取組(勝山)一里塚跡(左側)
一里塚跡から約250m歩くと、坂祝町役場前交差点で、交差点を左折しました。
15時26分、分岐(坂祝町役場前交差点)=左折
左折して約50m歩くと木曽川の堤防上の道・日本ロマンチック街道に出ます。
※分岐(日本ロマンチック街道)=右折
日本ロマンチック街道を約300m歩くと、行幸公園があり、トイレに立ち寄るとともに、今日の到着地の取組交差点があるR21号に移動しました。
15時33分、行幸公園(右側)
R21号を約400m歩くと、右側の宝積寺に通じている路地の角に石仏群がありました。
15時40分、石仏群(右側)
石仏群から約40m歩くと、今日の到着地である取組交差点に到着しました。
15時41分、坂祝・取組交差点=到着地
到着地を記した看板を掲げて到着式を行い、今日の旅を終えました。
【宿泊】
《移動》
15時49分、坂祝駅着
取組交差点で到着式に時間を要してしまい、坂祝駅に着くと少し前に電車が発車してしまい、約30分待つことになりました。
16時14分、坂祝駅発
無人駅の駅舎で次発の電車を待ち、定刻で到着した2両編成の電車で1駅先の美濃太田駅(終点)に移動し、宿泊するホテルに向かいました。
16時19分、美濃太田駅着
ホテルはホテルルートイン美濃加茂で、駅舎から徒歩1分です。
16時24分、ホテル着(ホテルルートイン美濃加茂)
【次回の予告】
次回の第28回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=5月14日(月)
行 程=坂祝・取組交差点 ~ 岐阜駅入口交差点
歩程距離=約22.6㎞
で、到着地から約400m離れたJR岐阜駅に移動し、駅北口にあるホテルに宿泊します。
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
https://michinoku-trail.blog.jp/
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