【天候】 晴れ 
【宿場】 (51)太田宿 ⇒ (52)鵜沼宿 ⇒ (53)加納宿
【行程】 歩行距離=22.6㎞ 総距離=421.2㎞
坂祝・取組交差点⇒(2.3㎞)⇒R21うとう峠入口分岐⇒(2.85㎞)⇒鵜沼中山道交差点⇒(2.75㎞)⇒102山の前一里塚跡⇒(2.05㎞)⇒三ツ池町交差点⇒(2.0㎞)⇒103六軒一里塚跡⇒(2.2㎞)⇒門前町1交差点⇒(2.3㎞)⇒東海北陸道ガード下⇒(3.35㎞)⇒105細畑一里塚跡⇒(2.8㎞)⇒岐阜・駅入口交差点
【ルート図】
 ↓
宿場(桃色=第28回旅の宿場・黄色=踏破済の宿場)
000 第28回宿場
 ↓
第28回旅のルート
000-1 第28回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は宿泊した美濃太田駅(ホテルルートイン美濃加茂)からJR高山線で次駅の坂祝駅に移動し、昨日の到着地(取組交差点)からうとう峠~鵜沼宿~各務原駅前~三柿野駅前~新加納駅前~岐阜駅入口交差点までの約22.6㎞を旅し、約650m離れたコンフォートホテル岐阜に移動し泊まります。
今回の旅は、群馬県と長野県の境の碓氷峠から始まった峠道の最後となる「うとう峠」を歩いたり、参考にした資料に間違いがあり、当初予定した旅程が18㎞ ⇒ 約22㎞と約4㎞延長になるなど、厳しい旅になりそうです。
《移動》
今日は昨日の雨が止み、晴天の旅日和になりそうです。
旅支度を整え、朝食を摂りホテルを出て、美濃太田駅で坂祝駅までの切符を買い、ホームに降りると電車が入線しており、出発する時は通勤、通学客で座席は満席で、かなりの人が立っていました。
07時30分、美濃太田駅発
07時35分、坂祝駅着
003 坂祝駅
美濃太田駅から1駅目の坂祝駅で下車すると、無人駅で切符を入れる箱もありません。
切符を置く適当な場所がなかったので、旅の記念に切符を持ち帰ることにしました。
【=旅=】
坂祝駅から約260m歩いて出発地の取組交差点に向かい、交差点で恒例の出発式を行い、今日の旅を出発しました。
07時40分、坂祝・取組交差点(出発地)
004 取組交差点(出発地)
R21号の交差点を渡り、階段を上って木曽川沿いの土手道である日本ロマンチック街道を進みます。
※分岐(階段)=右折           ※日本ロマンチック街道
005 分岐(階段上を右折)  006 日本ラインロマンチック街道
日本ロマンチック街道を歩くと、右前方の山の頂上に斉藤道三と通じて織田信長に反旗を飜えし落城した猿ばみ城(多治見修理)が見え、望遠で記録に残しました。
※猿ばみ城址(正面)
008 猿ばみ城址
日本ロマンチック街道は取組交差点の先約850m続くのですが、史跡などがR21号沿いにあるため、約250m歩いた村の鎮守である平野神社参道入口の処で階段を降り、R21号を横切り、進行右側に戻りました。
平野神社は街道から約200m離れた高台にあり、参拝を割愛し先に進みました。
平野神社参道入口から約400m歩くと、進行左側に水神・庚申塔が祀られており、進行右側から望遠で記録に残しました。
07時50分、水神・庚申塔(左側)
009 庚申塔・水神様
水神・庚申塔から約40m歩くと、勝山交差点があり、交差点の手前右側に「左江戸善光寺、左せきかじ」と刻まれていました。
07時53分、勝山道標(右側)
010 勝山道標
せきかじとは、刀匠関孫六で有名な刀鍛冶の関に至る道です。
勝山道標から約150m歩くと、右側に勝山神明神社御跡地之碑が建っていました。
07時56分、勝山神明神社御跡地之碑(右側)
011 勝山神明神社御跡地之碑
跡地之碑の斜め左側が、日本ロマンチック街道の終点です。
跡地之碑から約160m歩くと勝山西交差点があり、交差点の先で右側の岩屋観音駐車場に入って進むのですが、駐車場付近は三角強飯の立場があった処です。
※岩屋観音駐車場(右側)
013 岩屋観音駐車場(立場跡)
勝山西交差点から駐車場の中に入って真っ直ぐに約100m進むと、左側に中山道道標が建っている①岩屋坂の入口があり、②土道を進むと③左側に木曽川を眺める落石防護ネットの間の道になります。
①分岐(岩屋坂入口)=直進  ②土道              ③木曽川を眺める道
014 分岐(右側)  014 分岐(右側)  016 左の木曽川
落石防護ネットの道を過ぎ、坂道を上ると左側に岩屋坂碑が建っていました。
08時04分、岩屋坂碑(左側)
017 岩屋坂之碑
岩屋坂碑から約150m歩くと、右側に岩窟内に石造の「岩屋観世音菩薩」が安置されている岩屋観音堂があり、往時は旅人に篤く信仰されたそうです。
08時06分、岩屋観音堂(右側)
020 岩屋観音堂
観音坂は皇女和宮が通行する時、一尺五寸(約45.45㎝)拡幅されたそうです。
岩屋観音堂から下ると落石防護ネットで仕切られた道となり、階段を下った処を折り返す形で曲がり、ガードレールのある処で斜め右方向の遊歩道に進み、約130m歩くと再びR21号に合流します。
※分岐(折返し)          ※分岐(斜め右の遊歩道)  ※分岐(R21に合流
021 分岐(階段下を右折)  022 分岐(右方向)  023 分岐(合流)
R21号に合流し、国道沿いを約450m歩くと右側に五代目食堂があり、さらに約350m歩くと進行左側に
①.黄色=この先 急カーブ
②.青地に白文字=気をつけて お帰りください これより岐阜方面
③.②の看板の下方に「この道は中山道」と方向を記す矢印
の案内標識が建っており、標識の手前を左折して駐車場に入ります。
08時17分、分岐=うとう峠入口(左折)
024-1 分岐(左側の駐車場に入る)うとう峠入口
駐車場を真っ直ぐ進み、右側が石垣の階段を降り、川沿いの側道のトンネルを潜り、トンネル先の階段を上ります。
※階段を下りる           ※トンネルを潜る       ※階段を上る
024-2 階段を降りる  024-3 川沿いのトンネルを潜る  024-4 階段を上る
土道を標識(うとう峠)に沿って左に曲がり、木橋を渡り、Y字路を左方向に進むと左側に砂防堤があり、砂防堤を過ぎると石畳道となり、いこいの広場になりました。
※土道                ※木橋
024-5 標識に沿って左折  024-6 木橋を渡り左方向
08時27分~08時33分、休憩(石畳道といこいの広場)
025 いこいの広場
ここで水分補給の休憩を取り、ひと息ついて先に進みました。
※うとう峠手前の分岐(左方向)
026 うとう峠手前
さらに石畳坂道を上ると、左側に菩提碑が祀られており、この辺りがうとう峠のようで、菩提碑の先から石畳坂道は下りになりました。
08時38分、小田原宿喜右衛門菩提碑(左側)
027 菩提碑
菩提碑から約100m石畳道を下ると、日本橋から100番目の一里塚跡があり、右側の跡地に標柱が建っていました。
08時40分、100うとう峠一里塚跡(両塚)
※右塚                    ※左塚
028 100うとう峠一里塚跡  028-3 左塚
一里塚跡から約30m進んだ右側に、日本ラインうぬまの森碑が建っていました。
08時43分、日本ラインうぬまの森碑(右側)
029 うぬまの森碑
うぬまの森碑から約40m歩くと左側にもりの本やさんがありました。
08時43分、もりの本やさん(左側)
030 もりの本やさん  030-2 もりの本やさん
街道はもりの本やさんの前を通りうぬまの森を抜けて行くのですが、本日は休日ということで門扉が閉じられていてそのままでは外に出られません。
そのため、柵を乗り越えて出られる場所を探し、うぬまの森の外に出ました。
※閉じられた門扉             ※柵越えの場所
031 分岐(合流)  031-2 出口
外に出て約120m歩くと右側に江戸期は農業用水、現在は雨水調整池の合戸池があり、池沿いの左側に石仏石塔群が祀られていました。
08時49分、石仏石塔群(左側)    ※合戸池(右側)
033 石仏石像群  032 合戸池
街道は合戸池沿いに進み、①左側の鵜沼台北公園のところで右方向に曲がり、②約130m先の分岐を左方向に進み、③天王坂を下りました。
①分岐(右折)           ②分岐(左方向)         ③天王坂(下り)
034 分岐(右側)  035 分岐(左側)  036 天王坂
②の分岐から約600m歩くと、右側に往時は天王社と称し、寛永12(1635)年に遷座した赤坂神社が祀られていました。
08時59分、赤坂神社(右側)
037 赤坂神社
赤坂神社から約120m歩くと、Y字路分岐があり左方向に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
038 分岐(左側)
Y字路分岐から約20mで右折し、約10m歩くと右側に赤坂地蔵堂が祀られており、堂の前が鵜沼宿東見付跡でもあります。
09時03分、赤坂地蔵堂・鵜沼宿東見付跡(右側)
039 赤坂地蔵堂  039-2 解説
赤坂地蔵堂から約90m歩くと、右側の東鵜沼町ふれあいセンター前に宝暦6(1756)年に建立された常夜燈があり、高札場跡の解説パネルが建っていました。
09時05分、常夜燈・高札場跡(右側)
040 常夜燈・高札場跡  040-2 解説
常夜燈・高札場跡から約170m歩くと、左側の分岐点に自然石道標が建っていました。
09時08分、自然石道標(左側)
041 自然石道標
自然石道標から約20m進むと交差点があり、交差点を渡った右側に常夜燈が建っていました。
09時09分、常夜燈(右側)
042 常夜燈
常夜燈から約170m歩くと、坂祝バイパスの鵜沼中山道交差点があり、交差点を渡る手前の右側に復元された高札場があり、左側に移設された尾州領傍示石(東)が建っていました。
09時10分、復元高札場(右側)
043 復元高札場跡
09時10分、尾州領傍示石(東)=左側
044 尾州領傍示石(東)
鵜沼中山道交差点を渡ると左側に問屋場跡の解説パネルと移設された尾州領傍示石(西)が建っていました。
09時11分、問屋場跡・尾州領傍示石(西)=左側
045 問屋場跡・尾州領傍示石(西)
問屋場は野口家が勤め東町庄屋を兼ね、安政5(1858)年以降、脇本陣も勤めていたそうです。
問屋場跡から約50m歩くと大安寺川に架かる大安寺大橋があり、橋の手前左側に太田町道標が建っていました。
09時12分、太田町道標(左側)
046 大田町道標
※大安寺大橋
047 大安寺大橋
橋を渡ると右側に柳の木が生育されており、木の根元に岐阜市道標が建っていました。
09時14分、岐阜市道標(右側)
048 岐阜市道標
岐阜市道標の道路を隔てた斜め向かいの左側に、大垣城本丸表門、矢玉除けの鉄板で覆われていた旧大垣城鉄門が移築されて建っていました。
09時14分、旧大垣城鉄門(左側)
049 旧大垣城鉄門  049-2 解説
旧大垣城鉄門の真向かいに鵜沼宿絵図が建っていました。
※鵜沼宿絵図(右側)
051 宿場絵図
鵜沼宿絵図の先隣りに、旧旅籠絹屋跡の鵜沼宿町屋館(旧武藤家住宅)が建っていました。
09時15分、鵜沼宿町屋館(右側)
050 鵜沼宿町屋館  050-2 解説
鵜沼町屋館から約20m先の左側に、明治4(1871)年創業の銘酒「美濃地酒」の蔵元の菊川酒造がありました。
09時16分、菊川酒造(左側)
052 菊川酒蔵  052-2 解説
菊川酒造の真向かいに、問屋、庄屋を兼ねた桜井本陣跡があり、解説パネルが建っていました。
09時16分、桜井本陣跡(右側)
053 本陣跡
桜井本陣跡から約50m歩くと、右側に芭蕉句碑が建っていました。
09時17分、芭蕉句碑(右側)
054 芭蕉句碑
芭蕉句碑の先隣りに坂井脇本陣跡があり、復元された建物が建っていました。
09時18分、坂井脇本陣跡(右側)
055 脇本陣
坂井脇本陣の隣りに村社のニノ宮神社に通じる参道階段があり、見学に立ち寄りました。
ニノ宮神社は円墳の上に鎮座しており、石垣には横穴式石室が残されていました。
09時20分、ニノ宮神社
※本殿                ※横穴式石室          ※石室内
056-2 本殿  056-3 古墳  056-4 古墳
ニノ宮神社から街道に戻ると、左側に旧家が4棟連なっており、3軒目と4軒目の間に秋葉山常夜燈が建っていました。
09時22分、坂井家住宅(左側)
057 坂井家住宅  057-2 解説
09時23分、梅田吉道家住宅(左側)
058 梅田吉道家住宅  058-2 解説
09時23分、梅田昭二家住宅(左側)
059 梅田昭二家住宅  059-2 解説
09時24分、秋葉山常夜燈(左側)
060 常夜燈
09時25分、安田家住宅(左側)
061 安田家住宅  061-2 解説
安田家住宅から約20m進むと右側に、鵜沼西町交流館がありましたが、定休日で閉館していました。
09時26分、鵜沼西町交流館(右側)
062 鵜沼西町交流館
鵜沼西町交流館から約90m歩くと、右側に丹羽家住宅が建っていました。
09時28分、丹羽家住宅(右側)
063 丹羽家住宅  063-2 解説
丹羽家住宅の先の交差点を渡ると、渡った左側に鵜沼宿碑が建っていました。
09時29分、鵜沼宿碑(左側)
064 鵜沼宿碑
宿碑から約40m進むと段上に小社が祀られていました。
09時30分、小社(右側)
065 小社
小社から約90m歩くと、右側に石仏石塔群が祀られていました。
09時32分、石仏石塔群(右側)
066 石仏石塔群
石仏石塔群から約20m歩くと、右側のよし池(農業用ため池)に行く階段の上り口に鵜沼宿の西木戸であった西見付跡の標識パネルが建っていました。
09時32分、西見付跡(右側)
067 西見附跡
※よし池
068 よし池
よし池のところから池を背にして左前方を眺めると、お城らしき物が見え、デジカメの望遠で記録に残しました。
※犬山城
069 犬山城?
よし池の入口から約140m歩くと、右側の段上に八木山弘法堂が建っていました。
09時37分、八木山弘法堂(右側)
070 八木山弘法堂
弘法堂から約100m歩くと、右側に岐阜県指定史跡で円墳としては最大の古墳である衣裳塚古墳がありました。
09時38分、衣裳塚古墳(右側)
071 衣裳塚古墳  071-2 解説
古墳から約60m歩くと、空安寺があり、本堂を建て替えていたので、記念に工事現場を記録に残しました。
※空安寺本堂建替工事(右側)
072 空安寺本堂建築
空安寺から約230m歩くと、都クリニックと林家の間に路地があり、路地を約70m入ると坊の塚古墳があり、街道を外れて見学に行きました。
※分岐(坊の塚古墳)=左折(白矢印)
073 分岐
09時43分、坊の塚古墳(左側)
074 坊の塚古墳  074-2 解説
古墳は発掘調査中でブルーシートが敷設されており、記録だけ残して街道に戻り約450m歩くと、右側に津島神社があり立ち寄りました。
09時51分、津島神社(右側)
※津島神社・本殿              ※皆楽座
075 津島神社  075-2 皆楽座
神社の先隣りに羽場公園があり、ひと休みして水分補給しました。
09時52分~09時55分、休憩(羽場公園)
羽場公園から約170m歩くと、愛宕神社常夜燈が建っていました。
09時56分、愛宕神社常夜燈(右側)
076 常夜燈
愛宕神社常夜燈から約220m歩くと、R21号の坂祝バイパスが合流する鵜沼羽場町交差点があり、真っ直ぐに直進しながら道路を横切って進行右側から左側に変えて進みました。
※分岐(鵜沼羽場町交差点)=直進
077 分岐(鵜沼羽場町交差点)
鵜沼羽場町交差点から約290m歩くとおがせ町交差点があり、交差点の手前左側に明治39(1906)年に建立された馬頭観音が祀られていました。
10時02分、馬頭観音(左側)
078 馬頭観音
おがせ町交差点から約280m歩くと山の前町交差点があり、交差点から約80m進むとR21号から分岐する道があり、左方向に進みました。
※分岐(左方向)
079 分岐(左側)
分岐から少し歩いた処に一里塚跡が有るということですが、見付かりません。
「この辺りだと思うけど」と云いながら二人で探しましたが見付かりません。
そこで近くで働いている人に聞くと、「あそこの建物と建物の間にある石碑が一里塚だよ」と教えて下さいました。
通り過ぎた処を探していたので、いくら探しても見付からないはずです。
教えて頂いた場所(分岐から約80mの建物と建物の間)に行くと、播隆上人碑があり、ここが日本橋から102番目の一里塚跡のようですが、一里塚と記したものはありませんでした。
10時10分、102山の前一里塚跡(左側)
080 102山の前一里塚跡  080-2 播隆上人碑
一里塚跡から約60m進むとJR高山本線を越える跨線橋があり、階段を上り、下りして線路を越え、約200m進みR21号に合流しました。
※階段上り             ※階段下り            ※R21号に分岐(合流)
081 分岐(階段上る)  082 分岐(階段下る)  083 分岐(合流)
R21号を約290m歩くと、各務原町交差点があり、交差点を渡った直ぐ先にJR各務原駅がありました。
10時19分、JR各務原駅(右側)
084 JR各務原駅
各務原駅を右側に見て各務原町交差点を通り過ぎ約1㎞歩くと、三ツ池町3交差点があり、交差点の手前左側に当初昼食場所として考えていた「なつかし処・昭和食堂」がありました。
10時30分、なつかし処・昭和食堂(左側)
085 なしかし処・昭和食堂
到着すると、食事には時間が早すぎることもありますが、開店が17時の居酒屋ということが分かり、「ダメだったね」とMさんと話し先に進みました。
昼食は11時を過ぎてから考えることにし、到着地を目指して先に進みました。
三ツ池町3交差点を渡る時、何気なしに信号機を見ると、スマートなLEDランプの信号機が装着されていました。
※LED信号機
086 LED信号
三ツ池町3交差点から約110m歩くと左側に二十軒バス停があり、バス停付近に往時は二十軒立場跡があり、円蔵寺縄手と呼ばれていたそうです。
10時34分、二十軒立場跡(左側)
087 二十軒立場跡  087-2 バス停
二十軒立場跡から約300m歩くと三ツ池交差点があり、道路反対側(進行右側)に伊勢湾台風で拝殿が倒壊した神明神社がありましたが、道路を渡って見に行く気がなかったので、望遠で記録に残しました。
10時38分、神明神社(右側)
088 神明神社
三ツ池交差点は地下道で交差点を横断するのですが、路面からも横断できるようなので、地下道を使わずに路面で横断しました。
※地下道入口            ※地下道出口         ※三ツ池交差点左折
089 地下横断道入口  090 地下横断道出口  091 分岐(左折)
三ツ池交差点で進行左側から右側に移動し、左折して進むと直ぐの右側に馬頭観音が祀られていました。
10時41分、馬頭観音(右側)
092 馬頭観音
馬頭観音の直ぐ隣りは長楽寺で、入口で一礼して失礼しました。
※長楽寺(右側)
093 長楽寺
長楽寺から約230m歩くと、道路反対側(左側)に大東建託がある真向かいに地蔵祠があり二体祀られていました。
10時45分、地蔵祠(右側)
094 地蔵祠
地蔵祠から約550m歩くと三柿野駅前交差点があり、交差点から約60m先でR21号の側道を進みました。
※分岐(右側)
095 分岐(右側)
側道を約140m歩くと、自転車置場の先に三柿野駅がありました。
※三柿野駅(白丸)
096 名鉄三柿野駅前
三柿野駅を眺めながら進むと、JRと名鉄跨ぐ跨線橋への階段があり、階段の途中から右側の川崎重工業の敷地に展示されている戦闘機を眺めることができました。
10時55分、戦闘機(川崎重工敷地内)=右側
097 川崎重工内の戦闘機
跨線橋で線路を跨ぎ、階段を下り、約550m歩くと三柿野交差点があり、街道は交差点の先でY字路となり右方向に進みました。
※跨線橋下り階段             ※分岐(Y字路)=右方向
098 分岐(階段を下る)  099 分岐(右側)
分岐(Y字路)から約300m歩くと、右側のブロック塀の角に日本橋から103番目の六軒一里塚があり、跡地に標柱が建っていました。
11時08分、103六軒一里塚跡(右側)
100 103六軒一里塚跡
六軒一里塚跡付近は六軒茶屋の立場跡で、往時は「野をわけゆけば六軒茶屋の村はわびしき様也」と云われていたそうです。
私とMさんは六軒一里塚跡の後、真向かいにある竹林寺にトイレ休憩で立ち寄りました。
11時09分~11時12分、休憩(竹林寺境内)=左側
101 竹林寺
六軒一里塚跡から約110m歩くと、右側に六軒公民館があり、公民館の入口脇に秋葉神社が祀られていました。
11時13分、秋葉神社(右側)
102 秋葉神社
秋葉神社から約40m歩くと、右側に地蔵が祠に入って祀られていました。
11時14分、地蔵祠(右側)
103 地蔵祠
地蔵祠から約120m歩くと右側に神明神社が祀られており、神社の参道入口脇に祠があり、馬頭観音が祀られていました。
※馬頭観音
104 馬頭観音
11時16分、神明神社(右側)
       
105 神明神社   105-2 本殿
神明神社から約60m歩くと、右側にそば処更科があり暖簾が出ていなかったのですが、立ち寄りました。
店の入口に行くと、従業員不足により営業は土、日のみで、平日はお休みと記された看板が掲げられていました。
日本そばを食べたかったのですが、致し方ありません。
そば処更科から約750m歩くと、住吉交差点があり、真っ直ぐに渡って進みました。
この辺りになるとMさんに「食べられる処で立ち寄りましょう」と話すようになっていました。
11時28分、住吉交差点(直進)
106 住吉交差点
住吉交差点から約140m歩くと、進行左側にガスト各務原店が見えたので、Mさんに「ここで食べましょう」と声を掛け昼食に立ち寄りました。
11時30分~12時10分、昼食(ガスト各務原店)=左側
107 ガスト各務原店
店内に入ると空いていて、店員さんに案内された席に座ってひと息つくと、中山道の旅に出立してからファミレスに入ることがなかったので、とても新鮮に感じました。
店員さんに日替わりランチを注文すると直ぐに配膳され、お腹を膨らませるとともに、ゆっくりと体を休めることができました。
108 昼食ランチ
ガストを出て交差点を進行右側に渡り、約240m歩くと右側に各務原市役所の立派な庁舎が建っていました。
各務原市は航空自衛隊基地があるので、補助金で建てたのかもしれませんが、私が住んでいる処の役所の建物との違いを感じました。
12時12分、各務原市庁舎(右側)
109 各務原市役所
市役所から約400m歩くと門前町2交差点があり、街道を外れて交差点斜め右側の各務原市民公園(旧岐阜大学の敷地跡)に入り、公園を斜めに横切り、名鉄各務原線の市民公園駅裏にある「ねずみ小僧碑」を見学に行きました。
※門前町2交差点(斜め右に進む)  ※市民公園内
110 分岐(斜め右)  111 市民公園
市民公園駅前の踏切を渡った処を右折し、線路と幼稚園の間の細い道を進みます。
※踏切渡り右折          ※線路と幼稚園の間を進む  ※駅と幼稚園の間を進む
112-1 分岐(右折)  112-2 分岐(直進)    112-3 分岐(直進)
幼稚園の敷地が終わった先の左側に神明神社の鳥居があり、奥に本殿が祀られ、神社の右側に播隆上人名号碑がありました。  
※神明神社・鳥居         ※神明神社・本殿        ※播隆上人名号碑
113 神明神社  113-2 神明神社  114 播隆上人名号碑
神明神社と播隆上人名号碑の間に、ねずみ小僧碑がありました。
12時26分、ねずみ小僧碑(左側)
115 ねずみ小僧碑
ねずみ小僧碑から名鉄線の踏切に戻り、右側を流れる新境川を眺めながら歩くと、両岸に桜が生育されていました。
新境川は戦国時代まで美濃と尾張の国境だったそうですが、史跡は残っていません。
踏切から約260m新境川沿いを歩くと、那加橋のたもととなり、右折して橋を渡りました。
※分岐(右折)=那加橋          ※案内絵図(右側)
117 分岐  118 案内絵図
那加橋の右側は両岸が桜の樹が植生されている一方、左側はコンクリートの水路と両極端な風景になっていました。
※那加橋から右方向の眺め       ※那加橋から左方向の眺め
119 新境川(右側)  119-2 新境川(左側)
那加橋を渡り街道を約120m歩くと、右側に栄町秋葉神社が祀られていました。
12時36分、栄町秋葉神社(右側)
120 栄町秋葉神社
栄町秋葉神社から約500m歩くと、西那加公民館の先隣りに西那加稲荷神社が祀られていました。
12時42分、西那加稲荷神社(右側)
121 西那加稲荷神社
西那加稲荷神社から約280m歩くと、5差路の新加納町交差点があり、前方Y字路を右方向に進みました。
※分岐(五差路)=前方Y字路を右方向
122 分岐(右側)
Y字路の分岐点に新加納宿碑が建っていました。
12時47分、新加納宿碑(左側)
123 新加納宿碑
Y字路分岐を右方向に約230m歩くと、右側の石積みの上に新加納の火伏せの神である秋葉神社が祀られていました。
12時49分、秋葉神社(右側)
124 秋葉神社
秋葉神社から約20m(道路を挟んで)先の右側に、大正9(1920)年に創業で銘酒栄一の蔵元である林本店がありました。
12時50分、林本店(右側)
125 栄一蔵元・林本店
林本店から約30m歩くと左側の幸永不動産の隣りに中山道標石がありました。
12時51分、中山道標石(左側)
126 中山道標石
中山道道標から約70m歩くと、狛蛙がある日吉神社があり、鳥居と社標が建っていました。
12時52分、日吉神社・鳥居/社標(右側)
127 日吉神社・鳥居
日吉神社・参道入口の鳥居から約140m歩くと、右側疝気(せんき)の妙薬が評判で、皇女和宮が休息した梅村屋茶屋本陣跡がありましたが、標石が建っていないので推定です。
12時55分、梅村屋茶屋本陣跡(右側)
128 梅村屋茶屋本陣跡
茶屋本陣跡の先で分岐となり、街道は左側に進みました。
※分岐(左側)
129 分岐(左側)
分岐付近と新加納駅南バス停付近に日本橋から104番目の一里塚跡があり、跡地に標石が建っていました。
12時56分、104新加納一里塚跡(両側)
※左側                     ※右側 

130 104新加納一里塚跡(左塚)  130-2 104新加納一里塚跡(右塚)
一里塚跡の標石近くに新加納宿絵図が建てられていました。
12時56分、新加納宿絵図(右側)
131 新加納宿絵図
絵図の建っている左側に中山道道標が建っていました。
12時57分、中山道道標(左側)
132 中山道道標
中山道道標から約100m歩くと、T字路となり右折して街道は進みます。
※分岐(T字路)=黄矢印:街道・白矢印:今尾家
133 分岐(右折)
突き当りの左側に道標、正面に高札場跡がありました。
13時00分、道標・高札場跡
134 道標  135 高札場跡
T字路の突き当りは今尾医院で、この地を納めた旗本坪内氏の御典医で、旧家を残しています。
※今尾家主屋                ※今尾家の門
136-1 今尾家主屋  136-2 今尾家門
街道に戻り高札場跡の少し先の左側に、新加納立場跡があり、解説パネルが掲げられていました。
13時03分、新加納立場跡(左側)
137 新加納立場跡
新加納立場跡から約70m歩くと分岐があり、分岐手前の右側に中山道道標が建っているところを左折して進みました。
※分岐(左折)
138 分岐(左折)
分岐を左折して約50m歩くと、左折すると尾張徳川家の鷹狩の宿所で葵の紋の使用が許された善休寺があり、分岐を左折して立ち寄りました。
※分岐(左折)・・・黄矢印は街道
139 分岐(善休寺入口)左折
13時07分、善休寺            ※葵紋の瓦
140 善休寺  140-2 葵紋
善休寺から街道に戻り約300m歩くと、濃川に架かる濃川橋がありました。
※濃川橋
141 濃川橋
橋を渡ると、左側に間の宿碑が建っていました。
13時12分、間の宿碑(左側)
142 新加納宿碑
濃川橋を渡った先は松並でしたが、今は全て切り倒されて往時の面影はありませんでした。
※松並木跡
143 松並木跡
濃川橋を渡り、松並木跡を約260m歩くと、東海北陸自動車道の高架があり、潜って進みました。
※東海北陸自動車道の高架(潜る)
144 東海北陸道
高架を潜り、約450m歩くと境川に架かる高田橋があり、境川の両岸には桜が植生されていました。
13時21分、高田橋             ※境川の桜
145 高田橋  145-2 右側の川沿い
高田橋を渡り、天の岩戸を開いた手力雄を祀る手力雄神社に立ち寄ることになり、
〔順路〕
①約500m歩いた処で左折(白矢印)
146-1 分岐(手力雄神社)・左折
②約110m先の十字路を右折
146-2 右折
③約80m先を左に入り、神明神社の境内に入る
146-3 左方向
④神明神社を横切って手力雄神社の横(花火会場の広場)に出る
147 神明神社
⑤花火会場の広場を横切って本殿前に出る
13時34分、手力雄神社・本殿     ※さざれ石(境内)
148 手力雄神社  149 さざれ石
戻りは、
①手力雄神社横の花火会場の広場を横切る
②車道を真っ直ぐに進む(約100m)
150 分岐(右折)
③手力駅入口十字路(街道に合流)を左折
150-2 分岐(左折)
する。
手力雄神社から街道に戻り、約500m歩くとT字路に突き当たり、右折しました。
※分岐(T字路)=右折
151 分岐(右折)
T字路の左側には道路を跨いで手力雄神社の鳥居と左側に社標が立ち、左角には「左木曽路」と記された道標が建っていました。
13時46分、手力雄神社・鳥居と社標および道標
152 手力雄神社・鳥居  153 道標
右折して約160m歩くと右側に岐阜信金切通支店があり、敷地角に切通由来解説パネルが建っていました。
13時48分、切通由来解説パネル(右側)
154 切通由来解説  154-2 解説
切通由来解説パネルから約160m歩くと右側に長谷川鍼灸院があり、鍼灸院の横を約40m入った左側に切通陣屋跡があり、標石が建っていました。
※分岐(長谷川鍼灸院)=右折
155 分岐(陣屋跡・右折)
13時51分、切通陣屋跡(左側)
156 切通陣屋跡
陣屋跡の後ろに、切通観音が祀られていました。
※切通観音(左側)
157 切通観音(長森城址)
街道に戻り約250m歩くと、右側に馬頭観音の祠と道標が建っていました。
13時56分、馬頭観音・道標(右側)
158 馬頭観音・道標
馬頭観音の祠の隣りに伊豆神社が祀られていました。
13時56分、伊豆神社(右側)
159 伊豆神社
伊豆神社から約400m歩くと、右側にゑびす神社が祀られていました。
14時02分、ゑびす神社(右側)
160 ゑ比寿神社
ゑびす神社から約350m歩くと、左側の細畑バス停の手前に秋葉神社が祀られていました。
14時07分、秋葉神社(左側)
161 秋葉神社
秋葉神社から約90m先の岐阜東バイパス(R156号)の長森細畑交差点を渡って約130m歩くと、右側に「明治水」と記された庵看板が掲げられた家がありました。
14時12分、庵看板(右側)
162 庵看板  162-2 庵看板
庵看板が掲げられている家から約100m歩くと、日本橋から105番目の細畑一里塚があり、跡地に一里塚が復元されていました。
14時14分、105細畑一里塚跡=両側
※左塚                     ※右塚
163 105細畑一里塚跡(左塚)  163-2 右塚
細畑一里塚跡から約140m歩くとY字路分岐があり、右方向に進みました。
※分岐(Y字路)=右方向
164 Y字路分岐(右側)
Y字路分岐の分岐点の左側に明治9(1876)年に建立された伊勢道追分の道標、右側に延命地蔵堂が祀られていました。
14時17分、伊勢道追分道標・延命地蔵堂(分岐点)
165 道標と延命地蔵
Y字路分岐から約80m歩くと左側に八幡宮があり、境内に大正天皇が行幸の際、松の日陰で休息したという「御日陰の松」の標石が建っているというので、立ち寄りました。
14時19分、御日陰の松碑(左側)
166 八幡宮  167 御日陰の松碑  167-2 標石
八幡宮から約130m歩くと領下往還南交差点があり、交差点を過ぎた左側に長屋門が残されているました。
14時22分、長屋門(左側)
168 長屋門  168-2 長屋門
長屋門から約200m歩くと、左側に庇のところに装飾(?)された家があり、記録に残しました。
※装飾(?)している家(左側)
169 珍しい建物
装飾(?)された家から350m歩くと、右側に秋葉神社が祀られていました。
14時30分、秋葉神社(右側)
170 秋葉神社
秋葉神社から約100m歩くと、高架を走るJR東海道本線のガードがあり、潜って進みました。
※JR東海道本線ガード
171 JR東海道線ガード
ガードを潜り約140m歩くと、右側に岐阜市指定都市景観重要建築物の森邸があり、この辺りに高札場があったとのことです。
14時33分、森邸・高札場跡(右側)
172 森邸  172-2 母屋
森邸から約40m歩くと、名鉄名古屋本線茶処踏切があり、左側に名鉄茶所駅がありました。
14時34分、名鉄名古屋本線茶所踏切&茶所駅(左側)
173 名鉄・茶所駅踏切
茶所踏切に着くと遮断機が閉まっており、この待つ時間を利用して進行方向左側に移動しました。
電車が通り遮断機が開き踏切を渡ると、直ぐの左側に加納宿碑が建っていました。
14時35分、加納宿碑(左側)
174 加納宿碑
宿碑から約40m歩くと左側に茶所薬局があり、薬局前を左折し約20m先の右側に、鏡岩の碑と東海道いせ路道標が建っていました。
14時35分、鏡岩の碑と東海道いせ路道標(右側)
175 道標・鏡岩碑
鏡岩は力士で、素行の悪さを改心し、等身大の木像(ぶたれ坊)を造り旅人に叩いて貰い罪滅ぼしをしたそうです。
また、東海道いせ路は鮎鮨街道とも呼ばれ、長良川で獲れた「鮎のなれ鮨」を将軍家に献上する主要路でした。
街道に戻り約40m歩くと右前方角に「だんごや」がある十字路があり、右折しました。
※分岐(十字路)=右折
176 分岐(右折)
分岐の十字路を右折して約50m歩くと、加納大橋があり、橋のたもと右側に加納宿案内標識が建っていました。
14時38分、加納大橋           ※加納宿案内標識(右側)
177 加納大橋  178 加納宿案内
加納大橋を渡り約70m歩くと右側に立花屋薬局本店があり、店舗の前を左折しました。
※分岐(立花屋薬局本店前)=左折
179 分岐(左折)
左折する分岐の右角に、明治18(1885)年に建立された谷汲道標が建っていました。
14時40分、谷汲道標(右側)
180 谷汲道標
分岐から約70m歩くと右側に秋葉神社が祀られていました。
14時41分、秋葉神社(右側)
181 秋葉神社
秋葉神社から約110m歩くと、左側にタイ料理のピンタイがあり、店の手前を左折します。
※分岐(左折)
182 分岐(合流手前を左折)
分岐の手前右側に加納宿東番所跡があり、標石が建っていました。
14時42分、加納宿東番所跡(右側)
183 東番所跡
分岐を右側にタイ料理のピンタイを見ながら左折し、約40m歩くと突き当りに善徳寺があるT字路となり、右折して進みます。
※分岐(T字路)=右折
184 分岐(右折)
分岐を右折して約50m歩くと幅広い道路があり、斜め左に横断します。
※分岐(斜め左に横断)
185 分岐(斜め横断)
横断すると右側に柳町秋葉三尺坊が祀られていました。
14時45分、柳町秋葉三尺坊(右側)
187 柳町秋葉三尺坊
柳町秋葉三尺坊を出ると直ぐにY字路となり、左方向に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
186 分岐(Y字路左)
Y字路分岐から約70m歩くと、左側に織田信長や豊臣秀吉の朱印状が残されているという専福寺がありましたが、山門だけ記録に残し先に進みました。
14時47分、専福寺・山門(左側)
188 専福寺・山門
専福寺から約100m歩くと、右側に秋葉神社が祀られていました。
14時48分、秋葉神社(右側)
189 秋葉神社
秋葉神社から約70m歩くと、右側に献上鮎鮨の継立てを行っていた岐阜問屋跡がありました。
14時49分、岐阜問屋跡(右側)
190 岐阜問屋跡  190-2 解説
岐阜問屋跡から約20m歩くと、左側に太田薬局がある十字路があり左折しました。
また、太田薬局の左側に岐阜道道標が建っていました。
14時50分、分岐(十字路)=左折  ※岐阜道道標(右側)
191 分岐(左折)  192 岐阜道道標
分岐を左折して約50m歩くと清水川に架かる広井橋があり、橋の手前を右折して約50m先右側の水薬師寺に立ち寄りました。
14時52分、水薬師寺(右側)
193 分岐  194 水薬師寺
水薬師寺から広井橋に戻り、橋を渡ると左側に高札場跡があり、解説パネルが建っていました。
14時53分、高札場跡(左側)
195 高札場跡  195-2 解説
高札場跡から約100m歩くと、加納大手町交差点の手前に歩道橋があり、歩道橋の処に加納城大手門跡があり、標石が建っていました。
14時54分、加納城大手門跡(左側)
196 加納城大手門跡
街道は加納城大手門跡の標石が建っている手前の十字路を右折します。
※分岐(右折)
197 分岐(右側)
右折して約40m歩くと旧加納町役場跡があり、跡地は更地になっており、解説パネルが掲げられていました。
14時57分、旧加納町役場跡(左側)
198 旧加納町役場跡  198-2 解説
旧加納町役場跡から約130m歩くと、左側に元和6(1620)年に創業した旧旅籠の二文字屋跡(現在は「うなぎ屋」)がありました。
14時59分、旧旅籠・二文字屋跡(左側)
199 旧旅籠・二文字屋跡  199-2 解説
二文字屋には左甚五郎作「月夜に河原で餅をつくウサギ」の欄間があるそうですが、見ることはできませんでした。
二文字屋から約80m歩くと、右側に宮田家が本陣を勤めた当分本陣跡がありましたが、標石などは建っていませんでした。
15時00分、当分本陣跡(宮田家)=右側
200 当分本陣跡(宮田家)
当分本陣は、幕末、参勤交代が緩和され通行増大に伴い当分の間、本陣を勤めたことから当分本陣と呼ばれたようです。
宮田家から加納中通りを横断するなど約60m進むと、右側に皇女和宮が宿泊した松波藤右衛門が勤めた本陣跡があり、標石が建っていました。
15時02分、加納宿本陣跡(松波家)=右側
201 加納宿本陣跡
本陣跡には皇女和宮が詠んだ歌碑があるそうですが、確認できませんでした。
本陣跡から約40m歩くと、右側に万治元年(1658)から松波清左衛門が勤めていた西問屋場跡があり、跡地に標柱が建っていました。
15時03分、西問屋場跡(右側)
202 西問屋跡
西問屋場跡から約30m歩くと、右側に延享2(1745)年から森孫作が勤めていた脇本陣跡があり、標石が建っていました。
15時04分、脇本陣跡(右側)
203 脇本陣跡(小林家)
脇本陣跡から約15m進んだ十字路を右折すると加納天満宮があるというので、街道を外れ天満宮に向かい、境内でトイレ、おやつ(スポーツ羊羹)、水分補給を行い、今日の旅の終わる前の休憩を取りました。
15時05分~15時12分、休憩(加納天満宮)=右側
204 加納天満宮
休憩を終えて街道に戻り約60m歩くと、右側に小林家が勤めた脇本陣跡があり、標石が建っていました。
15時13分、脇本陣跡(右側)
205 脇本陣跡(小原家)
脇本陣跡から約170m歩くと、今日の到着地である「岐阜駅入口交差点」に着き、相方のMさんと交替しながら到着式を行い、今日の旅を終えました。
15時17分、岐阜・駅入口交差点=到着地
207 到着地
《付録》
到着地で恒例の到着式を終え、岐阜駅に向けて歩いていると、右側に年代を感じさせる建物のパン店(さかいや)があり、記録に残しました。
写真を撮っていると買い物を終えた女性が出て来て「美味しいですよ」と教えて下さいましたが、この後の生ビールのことを考えてご遠慮させて頂きました。
※パン店(さかいや)
208 サカエパン店
【宿泊】
宿泊するコンフォートホテル岐阜は、岐阜駅北口にあります。
※岐阜駅南口           ※岐阜駅コンコース       ※岐阜駅北口

209 岐阜駅南口  210 岐阜駅コンコース  211 岐阜駅北口
岐阜駅は新幹線が通っていませんが、新幹線駅を連想させる大きな駅で、1階の通路を抜けて北口に行き、階段を登ってデッキに上がりホテルに移動しました。
212 岐阜駅北口デッキ
15時31分、ホテル着
213 コンフォートホテル岐阜  213-2 フロント・食堂
ホテルでチェックインを行い、朝の朝食会場になる場所で「ウェルカムコーヒーをどうぞ」と云われ、コーヒーを飲んでひと息着いて部屋に移動しました。
部屋でザックを下ろし、休憩することなく、Mさんと翌日の旅の行程確認を行い、
①朝食が6時30分からなので、6時25分に朝食会場で合流する
②出発地を7時30分に出立する
③美江寺駅手前の踏切に10時までに到着した時は、次駅の十九条駅まで歩く
※美江寺踏切から約3㎞先の鷺田橋東詰(到着地)まで歩き、到着地から1.5㎞離れた十九条駅に
 移動し、11時27分発の電車に乗る
④名古屋駅で新幹線の指定席を変更し、帰る途中で次回旅のジバング切符を買う
ことを決めました。

【次回の予告】
次回の第29回「旧中山道二人旅」は、
旅 日=5月15日(火)
行 程=岐阜・駅入口交差点 ~ 十九条・鷺田橋東詰(または美江寺踏切)
歩程距離=約13.0㎞
で、到着地から約1,400m離れた樽見鉄道十九条駅に移動し、大垣、名古屋経由で、新幹線を利用して自宅に帰ります。

【街道旅のご案内】

※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/