【天候】 曇り
宿場】 (04)大宮宿⇒ (05)上尾宿⇒ (06)桶川宿 ⇒(07)鴻巣宿
【行程】 歩行距離=16.4㎞ 総距離=50.1㎞
宮原駅入口交差点⇒(3.4㎞)⇒上尾陸橋交差点⇒(2.6㎞)⇒北上尾駅前郵便局角⇒(3.3㎞)⇒ネッツトヨタ埼玉前三差路⇒(3.0㎞)⇒メガネの水島手前左折分岐⇒(2.1㎞)⇒県道交差点⇒(2.0㎞)⇒鴻巣駅入口交差点
【ルート図】

 宿場(黒線囲みが第3回旅の宿場)
000 第3回宿場
 第3回旅のルート
000-1第3回ルート
【旧中山道二人旅】
《序章》
今日は第2回の旅(H28.10.16)の到着地である「大宮宿・宮原駅入口交差点」から「鴻巣宿・鴻巣駅入口交差点」までの約16.4㎞を歩きます。
ルートは出発地から北本駅の手前までは直線に歩き、北本駅手前の多聞寺交差点の先で左折して古中山道を歩くので、楽しみです。
《移動》
今回は旅の準備をする時間がなく、直前の12日に史蹟の場所、ザック、衣服などを準備し、当日の朝を迎えました。
旅の支度を整え、定番の磯部餅で朝食を摂り、冬の訪れを感じる冷たい風を受けながら最寄り駅に行くと、丁度Mさんが来るところで一緒に改札を通ってホームに行きました。
最寄り駅から出発地の宮原駅に向かうと、平日のため途中から通勤時間帯となり、とても座れる状態ではなくなり、逆に身動きもできないくらいとなり、この先、平日の旅は早朝に移動する時だけにしたいと思いながら到着しました。
07時43分、宮原駅着

001 宮原駅東口
宮原駅の東口から出て、約170m歩き出発地の宮原駅入口交差点に立ち出発式を行い、旅に出発しました。
【=旅=】
07時53分、宮原駅入口交差点(出発地)

002 宮原駅入口交差点(出発地)
※ポカ
出発する前に行う儀式の「出発式」で、ポカをするところでした。
それは、出発地を記した側の看板を掲げて写真に撮ったのですが、Mさんの分の写真を撮った時、「ひょっとすると到着地を記した側の看板を掲げていたかも知れない」と思い、再度出発地を記した看板を掲げて写真を撮ってもらいました。
これが大正解で、家に帰ってきて確認したら、思ったとおり到着地を記した側にしていました。
出発式を行い「さあ、行きましょう」と声を掛け、旅に出発しました。
出発して約280m歩くと右側の天神橋バス停の脇に、天神橋と刻まれた欄干が道路の両側に残されていました。
07時57分、天神橋跡(両側)

003-1 天神橋跡
左側の天神橋跡から道路を越えた左側に、学問の神菅原道真を祀っている天満宮がありました。
07時58分、天満宮(左側)

004 天満宮
天満宮の辺りには島屋と福島屋の2軒のお茶屋があり、島屋は加賀藩前田家の休憩所だったそうです。
天満宮から約30m歩くと左側の天神橋バス停先の民家の間に、元禄3(1690)年に建立された庚申塔が建っていました。
08時00分、庚申塔(左側)

005 庚申塔
塔には青画金剛像、二鶏、三猿が陽刻されていました。
そして、庚申塔から約240m歩くと、右側に加茂神社が建っていました。

08時03分、加茂神社(右側)
006 加茂神社
加茂神社は京都の上賀茂神社を勧請したもので、加賀堀丹波守の妻女が産気づき、当社に祈願すると陣痛が治まり、国許で男子を出生したところから安産にご利益があると云われているそうです。
神社に立ち寄り鳥居を潜り真っ直ぐの参道を歩き本殿でお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒をご祈願しました。
神社での参拝を終え、新大宮バイパスの高架橋を潜り約300m歩くと、左側の道路脇に馬頭観音が建っていました。
08時10分、馬頭観音(左側)

007 馬頭観音
馬頭観音は、明治19(1886)年と昭和3(1928)年に建立されたものだそうです。
馬頭観音の道路反対側(右側)にJAさいたま宮原支店があり、敷地内の記念樹石碑の左側に宮原村道路元標が建っていました。
08時12分、宮原村道路元標(右側)

008 宮原村道路元標
道路元標から約130m歩くと右側にさいたま市立宮原小学校があり、校門から約20m先にさいたま市指定天然記念物のセンダンが植生されていました。
08時14分、センダンの樹(右側)

009 センダン
009-2 センダン・解説
センダンの樹は樹齢120年、5月~6月にかけて淡紫色の五花弁をつけ、10月には果実が成熟します。
センダンの樹から約90m歩くと、左に分岐する道があり、川越に通じる旧川越道が残っていました。
08時16分、旧川越道分岐(左折)=白矢印、街道=黄矢印

010 古道・川越道分岐
旧川越道分岐から約120m歩くと、左側に大宮うなぎ・清水屋があり、駐車場左側につるべ井戸が残っていました。
08時19分、大宮うなぎ・清水屋(左側)

011 釣べ井戸
つるべ井戸から約550m歩くと、右側に南方神社があり、境内の文政13(1830)年に設置された手水鉢を見に立ち寄りました。
08時27分、南方神社(右側)
012 南方神社
南方神社は吉野村の鎮守で、諏訪社として地元では「お諏訪さま」と呼ばれて親しまれているそうです。
 ※手水鉢(境内右側)
012-1 南方神社・手水鉢
南方神社は本殿前で一礼し、礼拝だけで失礼しました。
神社を出て約350m歩くとつつじが丘公園(西)交差点があり、真っ直ぐ渡って約170m歩くと左側に文化文政年間(1804~1820)に創業した吟醸粕漬けの老舗である河村屋がありました。
08時35分、河村屋(左側)

013 河村屋・本店
河村屋の斜め前右側の道路脇に、道路補修を担当する境界杭が建っていました。
杭の右側までを「さいたま市北部建設事務所」、左側から「埼玉県北本県土整備事務所」が道路補修を担っているようです。

08時36分、道路補修境界杭(右側)
014 道路補修境界標
このように管理区域を明示したものは、第1回旧東海道夫婦二人旅の時にも見ており、今回で2回目です。
※第1回旧東海道夫婦二人旅より抜粋
京急蒲田駅を過ぎた辺りが日本橋から16㎞地点で、道路脇に国道の管理区域仕切りの看板が掲げられていました。
  ↓国道管理区域標識(左側)
53 道路管理区域区切り標
道路補修管理境界杭の斜め左側に、さいたま市から上尾市に入る市境標識が建っていました。
08時36分、市境標識(さいたま市から上尾市)=左側

015 上尾市市境標識
市境標識柱の数m先の左側に、不動堂が建っていました。
08時36分、不動堂(左側)

016 不動堂
不動堂のお堂の前左側に、魂霊神碑が建っていました。
不動堂から約50m歩くと左側に宮原精米店があり、先の路地を左に入ったところに不動尊道標が建っていました。
08時38分、不動尊道標(左側)

017 不動尊道標
道標は寛政12(1800)年の建立で、「是より秋葉へ壱里十二丁ひご方へ壱里八丁川越へ三里」と刻まれているそうです。
道標から約70m歩くと、右側に焼肉味里苑があり、道路反対側に左に分岐する道があり、川越に通じる旧川越道が残っていました。
08時39分、旧川越道分岐(左折)=白色矢印
018 古道・川越道分岐
分岐から約300m歩くと、右側に下上尾バス停があり、バス停の手前に中山道の道標が建っていました。
08時43分、中山道道標(右側)
019 中山道道標
道標から約550m歩くと左側に山田電機テックランド上尾店があり、店の前に道標が建っていました。
08時51分、中山道道標(左側)

020 中山道道標
道標から約50m先に上尾陸橋交差点があり、真っ直ぐに渡って進みました。
 ※上尾陸橋交差点

021 上尾陸橋交差点
尾陸橋は、歩く前は地名から高架橋の下を潜るのかと思っていましたが、高架橋ではなく交差点の地下が道路になっていました。
交差点から約100m歩くと、左側に愛宕神社が建っていました。
08時52分、愛宕神社(左側)
022 愛宕神社
愛宕神社は火伏はもとより疱瘡厄除けの神として信仰が篤かったようです。
そして、鳥居の左側に小さい鳥居が建っている庚申塔が祀ってありました。
 ※庚申塔(左側)

023-1 庚申塔
庚申塔は享保7(1722)年に建立されたもので、青画金剛像と三猿が陽刻されていました。
愛宕神社から約220m歩くと、右側の三差路の角に原内科クリニックがあり、日本橋から9番目の一里塚があった処ということで、記録(黄色丸印付近)に残しました。
08時57分、009上尾一里塚跡

024 009上尾一里塚跡付近・古道岩槻道分岐
資料によると、宝暦6(1756)年に刊行された岐蘇路安見絵図に、両塚が記されているそうです。
また、この三差路は岩槻に通じる旧岩槻道の分岐になっていました。
そして三差路から約30m先に川越に通じる川越道の分岐にもなっていました。
08時58分、旧川越道分岐(左折)=白色矢印

025 古道・川越道分岐
旧川越道分岐から約190m歩くと上尾小入口交差点があり、さらに約80m歩くと河合歯科医院の手前に駐車場があり、駐車場の奥の井上家のブロック塀に鬼瓦が備え付けられていました。
09時03分、井上脇本陣跡(右側)

026 井上本陣跡・鬼瓦
鬼瓦は井上五郎右衛門が代々勤めておいた脇本陣の建物に飾ってあったもので、現在もその子孫が住んでいます。
井上脇本陣から約30m先の左側に埼玉りそな銀行があり、この付近が細井脇本陣跡だったようです。
09時05分、細井脇本陣跡付近(左側)

027 細井家脇本陣跡
細井脇本陣は、細井弥一郎が代々勤めていたそうです。
細井脇本陣から約30m歩くと右側に藤村病院があり、その付近が白石脇本陣があった処だそうです。
09時05分、白石脇本陣跡付近(右側)

028 白石脇本陣跡
白石脇本陣跡(藤村病院前)から約40m歩くとT字路交差点で、交差点を越えた右側にコンビニ・サンクスがあり、この辺りが林八郎右衛門が代々勤めた林本陣跡だったようです。
09時06分、林本陣跡付近(右側)

029 林本陣跡(氷川鍬神社の向かい側)
また、林家は紀州徳川家の鷹場鳥見役を兼ねていたそうです。
鳥見役とは、江戸幕府の職名の1つで、鷹狩場の管理と将軍などが鷹狩をする際の準備を行う責任者のようです。
林本陣跡と云われるコンビニの前の交差点を左に渡ると、氷川鍬神社があり立ち寄りました。
09時07分、氷川鍬神社(左側)
030 氷川鍬神社
氷川鍬神社は寛永9(1632)年創建で、上尾宿の総鎮守となっており、五穀を司る農耕神として小さな鍬二丁を祀っているそうです。
境内には上尾郷二賢堂跡碑と解説板が建てられていました。
 ※二賢堂跡碑と解説(神社境内)

031 上尾郷二賢堂跡
031-1 解説
神社を出て街道に戻ると約10m先に上尾宿と本陣のことを記したパネルが設置されていました。
09時11分、上尾宿と本陣の解説碑

029-1 解説
パネル碑の直ぐ先の左側に丸広百貨店があり、建物に沿って左折して進むと左側にヤクザの親分赤尾の林蔵が馴染みの女に裏切られ、敵対する源太郎一家に殺された武蔵足立屋敷跡があるというのですが、遺構もなく、元の郵便局裏辺りとしか分からないため、Mさんに「立ち寄りますか」と聞くと「寄らなくてもいい」と返事があり、通り過ぎました。
丸広百貨店を過ぎると上尾駅東口交差点があり、左側を見るとJR上尾駅が建っていました。
 ※JR上尾駅東口(左側)

032 上尾駅
 ※上尾駅東口交差点
033 上尾駅東口交差点
上尾駅東口交差点を真っ直ぐに渡り、途中で道路反対側(進行右側)に移動しながら約400m歩くと、右側に庚申塔が建っていました。
09時18分、庚申塔(右側)

034 庚申塔
この庚申塔は延亨2(1745)年の建立で、青画金剛像、二鶏、三猿が陽刻され、上尾上町講中と刻まれているそうです。
庚申塔が建っている図書館西交差点を渡るとコンビニ・ファミリーマートがあり、トイレ休憩に立ち寄りました。
09時19分~09時23分、休憩

035 ファミリーマート(トイレ休憩)
トイレと水分補給でひと息ついた後、コンビニを出発すると直ぐ隣りに、明治27(1894)年に創業された銘酒「文楽」の蔵元がありました。
09時24分、酒蔵・文楽(右側)

036 酒蔵・文楽
 ※仕込水(硬度10度の硬水で、昭和37年から使用)
036-1 仕込水
 ※銘酒「文楽」の酒樽
036-2 酒樽
蔵元「文楽」を出て約240m進むと緑丘地下横断道交差点があり、交差点角に中山道上尾宿碑が建っていました。
09時30分、上尾宿碑(右側)

037 平成の道標
宿碑の辺りが上尾宿の京(西)口で、解説板の屋根には火除けを願って鐘馗が祀られています。
鍾馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされている。また、魔よけの効験があるとされ、屋根の上に鍾馗の像を載せたりします。
交差点名が地下横断道となっていますが、南北に走る道路が地下道になっています。
 ※緑丘地下横断道交差点

038 緑丘地下横断道交差点
緑丘地下横断道交差点を真っ直ぐに渡り、約250m歩くとボーリングとパチンコの店(上尾ミナミボール)があり、「TAMASABURO(玉三郎)」のネオン燈があり、ボーリングの玉(ボール)とパチンコの玉をもじって付けたのかなと思いながら記録に残しました。
09時34分、上尾ミナミボール(右側)

039 上尾ミナミボウル&パチンコ
ミナミボールから約50m歩くと信号の手前、道路脇に中山道道標が建っていました。
09時35分、中山道道標(右側)

040 中山道道標
道標の先で道路を反対側(進行左側)に渡りながら約530m歩く(北上尾駅入口バス停の約20m手前)と同じ中山道道標が建っていました。
09時41分、中山道道標(左側)

041 中山道道標
道標から約60m歩くと北上尾駅入口交差点があり、左折して約170m歩くと北上尾駅です。
 ※北上尾駅東口(左側)

044 北上尾駅
交差点を渡り約110m歩くと、武州紅花の仲買で財を成した須田家(現在は倉庫業)があり、広大な敷地にビックリしました。
※武州紅花は、桶川えんじと呼ばれ、山形最上の紅花に次ぐ生産地でした。桶川の農家七五郎なる者が江戸小間物問屋「柳屋」から種を仕入れ栽培したのが始まりと云われています。
09時44分、須田家(右側)
045 須田家
最初は樹木の塀で、続いて黒板塀となり、次の久保西交差点まで約100mありました。
 ※須田家の黒板塀(右側)
045-1 須田家の黒塀
須田家の敷地の終わりが久保西交差点で、交差点を渡った角に中山道道標が建っていました。
09時46分、中山道道標(右側)

046 中山道道標
久保西交差点から約600m歩くと左側にあげお在宅医療クリニックがあり、その付近に同じ道標が建っていました(記録に残さず)。
また、久保西交差点から約500mの松美屋の先を左折すると、元禄15(1702)年に建立された村の鎮守の諏訪雷電神社がありますが、大きく街道を迂回するため、Mさんと相談して割愛しました。
久保西交差点から約600mのあげお在宅医療クリニックを過ぎ、さらに約300m歩くとドラッグストアウエルシアがあり、店舗を過ぎた右側に明和6(1769)年に建立された屋根付きの庚申供養塔が建っていました。
09時57分、庚申供養塔(右側)

047 庚申供養塔
庚申供養塔から約30m歩くと、前島寝具店があり、店舗の前に上尾市から桶川市に入る市境標識が建っていました。
09時58分、市境標識(上尾市から桶川市)=右側

048 桶川市市境標識
市境標識から約50m歩くと富士見通り交差点となり、交差点の手前に中山道道標が建っていました(記録残さず)。
交差点を渡り約160m進むと右側に柿の木屋クリーニング店があり、店舗の角に社に覆われた地蔵が祀られていました。
10時02分、地蔵(右側

049 地蔵
地蔵から約180m歩くと左側に大塚屋洋品店があり、その真向い(進行右側)に東木戸跡(江戸口)があり、跡碑が建っていました。
10時04分、東木戸跡(右側)

050 江戸口木戸跡
木戸は皇女和宮が降嫁通行の際に設置され、自身番が詰め半鐘があったそうです。
木戸跡碑の先の信号を通り過ぎた先(木戸碑から約20m)の右側に藤倉宅があり、屋根に鐘馗が取り付けられていました。
10時05分、鐘馗の家(藤倉宅)=右側

051 鐘軌様
鐘馗の家(藤倉宅)から約130m歩くと、左側に嘉永5(1852)年に建築された旧旅籠紙屋半次郎跡の武村旅館がありました。
10時07分、武村旅館(左側)

052 武村旅館
武村旅館は明治天皇が行幸した時、供をした山岡鉄舟が宿泊し、現在は国の有形文化財に指定されている。
武村旅館から約60m歩くと、中山道ふれあい館が左側にありましたが、定休日で立ち寄ることが出来ませんでした。
 ※中山道ふれあい館(左側)
053 中山道ふれあい館
ふれあい館に沿って左折すると、浄念寺があり立ち寄りました。
10時10分、浄念寺(左側)
054 浄念寺・山門
浄念寺は天文15(1546)年に創建され、仁王鐘楼門は元禄14(1701)年に再建されました。
また、元禄元(1688)年に鋳造された鐘は「時の鐘」でしたが、戦時中に供出されてしまったそうです。
そして境内に板石塔婆が祀られていました。
 ※板石塔婆(境内左側)
054-1 板石塔婆
浄念寺から街道に戻ると、道路斜め前方に桶川名物「べに花まんじゅう」の店であるべにっこがあり、道路を横切り立ち寄りました。
10時14分、べにっこ(右側)
055 べにっこ
店舗の中に入ると販売する店ではなくまんじゅうを作っており、買いたいことを伝えると、「販売してもらう店に持っていったところから直ぐに戻るから少し待ってて」と云われ雑談して待っていると、店に戻ってきた人が対応してくれました。
店=「こしあん」と「つぶあん」があります
E=こしあん2個、つぶあん2個でお願いします
と、4個買いました。
 ※べに花まんじゅう
055-1 紅花まんじゅう
べに花まんじゅうをザックに入れ、店に人にお礼を云って店舗を出ると、約50m歩くと桶川駅前交差点があり真っ直ぐ渡りました。
10時22分、桶川駅前交差点
056 桶川駅前通り
桶川駅は白矢印方向に約240m歩いた処で、交差点からは見れません。
そして交差点を渡るとMさんが、「ここに道路元標がありますよ」と云われるので、確認すると鋼柱の脇に資料に掲載されていない道路元碑が建っていました。
10時23分、道路元標(右側)

057 桶川村道路元標
道路元標から約50m歩くと島村ビルがあり、ビルの手前を右折して島村ビルに沿って進むと、ビルの裏手に三階建て土蔵のお助け蔵がありました。
 ※分岐(右折)

058 分岐(右折)
10時25分、お助け蔵(右側)
059 お助け蔵
お助け蔵は、穀物問屋の木嶋屋総本家島村家が天保7(1836)年に建築された木造三階建ての土蔵で、天保大飢饉の救済のために建てられました。
現在は国の有形文化財に指定されています。
そしてお助け蔵から街道に戻り改築中の島村ビルの先隣りに、嘉永7(1854)年に創業された老舗の茶店がありました。
10時26分、島村老沙茶舗(右側)

060 島村老沙茶舗
茶舗から約80m歩くと、左側に材木商と喫茶が一緒の家があり、元旅籠だった小林家住宅主屋がありました。
10時28分、旧旅籠・小林家住宅主屋(左側)
061 旧旅籠・小林家
建物は江戸期末期の建築で、皇女和宮のお供の人達が宿泊し、国の有形文化財に登録されています。
061-1 解説
小林家住宅主屋の真向い(道路反対側)に明治期に建築された矢部住宅がありました。
10時29分、矢部家住宅(右側)

062 矢部家住宅
矢部家住宅は、屋号「木号」の紅花の穀物問屋で、蔵造り風に出来ています。
062-1 解説
矢部家住宅の斜め前、小林家住宅主屋の隣りにシマヤがあり、問屋場があった処だったようです。
10時30分、問屋場跡(左側)
063 旧問屋場跡
シマヤから約20m歩くとレオパレスMという商・住一体のビルがあり、この付近が内田脇本陣があった処のようです。
10時32分、内田脇本陣跡(右側)

065 内田脇本陣跡
レオパレスMの真向いに桶川宿府川本陣跡がありました。
10時33分、府川本陣跡(右側)

064 府川本陣跡
本陣跡の遺構には上段の間、次の間、湯殿等を残しているようですが、子孫の方が住まわれているようで、遺構の門柱に開放日以外の進入禁止の張り紙が貼り出されていたため、中を見学することができませんでした。
そして、遺構門の脇に明治天皇の桶川行在所跡碑が建っていました。
10時34分、明治天皇行在所跡(右側)

064-1 本陣遺構・明治天皇行在所跡碑
 ※本陣・解説
064-2 府川本陣・解説
府川本陣を出て約40m先の左側に、桶川宿の中山道宿場館があり立ち寄りました。
10時36分、中山道宿場館(左側

066 中山道宿場館
館内には桶川宿に関わるものが展示されていました。
066-1 館内
 ※来場記念として頂いた
  ・往来手形
  ・紅花の種
  ・おけがわ散策マップ

066-2 来館記念
 ※江戸期の宿場絵図
067 桶川宿図
 ※手製の宿場史跡案内図
067-1 桶川宿案内図
館内の絵図に笠武脇本陣跡が記されていたので、館外に出た時に記録に残しました。
脇本陣は、宿場館の脇の道の真向いで、駐車場と廃屋の辺りだったようです。
10時45分、笠武脇本陣跡(右側)

068 笠武脇本陣跡
宿場館から約60m歩くと、左側に桶川宿碑が建っていました。
(道路反対側(右側)は下村ビル)
10時47分、桶川宿碑(左側)

069 桶川宿絵図
宿場碑から約70m歩くと左側に東和銀行があり、手前の信号を右折して稲荷神社に立ち寄ることにしました。
10時52分、分岐・右折

070 分岐(右折)
稲荷神社には右折して約200m歩き、き代寿司の手前の十字路を右折して約80m進むと、左側に鳥居があり境内に入りました。
10時53分、稲荷神社(左側)

071 稲荷神社
 ※大盤石
071-1 大盤石
 ※大ケヤキの幹に祀られたお稲荷さま
071-2 大ケヤキの稲荷
 ※安政4(1857)年に紅花商人24名が寄進した石灯篭
071-3 紅花商人寄進の石燈籠
稲荷神社から街道に戻ると左側に東和銀行があり、銀行の前に市神社跡碑が建っていました。
11時01分、市神社跡碑(左側)
072 市神社跡碑
市神社は市の守護神で、毎月五と十の付く日に五十(ゴトウ)の市が立ち賑わったそうです。
市神社跡碑から約30m歩くと、左側に大雲寺があり立ち寄りました。
11時02分、大雲寺(左側)
073 大雲寺
この寺院は本陣府川家の菩提寺で、歴代の墓があるそうです。
境内に正徳3(1713)年に造立された女郎買い地蔵があります。
お地蔵は夜な夜な女郎買いに出るため、背中に鎹(かすがい)が打ち込まれ鎖で繋がれていたそうで、これは若い僧への戒めだったそうです。
そのような言い伝えのあるお地蔵ですが、どれなのか分からず、諦めて帰ろうとした時、寺院脇の民家の方に聞くと出掛ける間際なのにわざわざ来てお地蔵を教えて下さいました。
 ※女郎買い地蔵(白丸印)

073-3 女郎買い地蔵
 ※お地蔵の背中に鎹が打ち込まれています
073-1 女郎買い地蔵
大雲寺を出て約130m歩くと、桶川市北1丁目歩道橋があり、歩道橋の橋脚に日本橋から10番目の1里塚跡があり、バネルが貼り付けられていました。
11時08分、010桶川一里塚跡(左側)

074 桶川一里塚跡
桶川一里塚跡の道路反対側に細い路地があり、歩道橋の橋脚に沿って右折して約40m歩くと赤レンガ倉庫がありました。
11時10分、分岐・右折

075 分岐(右折)
11時11分、赤レンガ倉庫(右側)
076-1 赤レンガ倉庫
倉庫は細田家具店の裏で、細田農機が使用しているのかな?
表から見たかったので、見に行きましたが、会社の敷地内に入れませんでした。
赤レンガ倉庫から歩道橋のある街道に戻り、約70m歩くと左側に今福屋があり、店舗の手前を左折して桶川小学校に向かいました。
 ※桶川小学校

077 桶川小学校
小学校に行ったのは、敷地内に松山いなり道道標があるということでしたが、校庭内をフラフラと探し歩くことが出来ないため、校門を少し入ったところで戻りました。
再び街道に戻ると、桶川宿の京口だった上木戸跡に碑が建っていました。
11時16分、上木戸跡碑(右側)

078 京口木戸跡
 ※木戸跡・解説
078-1 解説
桶川小学校の校門に向かう角、上木戸跡碑の真向いに明治24(1891)年創業の今福屋(うどん・そば)があり昼食に立ち寄りました。
11時17分、今福屋(左側)

079 今福屋・土産
 ※今福屋(立ち食い風のお店)
079-1 今福屋
一度店の中に入ったのですが、立ち食い蕎麦店風で、食べた後ゆっくり出来ないと判断し、店内を見ただけで外に出て先に進みました。
今福屋から約60m歩くと桶川市役所入口交差点があり、交差点の右側角に桶川宿碑が建っていました。
11時25分、桶川宿碑(右側)

080 桶川宿碑
 ※桶川市役所入口交差点(直進)
081 桶川市役所入口交差点
交差点を渡って約650も歩くと、埼玉トヨタの先にネッツトヨタ埼玉があり、社屋の先に桶川市から北本市に入る市境標識が建っていました。
11時34分、市境標識(桶川市から北本市)

082 北本市市境標識
市境標識から約450m歩くと右側のくら寿司北本店の真向いに大きな家が建っていました。
豪邸は旧東海道を歩いた時も幾つも目にしていますが、この家は旧中山道の豪邸にランクインすると思います。
 ※街道の豪邸(左側)

083 街道の豪邸
豪邸から約70m歩くと、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が地下部分を走っている二ツ家交差点がありました。
11時40分、二ツ家交差点(直進)

084 二ツ屋交差点
また、二ツ家交差点は、貞観11(869)年に創建された古社加納天神に通じる道の分岐になっていました。 
 ※旧天神道・分岐(右折)

085 古道・天神道
二ツ家交差点を過ぎると昼食時間となり、Mさんと話しこの先にある手打ちうどんかとんかつのいずれかにすることにしました。
そのようなことを話しながら差点から約650m歩くと、左側に昼食候補の店にしている手打ちうどん店がありました。
 ※手打ちうどん「けやき」(左側)

086 手打ちうどん・けやき
うどん店に立ち寄ると、店の入口に「臨時休業」の貼り紙があり、ご縁がなかったと諦め、もう一つの候補になっているとんかつ店に向かいました。
うどん店から約750m歩いたネッツトヨタ埼玉の先、とんかつ彦家の手前の路地入口でMさんが男の人に声を掛けたので、手助けでもするのかなと思いながら「何かありましたか?」とMさんに聞くと、「資料に掲載されていない石碑があるので、少し動いてもらいました」と云って、ブロック塀の脇に立っている石碑を指差しました。
石碑はどのような物か分かりませんが、手彫りの石碑で、年数を経ているため記録に残しました。
12時00分、手彫りの石碑(左側)

087 石像
石碑から約40m歩くと、とんかつ彦家があり昼食に立ち寄りました。
《昼食》
12時01分、とんかつ彦家(左側)

088 とんかつ・彦家
 ※至福の一杯・生ビール
088-1 生ビール
 ※ロースとんかつ定食
088-2 とんかつ定食
とんかつは軟らかく、ころもはサクサクに揚がっていて、合格点のとんかつで、Mさんはお代わり自由のご飯をお代わりし、私は茶碗一杯で満腹になりました。
12時50分、とんかつ彦家発
生ビールで咽喉を潤し(Mさんはアルコール拒絶症のため、Eさんのみです)、エネルギーを補給し、午後の旅に出発しました。
店を出ると道路真向いの家の門が長屋門だったので、街道の記録に残しました。
12時51分、長屋門のある家(右側)

089 長屋門のある家
とんかつの彦家から約270m歩くと本宿交差点があり、交差点を真っ直ぐに渡った左側に北本宿碑が建っていました。
12時56分、北本宿碑(左側)

090 中山道北本宿碑
北本宿は慶長9(1604)年に宿駅が鴻巣に移転するまで宿場でした。宿場が移転してからは本宿と呼ばれ立場として間の宿として賑わったそうです。
北本宿碑から約170m歩くと、左側に子育て観音の観音堂が建っていました。
12時59分、観音堂(左側)
091 観音堂
 ※境内に13仏像が祀られていました。
091-1 13佛
観音堂から約350m歩くと多聞寺交差点があり、交差点を右折するとそのまま参道となり、山門を潜ると境内に埼玉県指定の天然記念物「ムクロジ」が植生されていました。
13時04分、多聞寺(右側)

092 多聞寺
多聞寺は万治4(1661)年に創建された寺院です。
そして境内に植生されているムクロジは、根回り7.5m、樹高27m、推定樹齢200年で、実の種は羽根つきの黒玉になります。
 ※ムクロジ(境内)

092-1 ムクロジ
多聞寺の隣りに一級社天神社があり、立ち寄りました。
13時07分、一級社天神社(右側)

093 一級社・天神社
天神社は学問の神菅原道真を祀っており、寛文2(1662)年に名主の岡野家が、京の北野天満宮を勧請したものだそうです。
 ※天神社・本殿

093-2 天神社・本殿
 ※算額・解説
093-3 算額・解説
算額とは、和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことで、当天神社には横178㎝、縦88㎝の算額が明治24(1891)年に奉納されているそうです。
同じ敷地の中に、稲荷神社が祀られていました。
 ※稲荷神社

094 稲荷神社
一級社天神社を出て進行左側に道路を渡り約40m歩くと、同じ交差点名の多聞寺交差点(同じ交差点名が二つ続いている)を左折して、江戸期初期の中山道(古道)を歩きます。
13時13分、古道分岐①=左折
※目印=メガネの水島手前、右側はドラッグセイムス

095 分岐(左折)
左折すると、約30m先の右側に春乃家自転車預り所があり、これに沿って右折します。
※古道分岐②=右折

097 分岐(右折)
右折して少し蛇行する感じで真っ直ぐに約180m歩くと、北本駅東口駅前ロータリーに出ます。
※古道分岐③=直進

098 街道案内
※北本駅東口
099 北本駅
北本駅東口ロータリーを歩き、ロータリー内の道路を横切り(交通安全のため北本駅前交差点を渡ります)、りそな銀行左側の道路を進みます。
※古道分岐④=直進
100 街道案内
りそな銀行に沿って建物の左側を歩き、約350m進むとJR高崎線の東間踏切があり、左曲りして踏切を渡ります。
13時20分、古道分岐⑤(東間踏切)=左曲り

101 高崎線踏切
古道は東間踏切を渡ったところで、右折して線路沿いに進みます。
※古道分岐⑥=右折
102 分岐(右折)
東間踏切を渡った処を右折し、小田急マンションを左に見ながら約240m歩くと、左側に日本橋から11番目の馬室原一里塚の案内標識(白丸印)が建っていました。
 ※一里塚案内標識

103 一里塚案内標識
標識に沿って約30m進むと、左側に西塚が現存されていました。
13時25分、011馬室原一里塚(左側)
104-2 馬室原一里塚
一里塚は西塚(埼玉県指定史跡)が残されており、塚上には稲荷の小祠が祀られていました。
東塚は明治16(1883)年に高崎線の敷設により取り壊されたそうです。
 ※馬室原一里塚・解説

104-1 解説
一里塚から古道に戻り約270m歩くと、左側ブロック塀に囲まれるように馬頭観音が祀られていました。
13時30分、馬頭観音(左側)

105-1 馬頭観音・場所
馬頭観音から約800m、JR高崎線の線路に沿って歩くと、第二中山踏切のあるT字路となり、右折して踏切を渡ります。
13時40分、古道分岐⑦(第二中山踏切)=右折

106 分岐(右折)
 ※第二中山踏切(渡って直進)
107 第二中山踏切
第二中山踏切を渡って約140m歩くと、右角に珈琲館北本店がある交差点となり、左折して進みます。
中山道の古道はここで終了です。
13時42分、古道分岐⑧=左折

108 分岐(左折)
古道分岐から約400m歩くと、左側にほっともっと北本深井店があり、店舗の前に北本市から鴻巣市に入る市境標識が建っていました。
13時47分、市境標識(北本市から鴻巣市)=左側

109 鴻巣市市境標識
市境標識から約20m先に深井二丁目交差点があり、右折すると古社加納天神に通じる道の分岐になっていました。
13時50分、旧天神道・分岐(右折)・・・白矢印方向

110 古道・天神道
深井二丁目交差点を右に旧天神道を眺めながら真っ直ぐに渡ると、左側に鴻巣宿加宿上谷新田碑が建っていました。
13時51分、鴻巣宿加宿上谷新田碑(左側)

111 鴻巣宿加宿上谷新田跡碑
新田碑から約260m歩くと、金剛院に通じる道があり、右折しました。
13時54分、分岐(右折)
112 分岐(右折)
金剛院に行く手前に公園があり、公園の中に富士山本宮・浅間神社が祀られていました。
13時55分、浅間神社(右側)

113 富士山・浅間神社
浅間神社の左隣りに八幡神社が祀られていました。
13時56分、八幡神社(右側)

114 八幡神社
八幡神社の境内は公園になっており、ベンチに腰掛け、Mさんが持参されたお菓子を食べたり、水分補給などで一服休憩しました。
13時57分~14時05分、休憩(八幡神社前の公園)

115 休憩
休憩後、公園の直ぐ裏にある金剛寺に向かいました。
14時06分、金剛寺(右側)
116 金剛院
資料に霊験あらたかな「お首さま」、「お耳さま」が境内にあるというので探しましたが見付からず、墓地に解説パネルが建っていたので、その付近を記録に残しました。
 ※お首さま
116-2 お首さま像?
 ※お耳さま
116-5 お耳さま像?
寺院を出て街道に戻り約120m進むと、左側にひな人形の広田屋があり、店の前に長寿橋のモニュメントが設置されていたので、Mさんと交互に橋を渡りました。
14時14分、広田屋・長寿橋モニュメント(左側)

117 長寿橋モニュメント
 ※広田屋のショーウインドに飾られたひな人形
117-2 広田屋のひな人形
広田屋から約230m歩くと、左側に鴻巣市産業観光館があり、立ち寄りました。
14時18分、鴻巣市産業観光館(左側)

118 鴻巣市産業観光館
観光館は、旧雛屋歴史資料館で、鴻巣市の代表産業である「ひな人形」等を展示している。
 ※土蔵

118-1 土蔵
 ※ひな人形①
118-2 館内展示
 ※ひな人形②
118-5 館内展示
観光館から約200m歩くと、本町(南)交差点があり、交差点を真っ直ぐに渡った左側に、「是よりこうのす宿碑」が建っていました。
14時27分、鴻巣宿碑(左側)

119 鴻巣宿碑
※鴻巣宿について
鴻巣の地名は「国府の洲」や「高洲」、そして鴻の宮(鴻神社)の鵠鳥伝説に由来しており、慶長7(1602)年本宿村の宿場をこの地に移し鴻巣宿になった。
松山街道と日光裏街道の追分を控え、宿内の上市場、仲市場、下市場の三か所で、毎月4と9の日に交代で市が立ち、大いに賑わったそうです。
天保14(1843)年の中山道宿村大概帳によると、鴻巣宿の宿内家数は566軒、うち本陣=1軒、脇本陣=1軒、旅籠=58軒で、宿内人数は2,274人(男=1,132人、女=1,142人)、宿長は17町(約1.9㎞)でした。
宿碑から約230m先に進むと、右側に武蔵野銀行があり、真向いに左に入る道があり、左折して約90m歩くと正面に勝願寺の山門がありました。
14時31分、勝願寺・山門左側)

120 勝願寺・山門
参道を進むと屋台が軒を連ねていました。
120-1 境内
参道を進むと右側に仁王門があり、門を潜って中に入ると正面に本堂があり、本堂の左側に真田信之(幸村の兄)に嫁いだ小松姫のお墓がありました。
今年はNHK大河ドラマ「真田丸」が放映されている影響もあり、大勢の人が見にきていました。
14時37分、小松姫の墓石(境内)

120-4 小松姫の墓
小松姫の隣りは、信之(幸村の兄)の三男の信重と信重の妻のお墓。
 ※真田信重と室の墓所

120-5 真田信重夫婦の墓
一番左側に信州小諸城主だった仙石秀久のお墓がありました。
 ※仙石秀久の墓所

120-6 仙石秀久の墓
徳川家康が深く帰依し、葵の紋瓦を許したそうです。
 ※本堂屋根の葵の紋瓦
120-7 勝願寺の三つ葉葵の紋
勝願寺から街道に戻り約350m歩くと、右側に大田生花店、左角に大黒屋種苗店、一方通行出口標識のある路地を左折して、鴻巣御殿跡を見に行きました。
14時46分、分岐(左折)

121 分岐(左折)
分岐を左折して約220m歩くと、右側に「東照宮入口」と記された石柱と「御成町集会所入口」の看板が掲げられた細い路地を右折して進むと、正面に鳥居と東照宮が祀られていました。
 ※分岐(右折)

122 入口標石
14時50分、東照宮(右側)
123 鴻巣御殿跡
 ※鴻巣御殿跡・解説
123-1 解説
鴻巣御殿跡(東照宮)の帰路は、真っ直ぐに街道に戻らず「東照宮入口」石柱を左折して約80m戻った十字路を左折。
 ※分岐(左折)

124 分岐(左折)
約60m先の十字路を右折。
 ※分岐(右折)

125 分岐(右折)
分岐を右折して約約110m歩くと左側に仲町会館があり、会館入口に本陣に祀られていた猿田彦大神がありました。
14時55分、猿田彦大神(左側)

126 庚申塔
猿田彦大神の隣りに建設記念碑が設置されており、その文中に本陣跡地のこが記されていました。
 ※仲町会館建設記念碑(左側)

127 本陣跡を記す碑石
建設記念碑から約40m歩くと街道に合流し、左折して進みます。
左折した角に「サッシーのぐち」の前に野口本陣跡碑が建っていました。
14時55分、野口本陣跡碑(左側)

128 野口本陣跡碑
さらに約40m進むと左側に魚常があり、ここが旧脇本陣の跡とのことです。
14時56分、脇本陣跡(左側)

129 脇本陣跡
脇本陣跡から約100m歩くと、今日の旅の到着地である「鴻巣駅入口交差点」に到着しました。
14時58分、鴻巣宿・鴻巣駅入口交差点着
130 鴻巣駅入口交差点(到着地)
《帰路》
今日の旅の到着地である鴻巣駅入口交差点に到着し、持参した到着を記した看板を掲げて写真を撮る到着式を行い、今日の旅を終えました。
鴻巣駅は到着地の交差点から約290mの処にあり、乗車する電車を14時20に決め、トイレに立ち寄りました。
すると「次は14時07分発、特別快速小田原行きです」と放送があり、これなら乗れるということになり急いでホームに下り入線してきた特快に乗車しました。
Mさんは特別急行(特急)と特別快速(特快)を勘違いしていたようです。
都心に向かう電車のため、ほぼ満席に近い混雑で、何とかMさんと別れて座ることができ疲れた体を休めることができました。
15時07分、高崎線鴻巣駅発
131 鴻巣駅
帰路は一番安価なルートということで、鴻巣駅 ⇒ 浦和駅 ⇒ 南浦和駅と朝と同じルートで帰りました。
途中、浦和駅の乗り換えは大変で、鴻巣駅で座るために前2両目に乗ったため、階段まで走り、階段を走る移動となり、ハアハア云いながら階段を上った時に到着した電車に乗りました。
また、大宮駅近くになると雨が降り出してきました。
Mさんと、「旅の途中で降られなくて良かったですね」と喜ぶ一方、この先の降雨はどうなるのだろうと心配しながらの帰路になりましたが、家に着くまで傘を必要とすることはありませんでした。
【総括】
今日は一日薄曇りで、気温もそれほど上昇しなかったため、汗を流すことなく歩くことができました。
また、道中は古中山道を歩くために分岐した以外(江戸期は少し蛇行する程度の道だったようですが、現在は直角に曲がったり、踏切を渡ったりしなければ歩けないように変わっています)は分岐することなく真っ直ぐに歩きました。
江戸期は、見通しの良い真っ直ぐな道だったのですね。
最後に天気予報より早くに降雨となりましたが、家に着いて30分も経たないで傘が必要になるような雨が降ってきたので、間一髪の差でした。
【次回の予告】
次回の第4回「旧中山道二人旅」は、
実施日=12月11日(日)
行 程=鴻巣・鴻巣駅入口交差点~熊谷・筑波交差点
歩程距離=約16.8㎞
を計画しています。
街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/